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唯物論者におもいきって宗教をすすめてみる

今の時代、特に日本はそのような傾向が強いと思うが、例え、唯物論者だと自称していなくても意識していなくても、宗教というと何か胡散臭いというか、ちょっと不気味な印象を受ける人は少なくないと思う。

そこで、ここでは入信をすすめるまでいかなくとも、その思想を生きていくうえで役立てたりだとか、入信をしているような人が周りにいる場合に恐れたり敬遠したりする必要はないと、あえて宗教をすすめるようなことを述べていきたいと思う。(※信念のないような宗教があるとも思っているのでそれは除く)

代表的な宗教といえばキリスト教がまずあげられるだろう。信者数は20億人を超え、世界最大規模の宗教である。この宗教をできるだけ簡単にわかりやすく説明してみる。一番の特徴としては「罪」が中心にある。つまり、人間とは全員が罪を背負った罪人であり、それが神の愛によって許されている。キリスト教と聞くと十字架に張り付けられた男性が思い浮かぶかと思うが、本来なら全人類がそのような罰を受けなければならないそうだ。そして、その罪を全て背負って身代わりになってくれたのが、この十字架に張り付けられたイエス・キリストなのだそう。この宗教は、自分は罪深き人間だと自覚し、このイエス・キリストを救世主として神の子として信仰する限り、天国へいけるというようなものである。

いきなり自分達が罪人といわれてもピンとこないだろうし、反抗したくなるかもしれないが、事実として、私たちは罪を犯さずに生きていくことはできない。生きている以上、人を傷つけることもあれば、嘘をつくこともある。また、気づけていないだけで、もしかしたら自分がいなければ、自分が生きていて受けてきた恵みを、他の誰かがもらえていたのかもしれない。こう考えていくとどんどんネガティブになってしまいそうにもなるが「謙虚さ」を大切にする宗教ということがわかるだろう。

また、こういう考え方もできる、自分が罪人と自覚していれば、他人の落ち度を責める気持ちは自然と減っていく。自分も許されているのだから、この人も許されるべきなのだと、「寛大」な人間がつくられていくのである。

自分は、ここまでわかって気になったのが、罪を自覚してイエス・キリストに従っていれば、何をしてもよいと解釈する人間が生まれないのだろうかということだった。ただ、今まで付き合ってきた人達を振り返ったり、また、自身の経験を振り返ってみて、そのような考え方は浅いと感じるようになった。

というのは、罪を自覚している限り、それ以上堕ちるということはなかなか考えられないとわかったからである。恐ろしいのは、罪を自覚しないこと、また、それすら正当化してしまうことである。他人を傷つけたり陥れたりする人、また歴史を振り返って残酷な迫害をしてきた人に共通するのは、まさに、この罪を自覚せず、それどころかそれを正当化している人達ではないだろうか。とはいえ、この人達もはじめからそうであったとは思えない。はじめは些細な罪をちょこちょこやっている程度だったのかもしれない。ただ、それにも慣れ、もっとひどいことをやるようになり、それすらも慣れ、どんどん感覚が麻痺していったのではないのだろうか。

このように考えていくと、このキリスト教というのは大変上手くできているなと感心した。付け加えていくと、よく「困った時の神頼み」という言葉もあるように、第三者からみると「結局神任せで自分では何もする気はないのかよ」と自分に厳しく生きてきた人ほど感じるかもしれない。ただ、少なくともこのキリスト教に限っていえば、そのような傾向はない。まず、推奨される神に対する祈りというのはあくまで「自分の罪が許されますように」ということであって、決して神任せであったり責任放棄しているわけではないのだ。

ここの部分もとてもよくできていると思う。神という大いなる存在なのだから、どんな隠し立てもできない。それだけ聞くと恐ろしくも感じるが、神は正義だけではなく愛に溢れている存在なのだから、その罪を自覚し悔い改めようとしている限り、それを許し天国行を保証してくれる。そのように考えていくと、素直に自分と向き合うことができ、少しでも善い人間になろうと前進していくのではないかと思う。また、その前進の仕方も、神という第三者を仮定しているのだから自分本位になる危険性も少ないと思う。

ここまで、「寛大」「謙虚」な人間をつくるとしてすすめてきたが、もう一つ大事なところがある。それは「誇り」のある人間をつくるところである。人というのは、非常に単純な面があり、周りの人間が例えば「こいつは悪人だ」などと言い続けていると、自身でもそう思うようになり、本当に悪人になってしまうのではないだろうか。そもそも、相手が何をしたにせよ、他人に対してそんなにしつこく侮辱する人間なんてろくな奴ではないかと思うのだが、そんな人のせいで悪人になってしまったらたまったものではない。そこで、このキリスト教である。

先程も説明したがキリスト教は「罪」の宗教であり、まず、この「罪」を自覚すること、受け入れることが天国に行く条件なのだ。そこで、この人はこれをきっかけにして「神」と向き合うことになるだろう。そして、神という絶対的な第三者の視点からも考え、自身の悪かったところ、改めるべきことに集中するだろう。そうしている中で、また他人に誹謗中傷されてもそこまで気にならないはずだ。なぜなら、罪を自覚しているのは心がきれいな証拠なのだから。罪を自覚すれば自覚するほどより高みに到達するのである。そして、キリスト教の教えとして、人に従ってはならない、あくまで神に従うべきなのだというものがある。尚更、悪人には耳を貸さないようになるはずである。このような段階を踏んで、誇り高き人生に向けて歩むようになっていくのではないだろうか。

このように、キリスト教は、自身とまた自身の神と向き合うものとして大変有効ではないかと考える。神を信じていなくとも、神という絶対的な存在を第三者として置いて考えることは有意義かと思う。自身の考えや行動を振り返る為に、また、これから新しいことに踏み出す時に何を軸にしていくか決める際など、活用してもらいたい。また、周りに信者がいたとしても気にすることはなく、むしろ、親交を深めた方が自身の成長のためによいかと感じるようになってもらえれば幸いだ。

また、身近で力になりたいがなかなか良い手が浮かばないと思った時に、自分なりに勉強して、こちらの話をしてみるのはどうだろう。恐らく、悪人に囲まれて疑心暗鬼な人生を歩んできた人ほど響く箇所が多いかと思う。

また、これはキリスト教に限った話ではないが、強引に勧誘している信者がいたら、それはその宗教の本質を理解せずにやっているか、その宗教自体が信念のないものかと思う。そのような人とは関わらなくてよいと思うし、それがきっかけで宗教に嫌な印象を持たれては残念である。(ここまで推しているようだけれど筆者は信者ではありません。。)

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