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#003 「と」について。

「と」が気になる
僕の耳には、よく助詞がまとわりつく
助詞は動詞や形容詞以上に「意思」を表現する言葉だと感じるからだ

助詞が耳につくということは、どういうことか
相手の発した言葉に含まれる助詞と、その前後の品詞により表現された一連の印象をAとした場合、そのAという印象と、目の前で言葉を発している相手に対して抱く感情とにズレを感じるからだと考える

では、そのズレは「僕の考え」なのか「相手の考え」なのか?

言葉は無意識に自身の感情を表現する手段として用いられる
それゆえ、その助詞を用いたということは言葉を発した本人の意思であると言える

ではなぜそれに言葉を受けた側が違和感を感じるのだろうか?


「と」とは、並立助詞である
数式で言えば等号にあたるわけだだが、僕の中では等号だけの意味ではない
ノットイコールのような否定等号のような意味合いも含みうる

つまり、「と」だけでは、わからないのだ
さらに言うと、自分が「と」を発した時に、その「と」は果たして等号としての「と」なのか、否定等号としての「と」なのかすら、気づいていない時もある

こうして自分自身が発した助詞に対しても立ち止まってしまう



と、いうことを書いたのが、2021.04.28のオフライン日記。

こうした足跡活動を始めたことで、ふと思い立った。
それで、今まで膨大に溜め込んでいたオフラインの言葉たちをなぞりかえしてみたわけだ。

そこで、この過去の自分の思考と今の自分の思考との差異を感じた。

過去の自分の思考。
言葉は無意識に自身の感情を表現する手段として用いられる
それゆえ、その助詞を用いたということは言葉を発した本人の意思であると言える

今の自分の思考。
言葉は無意識に自身の感情を表現する手段として用いられる
>>ただし自身の感情を的確に表現するには、言葉は常に言葉足らずでもある。
それゆえ、その助詞を用いたということは言葉を発した本人の意思であると言える
>>このロジックは、後件肯定の誤謬に陥っている。
「と」が感情を表す言葉ならば、それは助詞である
「と」は助詞である
ゆえに、「と」は感情を表す言葉である

というわけだ。
すべての「と」が感情を表す言葉ではない。たとえそれが助詞のように使われていたとしても。


これは、すごい変化だ。
そしてこれは、或る人ととたくさん話をして、たくさん言葉をやりとりしてきた中での自分の変化だと感じている。
その人は、ときどき助詞を間違える。
いや、間違えるというのは、適切ではない。
でも、この「と」問題をオフライン日記に書いていた頃の僕だったら、「違う、そうじゃない」と感じていただろう。


でも、何度も何度も言葉をやりとりするなかで、いつの間にか、この助詞を間違えるという思考がほどけていることに気づいた。
そう、言葉は自分の思い通りにならないことも多々あるのだ。だからこそ、言葉を尽くしてやりとりをするのだ、と。

つまり、僕がかつて感じていたのは、「助詞の間違い」による意思のズレではない。「言葉を尽くしているか否か」による感情のズレだったのだ。


昨日は、こんな言葉をもらった。
『思えば、出会った頃には言語過敏で言葉が出てこない時もあると言っていたっけな、、なんて思いだしたよ。そんな事言っていた人が、音声配信してるんだからね!』

そう。
今僕は、音声配信をしたり(正確にいえば、してもらっているわけだが)、こうしてオフラインに認めていた文字をオンラインに貼り付けていたりする。

僕をいつもじっくりと観察しているその彼女は、
『あなたの進化は相当すごいなと感じるよ』
と言う。

その言葉に、「あなたのおかげですよ」と心の中でつぶやく。
そして続けて「そこは進化というと、意味が限定的になりすぎるかな」というツッコミをしたくなる。笑

ツッコミを入れられるというのは、心理的安全性が高いからだと感じる。
そうして、間違いという言葉が、ただの文字列としてゲシュタルト崩壊する。



今日もこうして、
言葉が引く境界線の彼方此方をけんけんぱ。




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