7話

海には波ひとつない。当たり前だ、防波堤なのだから。こんなものは海とは呼べない。とは思うが本当の海が何を指しているのかは分からない。頭が悪い癖に物事を恣意的に捉える所がある。余り好きではない悪い傾向だ。

大体にして夜なのだ。視点の先にはヨットだか漁船だか分からないような頼りない明かりがちらちら浮かんで見えるだけで海の全容は見えない。

とにかく暗い。

どうしてこんな時間にこんなところでひとりで座っていなければいけないのかも分からない。さっさと家に帰って明日の支度でもして早寝をしてしまえばいいのだろうけど、どうしてだか僕はここにいる。それにしても寒い。上着の下にもう一枚何かを着込んでくればよかった。

大人になればもっと明晰に物事を考えられると思っていた。ずっと付き纏っていたもやもやした霧は晴れて大海のような社会で自分の能力を活かせるのだと思っていた。しかし、能力などなかったのだろう。そもそも最初の一手を漕ぎ出す事もしなかったのかもしれない。ああ、だから防波堤なぞで座り込んで無為な時間を過ごしているのだ。虫はいないだろうな。僕は虫が苦手だ。冬だから大丈夫だと思うが、座り込んでいた地面に背負っていたリュックサックを曳く。

どうも気持ちが沈んでいかん。楽しい事を考えよう。女性の事が良い。高校の時の彼女の事でも考えようか。あれ。彼女なんていたっけな。いや、いるわけがない。僕は童貞だったのだから。でも、いたような気もする。定着した潜在的な妄想だろう。現実なのか夢なのか妄想なのか分からない。恐らくそのどちらでもあるのだ。思考は迷路の中で彷徨って方向を見失っている。馬鹿になってしまった磁石のようだ。どちらが北でどちらが南か分からない。おお、まるで世界を漂っているみたいじゃないか!感嘆詞をひとりで脳味噌に付けるようになったら危ない。もう訳が分からないところまできているのだろう。誰か後ろからポンと僕の肩を叩いて「おまたせ」って声を掛けてくれる女性がいないだろうか。いや、いないだろう。あり得ないだろう。可能性は皆無だ。逆にそんな事が起こったら怖い。事件性が高い。

振り向けばそこは闇夜である。音も無く静まり返った防風林の先に堤防はあるのだ。木々が音声を吸い取ってしまったように静まり返っている。曇り空で月は見えない。数十メートル先に国道が走っているが、さっきから一台も車は通らない。ここで夜を明かすのもいい。多少風邪を引くかもしれないが構わない。自暴自棄な訳ではない。明日は週末だし、それも悪くないだろう。

誰かの事を思いたいのに誰の事も思えなくなってしまったのはいつからだろう。誰かの側にいたいのに誰もそこにはいないのはどうしてだろうか。

暗がりでスマートフォンを開けば幾つかの連絡先が浮かぶけれど、その誰にも連絡を取れないような気がした。比喩的な意味だけじゃなく時間も遅いし、こんな時間に電話を掛けるのは非常識だ。昔、そうだな、本当に昔、好きな子と海に行った事があった。あの時は楽しかった。あれは本当にあった事なのだろうか。どれだけの事が目の前を通り過ぎて行ったのだろう。

車のヘッドライトが光って見える。こんなところに来るなんて、きっと恋人同士だろう。お邪魔だろうし不審者だと思われたくないからそろそろ行こうか。いや、でも俺の方が先にここに座っていたのだ。相手が幸せであろうと場所を譲る道理などない。そもそもこんな何もない場所は通り過ぎてもっと先に行けば灯台でもあるだろうから、その辺りのベンチにでも座って愛を語り合うのだろう。好きにすれば良いが。

夜は深くて静かでまるで何もないみたいだ。そこにはいくつかのものがあったというのにまた消えていくのだろうか。

いつかもっと大人になったら、また会えたらいいのにね。ってあの人は言ってた。

それも夢だったんだよ。
って独り言が聞こえた気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?