見出し画像

30歳の自分へのメッセージは「怖がるな」。カリスマ経営者の父にはないアトツギの強みで勝負する!

昭和49年に創業し現在は愛知県小牧市に拠点を構える 信光陸運株式会社。日々異なる物流の波動に柔軟に対応できる運送会社として取引先の信頼を勝ち取り、運送業一本で事業を拡大してきた。

今回話を伺ったのは3代目、神田明大さん。神田さんが継ぐ少し前からは倉庫事業にも着手し、順調に業績を伸ばし続けている。
カリスマ性のある偉大な父の姿を見ながら、周りから比較されるプレッシャーを感じたこともあったという神田さん。
しかし着実に目の前の課題に向き合い成果を出すことで、少しずつ自信をつけていった。その過程を聞いてみた。

一度は銀行員へ。俯瞰して見たからわかった、父の偉大さと自分が成すべきこと

スクリーンショット 2021-01-28 7.15.56

ー  早速なんですが、神田社長が信光陸運さんに入社されたのはいつ頃だったんでしょう。

神田: 27歳か28歳くらいの頃ですね。今42歳なので約15年ほど前になります。実際に社長を継いだのは36歳のときで。元は祖父の代に創業したんですが、2代目である父は、なかば祖父と共同経営者という感じでやってきていた会社でした。

ー  神田さん自身は、以前から継ごうと思っていたのか、最初は継ぐ気はなかったけど、だんだんとその気になっていったのか……。どっちでしょう。

神田:正直、自分は継ぎたいとは思っていなかったですね。でもどこかで、継がなくちゃいけないんだろうな、という気持ちはありました。

うちの父は、すごく厳しい人だったんで、怖かったんですよ(笑)。子供の頃は、帰ってきたら、玄関で膝をついて入りなさいだとか言われて育ちました。今でも正月はそうして挨拶したりもするんですけど。そのくらい、厳格な人で。

なので10代、20代の頃はあんまり父と深く会話した記憶もなくて、どちらかというと母と一緒にいるような子どもでした。

ー すぐには継がなかったんですね。学校を卒業してから入社されるまでは、何をなさっていたんですか?

神田:特にやりたいことがなかったので、合同の就職説明会などに参加して、結果的に金融機関に入りました。でも今になって思うと、銀行に入社したことはすごく良かったなぁと思っていて。

ー 銀行が企業に対してどんなことを見ているのか、とか学べますもんね。

神田:そうですね。当時今から16~7年前というのは、あまり景気が良くなかったんです。僕もいろんな経営者の方にお会いしましたが、事業全体が落ち込んでいるお客様がすごく多かった時代でした。

そういった中にもかかわらず、うちの会社はトラックの台数や車種が増え始めていたり、街中を歩いていてもうちの会社の車をよく見かけるようになったり。

世の中の景気が減退傾向にある中で、うちの親父、なんかすごい頑張ってんなぁって思ったんです。で、いよいよ景気が悪い中、まさか倉庫まで建てるっていうんですよ。親父はなにか他と違うのか、でも何が違うのか。そんなことは思っていましたね。

そしていよいよ父から「お前、いつ手伝うんだ」と声をかけられまして。でも選択肢は「イエス」か「はい」しかない状態で(笑)

ー そうですよね、お父様からしたら絶対にそれしかない(笑)。

神田:心が定まっていなかったのでずっとはぐらかしてきたんですけど、2か月後くらいにまた「お前、あれどうなったんだ」って言われて。もう逃げられないなと。すぐに支店長に報告をして辞めた、という感じでしたね。

でももしうちが単なる運送会社だったら、継がなかったかもしれないです。父が倉庫事業という足がかりを作ってくれて、運送会社から物流会社へ変わる礎があったので。継ぎたくなるような会社を作ってくれていた、というのは大きな魅力でした。

