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「次の方、どうぞ」(7) ケツの穴

「オレァね、いつ死んでもいいんだよ、いつ死んでも」
 それは、こんな深夜にわざわざ医者に出向いて言うセリフじゃないだろう、とスズキは思うが、黙ってその男の話を―――わめき声を聞いている。肉体労働で鍛えたであろう肩の筋肉は落ち、それでも肩幅も厚みも十分にあるだけに、こけた頬が、猶更やつれて見える。
 「だけどよ、でかい病院の先生様が言うには、なんとかってウイルスにやられてるってんだよ、オレの、ほれ、なんだ、肝臓がよ」
 自分でシャツをまくり上げた腹には、古い手術の跡があった。
 「がきン時に、はらいたで手術したんだ。そン時に輸血して感染したんじゃないかって言うんだ。知るかよ、そんなもん、何十年も経って、今頃言われてもよ」
 吐き捨てるように言う語尾が小さく消える。ランニングシャツ一枚で診療所にやってくる勇ましさが似合っていたのは、さっきまでのこと。
 「それで・・・肝臓の手術はもう、できねぇって・・・」
 もう、目の前にいるスズキに話しているのではなかった。「先生様」に言われた言葉を、今になって改めて確認しているのだろう。腹をさする手の甲は、日焼けをしていてもそれとわかるほどに、黄色い。「いつ死んでもいい」男の目はおどおどと、迷子になった子どもが泣くのを我慢している時と何も変わらない。
 「黄色い顔見りゃ心配するだろ、だから顔あわせらんなくてよ、おふくろが待ってるうちには帰れねぇんだ、がきン時の手術のせいでよ、おふくろのせいじゃないのによぉ」
子どもなら泣きわめけば済むものを、まったく、大人になると、なんて手がかかるんだ。
 「あのですね、薬剤での治療法というものもありまして・・・」
 仕方なしにスズキは説明を始めるが、男の泣き声はひどくなるばかりで、おさまらない。スズキは少し強い口調で語りかけた。「あの、手術が」
 男は、はっと顔をあげてスズキを見た。なるほどね。こういう時、人の耳は一番聞きたくない言葉しか聞き取れないんだな、と改めて思う。大声で泣く男がしゃくり上げるのを待って、スズキは極めて事務的に伝えた。手術が最善の治療法とは限らないんですよ、と。
 ここでできることは、だるさを取り除く灸をすえることぐらいだが、と前置きし「そこにうつぶせになってください、キムラシンノスケさん」とスズキは男の肩に手を置く。涙の跡も乾かない男は、横になると同時に気を失った。うつぶせに眠る男のステテコをずり下げると、むきだしになった尻を、ばちん!とスズキは思いっきり、ひっぱたいた。尻に真っ赤な手形がくっきりと残るほど。
 ・・・みんな、虚勢を張って生きている。おそらく彼は人一倍強く見せようと、実際強くなろうと、これまでの人生を生きてきたに違いない。その姿を母親に見せるのが幸福であったのに、それがついえたのは、母親のせいだと言われている―――と思い込んでいる。
母親の一発の方が、効き目があるんだがな、とスズキはじんじんとしびれた手のひらをじっと見ながら思う。どうせ母親は、全部、お見通しだ。体調も、気の小ささも、みんな。
 「すごい音がしましたけど、大丈夫ですかぁ?」受付の小部屋からマユミが顔を出した。
「あぁ、平気。いや、なに、ケツの穴が小さいのはこの男に限らないんだけどね。少し穴を広げれば、気が大きくなるかな、と」
 自分のケツは、自分じゃたたけないからね、とスズキはカルテにペンを走らせる。
 「次の方、どうぞ」

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