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よしなしごとを…

あの頃は楽しかったな〜とか、地獄やったわとか。頑張ってたな〜とか、バカやってたよな〜とか…齢を重ねると良くも悪くも過去を振り返る機会が自ずと増える。でも当時の僕は本当にそう感じてたんだろうか?自分に都合のいいように過去を美化してない?単純化してない?

これは行動経済学で説明できて、理屈は省略するけど要は「記憶は捏造される」ってやつ。最高に楽しかった時でも辛いことや悩みもあったはずだけど、公正には思い出せないらしい。あるいは思い出したくないだけかも。

確かに、昔はよかったな〜あの頃に帰りたい、とか思うけど、よくよく考えてみると「昔、あの頃」も似たようなこと考えてたのでは??いやいや、思い出が美化されていい思い出しか残らないなら、それはそれでむしろ幸せなことじゃない?うーん、そう言われるとそうなのかもしれない。

けど本当に幸せだった瞬間も実は記憶が曖昧でぼんやりした感情の輪郭しか思い出せない。手帳もない、日記もない。写真くらい撮っておけばよかったのに。

まあ今からでも日々の出来事や考えたこと、感じたことなんかを、美化しない等身大の自分として残しておくのもいいだろう。いつか読み返す日が来るかもしれないとか考えながら。

ただ、ブログやSNSは当然書く内容をある程度選別しないといけないし、無意識に自分を飾ろうとする。差別的な内容や偏見は当然タブーだが、加えて誰かを傷つけたり不快にさせることがないよう言葉も選ぶ必要がある。

ドロドロの心の叫びをストレートに吐露するのは難しい。公園で自分のウ●●を生のままばら撒くわけにはいかないでしょ。でいろんな装飾や検閲の結果、なかなか「偽りのない等身大の自分」というわけにはいかない。

じゃ日記に書けば?って話なんだが、これが続かなかったんだな〜。自慢じゃないけど僕の特技は三日坊主。日記帳、日記アプリ、全部続かなかった。怒りの気持ちを吐き出したい時なんかに紙ノートに書き殴りはするけど。

僕の考えるブログ、SNSの利点の一つが、他人が読む、読まないは別として、一旦公開したら誰でも読める状態に晒されるわけで、そこにちょっとした緊張感のようなものが生まれることだ。これがあるのとないのとでは張り合いが全然違うと思う。継続のモチベーションにもなる。そこに脱三日坊主の期待を託して…

さて、取り留めもないたわ言が長くなってしまった。そんなこんなで、気が向いた時に、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書いてみたい。