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クマゼミ 2024

 仕事に出向いた幕張メッセ周辺で、クマゼミの鳴き声を耳にして、驚いたのは数年前のこと。この驚きをオフィスに帰って伝えたところ、同僚に「話題がニッチすぎてついていけない」とあきれられたこともセットで思い出す(別にこれを理由に退職したわけではないが)。
 わたしの驚きは、「西日本のセミ」が関東で鳴いていることにあった。
 地球温暖化の象徴として、その住まいの北限が上昇していることがしばしば話題になるが、木々の輸送が昔よりは容易になったこと(木の根の周辺に幼虫がついていく)や、クマゼミの顎の強さ故(固い地面に潜り込んだ幼虫が、地上に出てくることができる)など、その北上理由には諸説あると聞く。必ずしも温暖化「だけ」が理由ではないことも想像できる。
 うすらぼんやり「数年前」と書いているが、バーチャルではない展示会に出かけていたということは、コロナ禍もやや終盤になりかけた2022年頃のことだろうか。当時、北限はむろん、千葉をこえていると聞いてはいたが、リアルに「いる!」という実感はわたしを打ちのめした。
 酷暑の今年、2024年、わたしは朝の通勤途中、芝離宮前を通るようになった。絶賛クマゼミ中。変な日本語だが、朝のクマゼミの鳴き声が、すさまじい。独特のクマゼミ合唱は、文字では「シャウシャウシャウ」、時雨れる雨音のような、もうちょっと生活音に例えると揚げ物音のように聞こえる。これが東京タワーのふもと、東京都心のただなかの日本庭園のクマゼミである。その数、たまたま迷い込んだ1匹の声ではない。

 8月後半の朝日新聞に、御年76歳愛媛県在住のご婦人が「子どもの頃、クマゼミはこんなに多くなかった」と投書しておられた。彼女は今年、朝の涼しいうちにしかクマゼミが鳴かなくなった、酷暑の影響らしいと書いている。素晴らしいシチズンサイエンスであり、これぞ日本人の感性という気もする。
 少なくとも60-70年前、四国には「それほど多くなく」、わたしの子供時代40-50年前の東京で、その声を聞くことはなかった。初めてクマゼミの合唱で起こされた30年ほど前の大阪には、ものすごい数がいた。15年ほど前の兵庫生活では、午後でも鳴き声を頼りに、子どもたちとクマゼミ捕りをしていたことを思い出す。わたしひとりが見聞きした感覚だけも半世紀にわたる経時変化を語れるくらいだ。そして2024年の今、東京は芝離宮で合唱が聞こえ、葛西臨海公園でも(ソロ鳴きではあったが)鳴き声を耳にしている。

 折しも今年は北米で「13年ゼミ」と「17年ゼミ」の同時発生が見られていると聞く。221年ぶりの素数ゼミ同時羽化である。大音量すぎて「騒音」らしい。素数ゼミの話を聞くにつれ、その環境を祝いたくなる。少なくとも都内下町の我が家周辺の住宅事情を思えば、13年前の幼虫が「舗装されずに」土から這い出してこられる場所が、確実に減っていることを実感するからだ。空地も、小さな植え込みのあるお宅も、土のままの公園も。ましてや「17年前のまま」の場所が今、どれだけあるだろうか。
 もともとの広さが違うと言われればそれまでだ。だが米国の一定地域には、素数ゼミが生まれ、繁殖し、また13年か17年を待つという時間が流れている。少なくとも東京は、そんなにも短い時間すら生き物の世界を保てていない。防災の意義は尊重しながらも、妙に納得してしまうのだ。こんなに生き物のサイクルを短くしているのだから、そこに暮らすヒトが息苦しくなるのも、当たり前なのではないかと。

 東京周辺の「そのへんにいるセミ」の声は、変わっていくのだろう。よくドラマの背景音には、夏の象徴のようにセミの鳴き声が使われる。盛夏はミンミンゼミ、晩夏はヒグラシ、といった具合に。それがもしかすると、単なる時代の効果音に成り下がる日がくるのかもしれない。
 あるいはセミの鳴き声を聞き分けたいと思うわたしのようなのが「ニッチすぎて」、ただ変人度合いを極めていくだけだろうか。   2024.09.01.


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