自分はその機能を使ってどう事業を拡大するのか。それが一番大きなミッションですね。

比較されるプレッシャー。既存よりも新規の開拓に力を入れた

画像2

ー  怖くて避けていたお父様と一緒に働いてみて、最初はどうでしたか。

神田:それが父と一緒に仕事をして、僕は初めて父を尊敬することができたんです。

いろんな社会人を見てきましたけど、仕事にかける情熱、思いの強さ、行動力っていうのが、自分の父親がずば抜けて良かった。銀行での経験で、少なからず経営者の方には会ってきたつもりでしたけど、あまり父のような人はいなかったですね。

そうすると、厳しいだけ、怖いだけの父親からのイメージが変わってきました。一緒に仕事をして、僕の受け止め方が変わったという感じ。

そうして35歳の正月に、父親から「今年、変わるぞ」と言われたんです。

父親は、時代やデジタル化についていけないから、10年後の会社を考えたときに、後方支援できるうちに次の代にバトンを渡すことが必要だと思ったようです。

ー ある意味お父様は、おじい様と一緒にゼロからここまで耕してきたような方ですよね。そういう方から会社を継ぐというのは、相当なプレッシャーがあったかと思うんですが。

神田:入社した頃はありませんでしたが、36歳で実際に社長を継いだ時はプレッシャーを感じましたよね。

父親が僕と弟によく言っていたんですよ。「会社は長男で、お前たちは次男三男だ。それくらい大切なものだ」と。それほど大切にしてきたものを預かる、というのは重いですよね。

当然周りには比較もされます。既存のお客様は、うちの先代のことをよく知っているわけで。顔を出すと皆さん「お父さん元気?」って声をかけてくるんです。比較されるのが嫌で、既存のお客さん周りがあんまり好きじゃなかったくらいです。

だからこそ、自分のお客さんを作っていかないと、と思いましたし、新しいお客様の開拓を自分自身でできたことで、少しずつ自信にもなっていきました。


父が教えてくれた、「チャンスの掴み方」

画像3

ー ホームページを拝見したんですが、運送会社さんがオフシーズンのタイヤの預かりサービスをやられているってすごく面白いなぁと思って。あれはいつ頃から事業化されたんですか。

神田:倉庫事業がちょうど始まった頃ですね。きっかけはうちの父でした。当初は2,000本くらいのタイヤからスタートして、今ではもう12万本くらいあるんですよ。

ー すごいですね。よくそこに目を付けられました!という印象です。今までのお客様に提案をして始まった事業なのか、そうではなかったのか。

神田:取引先にタイヤの販売をする会社さんがいらっしゃるんです。ノーマルタイヤからスタッドレスタイヤにはめ変えるときに、なかなか持ち帰れない方が多いそうで、付加価値の一つとして預かりサービスをやりたいと、以前からお話をいただくことが多かったそうです。なのでうちから提案したというよりは、業務改善をお手伝いさせていただいた、というのが始まりですね。

ー なるほど。仕組みづくりをお手伝いさせていただいたって感じですね。

神田:そうなんです。しかも当初は取引先の各店舗に300くらいのタイヤがあったんですが、受注依頼をファックスで受け付けていたんですよ。繁忙期になると山ほどそのファックスが届いて返答するのに1,2日かかったり。ほかにもタイヤを倉庫から取り出すのを全て人力でやっていたので、腰を悪くして退職する社員が増えていたり。

このままじゃいけないなと。顧客満足度も、スタッフの働く環境も良くないと感じました。

なので、申込方法をWebでできるようにしたり、タイヤを自動で下ろすことができるシステムを導入したり。そうすることで、劇的に業務を改善することができたんです。

画像5

画像6

ー Web問合せのシステムは、タイヤだけでなく他のものにも転用できるし、ベースを作られたんですね。全部合わせると、投資額も相当なものだったんじゃないでしょうか。

神田:11億くらいだったと思います。この投資をするときはめちゃくちゃびびりましたね(笑)。

うちの父はイケイケで、やりたいばっかりの人だったんですけど、お金を返していくのは僕たちなので、最終的に導入するかはお前たちが決めなさいって言われたんです。

それで弟と一緒にうんうん唸りながら、事業計画と返済計画を作ってみると、これ厳しいんじゃないかという結論に至って、一度断ったんですよ。そしたら「お前、もう少し考えろ」と……(苦笑)。

ー 自分たちで考えろって言ってくれたのに(笑)

神田:そう。だからまた選択肢が「イエス」か「はい」しかなくなっちゃった(笑)。なので今回はイエスと回答して。

でもこのとき自分がまだまだだなぁと思ったのは、目の前にあるチャンスを、チャンスと思えていなかったんですよ。それは、すごく反省しましたね。

ー というと?

