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フォロワーではなく読んでくれる友達を大切にしてください【エッセイ】

先日ある方からツイッターDMが入った。それは私が最近始めた『あなたのnote読みます』企画への応募だった。実名は伏せるがすこし思うところがあってnoteを一つ書くことにした。

その方は自身の職場の編集部が運営するブログサイトに日々の思いを寄稿しているとのことだった。だがしかし、おそらくその意味を見失ってしまったのだろう、私に3つの記事を読んで欲しいと依頼してきた。なぜその3つだったのかはどうやら彼女も分かっていない様子だった。

依頼された記事は一見バラバラの内容の様にみえた。

それは大きく分類して、地元の子育てサークルで感じた母と子供の関係性をつづったもの、アイヌの文化に対する興味を書いたもの、通りすがりの花の名前を偶然知ってしまった話、その3つだった。脈絡があるのかないのかもわからない。しかしやがてその方の素性を聞くことで見えたことがあった。

ルーツだ。

「あぁ、、あなたは自分のルーツを知りたいと願っているのですね。3つの記事は全てルーツにまつわる話に帰結します。」私は一つの仮説をたてた。

母と子の関係性は生命のルーツをたどるもの、アイヌの文化の話は祖先というルーツをたどるもの、通りすがりの花の名前を偶然知って感動したのも、きっとその花のルーツを知る取っ掛かりがその名前にあることに気付いたからだろう。

その方は海外の血を引いていた。おそらくは二世か三世なのだろう。

その後、驚かれた様子で私との会話を続けられた。実際は短文でのやり取りだったが、あれは間違いなく会話だったと思う。そこからはスピーディな展開だった。私は以下の質問を投げかけた。内容は「職場の人とお茶を飲みながらでも文章を読み合ったりしていますか?」というもので、返ってきた答えは「いえ、お茶を飲んだりしながらフランクにやり取りすることはありません。文字の間違いをチェックしたりだとか、記事の方向性を皆で確認・共有したりはしますが、、」というものだった。

その回答を受けた私は「それは校正だとか、チームでのワーク確認の話であって、純粋に人の文章を読むという行為とは全然別のものだ」ということを説明した。

結論として分かったのは、その方は文章のチェックは受けていても、文章の内容自体はあまり読まれていなかったのだ。読まれていたとしてもそれは仕事としてだった。だから純粋に読まれることを欲したのだろう。自身の胸の内を読みとって欲しかったのだと思う。その環境はとてもつらかっただろう。


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この話は特別な話ではなく、実は多くのnoteユーザーに当てはまることではないかと私は感じた。

フォロワーを多く欲するというのもその最たる例だと思う。一人でも多くの人に読んでもらいたい。それ自体は自然な欲求であると思う。でもそれは裏返しの欲求でもあるのだ。本来は多くのフォロワーに読まれることよりも誰か少数でもいいから、本当に読んでくれる友達を大切にした方が良い。でもそれが見つからないから幅を拡げたくなっているのである。

友達は見つけようと思ってもなかなか見つかりはしない。人生の関わりの中で自然と芽生えるものだからである。だから焦らずにゆっくりと誠実に人と接してほしい。そうすればきっと出会えるはず。その第一ステップはまず読むことだ。


この『あなたのnote読みます』という企画、私も全部が全部読めるわけでもないが、まだこの企画は閉じずに続けようと思った。


#あなたのnote読みます #エッセイ

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー