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「次の方、どうぞ」(4) 魔法の匙

「きっかけは、十八になってすぐの家出だったんです」
 そのご婦人はハンカチを握りしめながら、悲痛な表情で足元を見つめたまま話し始めた。
「これも親の教育に原因があるのかもしれないのですが、とにかく今現在の悩みは食事をとろうとしないことなんです。世間様になんと言われようと、わたくしはあの子が、キヨシロウちゃんが、生きてさえいてくれればいいんです、先生どうか」
 世間様、か。久しぶりに聞く言葉だ。最近はそんなものを気にする親はなかなかいない。体面を気にしながらも自分の主張ができるというのは、このご婦人のこれまでの生き様が垣間見えるようだ。それは決して年齢だけが織りなす結果ではない。
 に、しても、だ。目を潤ませて訴える先に、私がいるというのはどうだろう。これは明らかに精神科領域の話であって、しかも本人不在のまま場末の町医者に診断しろというのは、いささか博打に近い話ではないか。
 「まぁ・・・落ち着きましょう、ソノダさん」
 スズキは興奮状態にあるご婦人をいったん落ち着かせ、とりあえず話を聞く態勢に入る。
 「で、何も口にされないと?」
 「いえ、何も、というわけではないのです。その、キヨシロウちゃんは昔っから好き嫌いが激しい子ではあったのですが、それまで好物だった牛肉に見向きもしなくなったり、絶対に食べなかったちくわを何度もねだったり、そうかと思うと翌日はちくわを一切食べずに投げ捨てたり・・・私、もう、どうしていいか」
 牛肉を食べなくとも問題はないと思うのだが。ふと、興奮とともにご婦人が握りしめている手の中に、ハンカチだけでなく小さな写真があることに気づいて、声をかけた。
 「折れてしまいますよ」
 「あぁ・・・あぁ、すみません、本人がどうしても動けないものですから、せめて一緒に先生のお話をうかがえたらと思って・・・」
 一所懸命に写真のしわをのばす姿は、柔らかな赤ん坊を扱う時の仕草とよく似ている。
 「・・・キヨシロウさん、ですか?」
 満面の笑みでご婦人はうなずいた。スズキは一瞬、言葉を失うが、すぐに我にかえった。・・・なるほどね。ちょっと深呼吸をする。うん、・・・なるほどね。
 「ソノダさん、ご期待に沿えず残念ですが、ご本人なしでの診断はやはり難しいのです」
 なるべく事務的に断りを入れる。ひきつった顔で、とびかからんばかりの勢いで立ち上がる婦人を制して、スズキは早口で続けた。
 「ですが、これ、先だってやはり食事がとれなくなった方によく効いた魔法の匙を差し上げましょう。何、これは医療行為ではありませんから、お代もいただきません。これを試したうえで、また様子をお知らせください」

―――翌週、診察の合間に、マユミが一枚の写真入りハガキを持ってきた。
 「先生、ソノダさんからお葉書、届いてますよ。魔法のお匙は効果がありました、って。それにしても、なんでこーんな、よぼよぼの犬の写真なんでしょうね、牛肉食べてますよ?」
 「そりゃ、大事なキヨシロウくんでしょう・・・まぁよかったですね」
 きょとんとしたマユミに、ヒトも犬も、年をとるのは大変だ、とスズキはごちた。
 「次の方、どうぞ」

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