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共感とオリジナリティ

人の共感とは何だろうね。ふと考えた。

例えば文章で人の心を揺さぶりたいのなら、人の心に突き刺さるようなそれでいて共感を得られるような物語を描かないといけないらしい。

そして且つオリジナリティ溢れる文字列で読者を圧倒できる人間でないとダメらしい。なるほど、、

見たこともない文章表現を目にすることで今まで気付かなかった自分を感じられる事ができたのならそれは相当な驚きだろう。心も揺さぶられるだろうし、言葉が刺さりもするだろう。全くもって正しいと思う。

しかしだ、この矛盾はいったい何なのだろうといつも私は思う。

気付かないだろうか?
オリジナリティとは"独自性"の事である。個性やキャラと言ったほうが分かりやすいだろうか。
他に居ないようなキャラで他に無いような話を書き、多数の読者から「分かる!共感できるよ。心に刺さるなー」と言わせなければならないと言うのである。

「無茶を言うな」と私は言いたい。

それのどこに共感できる要素があると言うのだ。
自分とは明らかに感性が違った人間が明らかに突拍子もないことを言うのだぞ。
理解すら難しいはずだ。
もしそれで共感ができるというのであれば、信じたくもないだろうが、実は貴方自身は"感性が違うと信じていた側の人間である"ということだ。

◇◇◇

実際に今から突拍子もない事を書くから読んで欲しい。もしこれで深く共感できたならあなたの頭は相当オカシイと疑った方が良い。

「毛先のちぢれが毛虫になる頃 赤いトマトが紫のじゃが芋をついばむ。青白い電燈がグギグギと身動ぎ足首に巻かれた腕時計が勢いよく三三七拍子と叫んだ。ああどうしてこの時計は反時計回りにでんぐり返るのだ。ペトリコールペトリコール雨の虫が石から這い上がる。おはようと眉毛がしゃべった」

全く意味が分からない。狂ってる。
ドグラ・マグラ的なチャカポコチャカポコ感がヒドい。
まずこれを書いた本人が理解していないし、適当に書いたのだから当然だ。
とてもじゃないが これが理解できる人と私はお友達になれるとは思えない。

◇◇◇

とまあ冗談まじりに酔狂なことを書いたが、実は 大なり小なりこれと同じことをしている人が世の中には多いのである。

オリジナリティを出そうとして奇抜に走ろうとしているのである。しかしそれはただの変わり者である。芸ではない。
それどころか芸から遠ざかってすらいるのである。
ではどうすれば良いのか?

答えは単純だ。貴方がいたって普通だと思っていることを当然の様に書けば良いのである。

「それではオリジナリティに欠ける」なんてことは考えなくても良い。
なぜならわざわざ頼まれてもいない胸の内を文字にして書くという行動を起こしている時点で貴方は相当オリジナリティ溢れる人間だからである。

フェイスブックが流行った時、私も周りの人と一緒に興味本位で始めた。しかし一年も経過しようとする頃、仕事でもないのにフェイスブックで何かを発信している人間は極々少数になっていた。
極端に言うと子供を愛でるか、ペットを愛でるか、飲んでるか、政治思想を叫んでいるかだ。それだけの違いである。

だから安心して当然だと思っている普通のことを書けば良い。どんどん薄い層を重ねる様に書けば良い。

◇◇◇

「そんなこと言ったってそれじゃありきたりな文章にしかならないよ」と貴方はなげくかもしれない。だったら思う存分になげけば良い。
一切の希望を捨てよ。
それでも続けよ。

そして、いつか貴方は気付くだろう。貴方の当然がそれほど世間一般では当然ではないということに。

人間は千差万別だ。親子兄弟でさえ考えが違う。

人それぞれの当然は実は恐ろしいほど違うのだ。

いずれ分かりあえないことに気付く。

すると読者も気付く。
違うと。

そこからが始まりだ。分かりあえない先に孤独があって、孤独の先で人は音を鳴らしているのである。

そして鳴らした音の深さは沈んだ孤独の深さに比例する。

◇◇◇

読者は物書きが描く当たり前の世界の先に孤独を見つけ、自分の孤独と照らし合わしているだけである。

誰かにとって当たり前の世界は誰かにとっては特別な世界である。特別の先には独自性があってそのまたもっと先に孤独がある。
そしてその孤独を垣間見ることだけが唯一の共感なのである。

また逆説的な話をすれば、貴方だけの世界だと思っているその世界は実は貴方だけの世界ではない。
誰もが知っている世界なのである。

この矛盾を受け入れる準備が出来た時に はじめて人は客観視できるのである。

#エッセイ

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー