見出し画像

「次の方、どうぞ」(9) 白い壁

「う・・・ううまく、こと、こと言葉が、出ない、です」
 何度も何度も何度も瞬きをしながら、スズキにむかってその青年は言った。
 そして、くるりと同席した女性に向き直ると、「まゆたぁん、ぼくやっぱりだめだよぉ、説明なんかダメダメで全然ぴーだよ、たのむよぉまゆたん」とえらい早口でまくしたてた。 まゆたんと呼ばれた女性はなだめるように、大丈夫、あっくんならできる!と芝居がかった口調と大げさな身振りで励ましている。
 ・・・スズキは言葉をかけるタイミングを見失って二人のやりとりを眺めていた。こういうコントが最近の流行なのか? 女性の頭についている髪飾りはネコの耳に見えるが、何か関係があるのだろうか。しばらく意味不明な、早口の会話が交わされた後、女性がやはり早口で唐突にわめき始めた。
 「つまりぃ、知らない人っていうか、他人っていうか、私じゃない誰かっていうか、話をしようとすると、うまく言葉が出てこなくて、困っちゃうって感じでぇ、にゃんっ」
 ・・・あ、今のは症状の説明だったのか、と気がつくのに十秒かかった。それにしても最後の「にゃんっ」というポーズも症状の一環なんだろうか。気になることが多すぎて、うまく言葉が出ないのはこっちの方だ、とスズキはいつになく混乱する。
 「ご本人は症状の説明も難しいということかしら?」
 呆然としているスズキに代わって、いつになくとげとげしい声でマユミが尋ねた。
 「だからぁ、うまくしゃべれないんだって、言ってるでしょーにゃんっ」
 オタクと呼ばれる人たちに、悪いヤツはいないと、最近「サブカル特任教授」とやらの肩書を得た友人が言ったのを思い出す。彼らは誰かと争ったり競ったりすることが嫌なだけなんだ、と。実際のところ、誰にも迷惑をかけてないだろ? オタク文化が認められればそれが経済効果だって生み出すんだぜ、なんで白い眼で見られなくちゃなんないんだ?
あぁ白い眼、か。なるほどね。いちいちポーズをとる女性にうんざりしたスズキは、患者より先に女性に声をかけた。「マユミさん?」
 「はい」「にゃん」二人の女性の声がかぶる。二人は顔を見あわせる。マユミは目を吊り上げ、女性は芝居がかった笑みをうかべた。獣どうしの無音の鳴き声が聞こえたような気がして、スズキは慄然とする。できることなら、今すぐここから逃げ出したい。
 「あ、あぁ、いや、その、付添いの方、・・・スズキマユミさん?」
 声をかけながら女性の肩に手をおく。倒れかけた女性をマユミに引き渡した。目の前で女性が気を失うのを見て、患者は突如、スズキに殴りかかってきた。目に涙を浮かべて細い腕を振り回す患者は「なにすんだ、こいつぅ、おれのまゆたんをぉ」・・・なんだ、ちゃんと喋れるじゃないか。患者の細い腕をいなしながら声をかける。「大丈夫、アンノアツシさん」 
サブカル肩書の友人は続けた。でもな、マイワールドのためなら奴らも戦うことはあるんだぜ。誰だって自分のアイデンティティーのためなら、多少の無理はするだろう?
二人の患者をベッドに並べると、スズキは「ぞうきん」とマユミに指示を出す。自分の世界をつくるのは自由だ。けれど、人は「社会」で暮らしている。だとしたらその壁は澄んでいる必要がないか? 外が見えない壁の中で暮らすなら、相応の覚悟がいるはずだ。
彼らの目を覆う、白く濁った小さな壁をぞうきんで拭くスズキに、マスクの下のマユミの声は届かないらしい。「まったく!なんなの?あの名前!」
やけになってマユミは叫ぶ。
「次の方っ、どうぞっ!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?