神田:あのときは、投資額があまりにも大きすぎて、ネガティブなことばかり考えていました。事業がうまくいかなかったらどうしようとか、タイヤがいつまでもあるか分からないとか。

でも立ち上げて3年経つわけですが、自分があのとき想像していたネガティブな状況は、何一つ現実に起きていないんです。

よく、チャンスはそこらへんに転がっている、それを気づけるかどうかは本人次第みたいな話、あるじゃないですか。全然ピンと来てなかったんですよね。

だからこの経験は僕にとってはものすごくいい教訓になったというか。本当に大きなチャンスだったのに、もしやっていなかったらと思うと……。

この時から、先代からの意見を、違う形で受け止められるようになった気がするんです。自分が正しいと思いがちだけど、そうじゃないかもしれないという側に立つと、見える景色も変わってくるというか。

後はなにより、お客様の期待に応えていくための品質向上や、働く方の作業環境を整えるための設備投資は、どんどんやっていかないといけないと、という学びにもなりましたね。


覚悟を決めた今、怖がらずに自分らしい経営スタイルを築いていく

画像6

ー いいお話の一方で、一番しんどかったことを挙げるとすれば、どんなことがありますかね。

神田:しんどかったのはやっぱり、「父が格好良すぎること」。いつもいいこと言うんですよ(笑)。そうすると社長があんなふうに当時言っていたのに、息子はこんなんでいいのかって比べられそうで……
でも一方で、うちの父がグワーって言っちゃうと、社員さんは黙っちゃうんですよね。トップダウンの経営だったから、自分の意見が言えなかった。それによって社員さんは苦しくなっていたところもあったと思うんです。当時は僕もその場から逃げてしまっていた部分はあると思います。

ー では社長が代わってからは、自分らしいリーダーシップというか、ボトムアップ型というか。そういうスタイルに代わっていったんですかね。先ほどから社員さんへのケアみたいな言葉がすごく感じられます。

神田:そうですね。まだまだ全然半人前なんですけども。

幹部や社員に関わらず、今働いている方々は自分より何事も詳しいので、一緒に問題を共有して、知恵を出し合う関係性の方がきっといいんじゃないかと思うんです。

やっぱり、共有するってすごく大事なことだと思います。いいことも悪いことも。なかなか現場の意見が言えない雰囲気が昔はあったので。そうなると、正しい判断もできないでしょう。そういう言いやすい環境づくりはしていきたいという風に思いますね。

ー そのお話が聞けただけで良かった。結局アトツギって、一人じゃ何もできないですもんね。では最後に一言だけ。今30歳の自分に声をかけるとしたら、なんてエールを送りますか。

神田:「怖がるな」ですかね。

今ようやくスタートラインに立てたような気がするんです。やっぱり初めは怖かったし、今でもそうです。でも社長という立場と環境が自分を成長させてくれたんだと思います。

経営者の覚悟は何かと聞かれたら、退路を絶つことだと考えているんです。社長にもしなっていなかったら、極端な話、逃げ道ができるじゃないですか。自分の場合は35歳という年齢で、覚悟を決められたことは良かったと、心から思います。

だから過去の自分には失敗してもいいから、怖がらずに挑戦し続けなさい、って言ってあげたいです。やってみたらどんどんノウハウがたまって、また次にいけるものなので。


信光陸運株式会社
https://www.shinko-inc.com/
愛知県小牧市新小木1丁目30番地

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?