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最期の親父の誕生日から17年。

無口で怖い親父が唯一号泣した誕生日のお話。


ぼくが中学一年生の時、親父はガンになった。

テニスの国体に出るほどの実力があり、卵の殻をすり潰して食べたりするなど、独自の健康法を実践するほどの健康オタクだった親父で、その効果があったのか無かったのか分からないけれど、風邪を引いたところはほとんど見たことがなかった。

そんな親父がガンになっちゃったもんだから、ガン細胞も健康的に?スクスクと育ってしまい、手術で摘出したと思ったらあっという間に転移がみつかり、「末期ガンです」という宣告をされてしまったのだ。


そこから筋肉質だった親父はみるみると痩せこけていき、なんと自分の足で立つことすらできなくなった。ぼくも看病のために学校を途中で早引きして病院に行き、体のふしぶしが痛むってことなんで、とくに足を重点的にさすったりしていた。

実は医者からぼくらにこっそり告げられていた親父の余命はとっくに超えており、「いつ死んでもおかしくない」状況であった。そして、おそらく最後の誕生日になるだろう日をむかえて、最後は病院じゃなくて家族水入らずで楽しもうってことで自宅で誕生日会をひらいた。

その頃はもう身体を自分で起こすことすらできない状態だったから、親父は寝たきりで、とくにワイワイやるわけでもなく、テレビをじ〜っと見続けたり、ふつうに家族一家団らんで話しそうな「そうそう、今日学校であんなことがあってね」という会話をしたりした。

最後に、サプライズでぼくたちから親父に誕生日プレゼントを渡した。12月だし、これから冷え込むってことでニット帽にした。


涙腺の水道管が破裂しちゃったんじゃないかってくらい、親父は突然声をあげて泣き出してしまった。親父の涙なんてみたこともなかったから、とっても動揺してしまった。

小一時間は泣いていたんじゃないだろうか。泣きながらなにかをずっと話していた。その間はだれに語りかけるでもなく、なにやら無口な親父が日頃秘めていた余生への想いを吐き出しているようだった。

ほとんどが聞き取れるような内容ではなかったのだけれど、なんとか聞き取れてそして印象に残った言葉があった。


「自分のやりたかったことに挑戦しなかったことがほんとうに悔しい。」


親父は建設会社ではたらくサラリーマンだったのだけれど、実はパイロットになりたかったみたいだ。たしかに、親父の実家の昔のおもちゃとかをみると飛行機が多かった。大人になってからもプラモデルをつくったりしていたけど、これまた飛行機が多かった。

しかし、結局パイロットになる夢は挑戦することなく諦めてしまったようだ。もう20年以上も前の話だったみたいだけれど、ほんとうに後悔しているようだった。



それから2ヶ月後に親父は星になった。最期はもう意識もなく、とっても苦しそうだったので、正直はやく楽にならせてあげて欲しいって思ってすらいた。死んでからのお通夜、告別式、埋葬、帰宅までは数日間あったはずだけれど、今振り返ってみるとわずか30分くらいに感じるくらいあっという間だった気がする。

親父がいなくなったという事実がようやく身体に浸透してきたときに、「あぁ、自分はもう親父に親孝行ができないのだろうか」と考えたことがあった。

そんなときに親父の「自分のやりたかったことに挑戦しなかったことがほんとうに悔しい。」という言葉が脳内再生された。


「自分のやりたいことに挑戦することが親孝行」



そう考えるようになり、高校時代に初めて本気でやりたいと思ったバンドに挑戦し挫折。それから夢がみつからずに会社員をやってみるもなんかしっくりこなくて、婚約までした彼女もいるのに、夢を探す旅にでて、「アフリカ」と出会った。

25歳、婚約中、東証企業でエリート出世中。まあ冷静にかんがえたらゼロからのアフリカの道にハンドルを切ることはしないだろうけど、「自分のやりたいことに挑戦することが親孝行」というモットーがそれを後押ししてくれた。



今日、12月12日は、そんなキッカケをくれた親父の誕生日。

あれからもう17年の月日が経ったようだけれど、あの頃の親父が吐き出してくれた想いは、ぼくの人生のコンパスになっているよ。


誕生日おめでとうございます。

これからもあっちからどうぞ息子の面白い人生を見守っていてください。



人生賭けてアフリカで活動中ですが、ご飯を食べないと死んでしまいますので、いただいたサポートは僕の燃料として大切に使わせていただきます。