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「次の方、どうぞ」(6) 忘れる

「これがね、最初の手術の跡」
 女は左耳に髪の毛をかけると、右手をうなじに沿わせ、髪を束ねて寄せた。長く伸ばした爪がきれいにうなじの生え際をつたうと、それだけで官能的なポーズになるのはどうしてだろう。この視線の落とし方は、女優という職業のなせるわざなのか、本当に考え込んでいるのか。沈みがちな、あやうげな雰囲気をこれでもかと漂わせている。
 「デビューしてすぐの事故だったから、もうだいぶ経つわね」
 左手の指二本で耳介を折るようにすると、ぼんやりと薄茶色の線が見えた。少しいびつに浮かび上がった傷跡を左手の人差し指がうっすらと撫でる。そう大きな傷でない。
 「それからこれが、最初の薬。左手がしびれるようになって二週間でやめた」
 小さな錠剤が三種類、小さなポリ袋に入っている。この女が刑事ドラマで、証拠品として「鑑識にまわしてちょうだい」とでも言いそうな。
 「次の薬は、聴力が戻るどころか耳鳴りが悪化して」色違いのカプセルが入った袋。
 「その次は信じられないけど失明しそうになったのよ、まわりがみんな黄色に見えて」錠剤二粒と顆粒の組み合わせ。「これは顎が開かなくなりかけて、一週間でやめた。さすがにセリフが言えないのは致命傷だから」錠剤とパッチシール。「それから・・・」
 次々と手持ちのバッグから薬剤を取り出すたびに、彼女の表情が嬉々として明るくなる。明るくなるにつれ、目じりの小じわも、細かなものを取り出す指先にも、彼女の負ってきた時間の重みを感じさせるようになっていく。もし大物の女優は独特のオーラを放つというのであれば、彼女は間違いなくそうだと言い切れる。先ほどまでの伏し目がちな雰囲気を一掃するほどに華やかなオーラを放ち始めた。これを貫録と言わずになんと言おう。
 「術後二十年も経ってから聴力が落ち始めた時にはずいぶん悩んだわ。それからこうやって、何種類も薬剤を替えては副反応が出て中止して・・・私、それでも女優の仕事はこなしてきたのよ。この年までね。左耳なしでも、気配がわかれば、不自由なかったから」
 しかし、話の途中からあなたの左側に立つマユミの気配を、あなたはいっさい感じ取っていないでしょう、と指摘したくなるが、それは口にしない。
 「いまさら聴力を取り戻したいとは思わないの」
 だとしたら、なぜ薬剤を飲むことをやめようとしないのか。
 「でも先生なら、何か考えてくださるんじゃないかと思って、ね?」
 その、人を射抜くような視線と艶やかな笑みで、どれほどのものを手に入れてきたのだろう。スズキはこの国のほとんどの人が知っている名を口にし、握手を求めた。
 ベッドに横たわる女性の耳の手術跡を改めて観察すると、いくつものためらい傷があった。形を変えた自傷行為なのだ、とスズキは思う。経口薬剤の副反応で、命を落とすことなど、そう頻繁に起こるわけではない。しかし気持ちのどこかで、それを期待していたのではないか。いい女優だった、という記憶の中だけで、老いていくことなく、聴力を失いかけていることを知られることもなく、今、幕を引いてしまえたら、と。
 スズキは耳裏の皮膚を薄くはがすと、傷跡にのせた。ぺたり、と薄いシールのように傷跡に貼りついて、まるで吸い込まれるように同化していく。傷を隠したところで、記憶が消えるわけではない。しかし、ほんのひと時であっても、彼女が忘れてしまえばいいだけのことだ。年を重ねても、音を失っても、女優としてそこに「いる」ために。
 「次の方、どうぞ」

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