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私の文章とハンカチ【エッセイ】

『大風呂敷をひろげる』という表現がある。大きな計画を吹聴して話をひろげるという意味だが、実はホラを吹くにも度量というものが必要だ。ひろげた分だけ回収しないといけないからね。大きなことを成す人物というのはこの風呂敷がバカでかい。まぁ回収の仕方もその分 雑なんだけれども、そういう人には世話好きな人が集まるもんだ。

対して私はホラ吹くにもどうも風呂敷ほどの大きさにならない。その規模はハンカチくらいのサイズと言っても良いかもしれない。

そんな小さなハンカチをひろげ、そしてちまちまとたたむ、そんなことの繰り返しだ。

このnoteにしても話題のスケールとしては小さなものばかりだ。思い出話、日々感じたこと、子育ての日々など。それらを虫眼鏡で観察したようにお話しするのである。嬉しかったことや悲しかったことを小さく切り取った文章と言える。
特に嬉しかったことについてはなるべく大切に書くこと様に心掛けている。
なんかね、人は歳を取ると悲しいことで泣くより嬉しいことで泣くことの方が多くなる。
笑って涙を流せる人生は幸せだ。

しかし幸せでない時もある。下を向いて歩き、立ち止まる。それでもいつかはそれをも笑うのだ。

思うに全ての感情の波はゆくゆくは涙になる。それは胸の奥の方の熱となって消えたかと思っても、どこかでいつまでもくすぶり続けるのである。あとは笑うのである。
涙を拭ったらまた笑うのが人生だ。

小さなハンカチの様な文章。

有益なお役立ち情報を大勢の人に向けて発信する。そんな大層な理由があるわけではない。
だからといって小さな文章に意味がないという訳でもない。

言葉は形のない情報という存在だけにあらず。『言葉をかける』という表現があるように誰かの為にそっとかけることができる音の響きの集大成でもあるのだ。

なら文章は?

文章は言葉を形にした留めたものである。
小さなハンカチ程度の大きさの私の文章は誰かの感情を拭う為にここに存在するのである。

そういえば去年の夏、私が汗をかいて作業をしている時に娘がハンカチで私の額を拭ってくれた思い出がある。嬉しくて涙が出たら、今度はまぶたを拭ってくれた。
ハンカチは本当にいろんなものを拭ってくれるものだと感じた。

そこには汗も涙も差はない。さも手を洗った後の水滴を拭くかのようにサッと拭ってくれる。嬉しいアイテムだ。そんなハンカチはいつも私達のポケットの中に存在する。

拭うべきものがあれば迷わずに差し出すのだ。多少汚れてもいい。そのような文章を書いてさ、人に差し出すことが出来たなら少しだけ人生に色が出てくるように思う。

私にとって文章とはハンカチに近しい存在なのだ。

#エッセイ #note

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