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あの日の記憶を召し上がれ

Ⅱ 魔法使い

雲が大きな影を山に落とし、ゆっくりと風に流されていく。
夏の若々しい翠緑でもなく、冬の寒々しい深緑でもない。秋ならではの温かい藍碧色に染まりあがった山に真っ青な空が美しいコントラストを描きあげる。
本当におめかししているみたい。
先程の美南の言葉を思い出した。
その立ち姿が一枚の絵画のようで、ただ美しくて。
授業も聞かず、ぼんやりとその秋の芸術に頬杖を付いていた。

「露の世は露の世ながらさりながら」
「え?」
初めてだった。
休み時間に突っ伏さず、彼は透き通るような顔を机から上げて言った。
隣の席の奏君だった。
「え…?あの…」
思わず口ごもる。
「誰が詠んだ句か知っているか?」
「知らない…」
「小林一茶だ。今朝露が降っていたから。それを見て思い出した」
「その句に何かあるの?」
そんな私を見て彼はふっと顔を背け、私を遮断した。
興味が薄れたのか。自分の世界に戻ったようだ。

三時間目。
頭がぼんやり痛くなってきた。
ふと空を見上げると、先程までの高い空に黒い雲が広がっていた。
女心と秋の空とはよく言ったものだ。
気づくと細い雨が降ってきた。霧雨が激しく水しぶきを立ち上げながら私たちの視界を奪う。
「あ...」
こめかみを軽く押さえながらその一連の流れを見ていた私は、その真っ白な景色の中に確かに、見てしまったのだ。
建物だ。
見慣れたはずの山の麓に見たことのない小さな建物がぼんやり揺らいでいる。
思わず目を疑った。
毎日見ている景色だ。そんなはずはない。
だがはっきり見えてしまったのだ。
赤褐色のレンガに立派な煙突が立った可愛らしい建物。そんなものが突如現れたのだから驚くしかない。軽く恐怖さえ覚えた。
魔法…?
自分でそんな訳ないと思いながらも、そうとしか思えなかった。
するとさらに雨が強くなり、目の前のものが何も見えなくなった。
「すごい…」
前の席から美南がぽつりとつぶやいた。
「うん…」
決して私に言ったのではないと分かっていながらも、思わずつぶやいていた。
「ほらほら、集中しろー」
先生が野太い声をあげた。

気づけば雨は止んでいた。ノートのページも進んでいた。
ふと思い出したように窓の外に目をやる。
もう恐怖心はない。
「え…」
しかしそんな私の好奇心を裏切るように、消え去った雨の足跡とともに例の魔法は解けていた。
「ええ…」
待って待って。全然頭が追いつかないんだけど。
「夢…だったのかな」
そうだよね。ありえないもんね。
「夢じゃない」
ふいに隣から声が聞こえた。
「…奏君」
またこの感じ。ザワザワして。でもワクワクして。
どうしようもなく胸が高鳴るこの感覚。彼の魔法が私にかかり始めている。そのことだけは確かであった。
「この世には確かに幻覚というものが存在する。しかし、その幻覚を二人以上の人間が同じ瞬間に体験するなんてことはまずありえない。それが本当に存在する。そう考えるのが妥当だろ」
「じゃあ、奏君も見てたの?」
奏は静かにうなづいた。
「あのレンガの建物、何だったのかな?」
奏がどんな返答をしてくれるか、期待しつつも私は落ち着き払って言った。しかし彼はひとつため息をついて、顔色ひとつ変えずに淡白につぶやいた。
「気になるなら行ってみたらどうだ?」
「行く?」
奏にしては珍しいタイプの回答。そう感じた。勝手なイメージだが、もっと何と言うか、理論的で合理的な方法を編み出してくれると思った。それがまさか、こんな行き当たりばったりだなんて。だがそう感じさせてくれる辺り、さすが私の好奇心の満腹中枢を刺激する存在だ。
「それが一番だとは思わないか?」
「そうだけど…」
奏は先程思い出した俳句のことなど忘れた顔で山の麓を眺めていた。
あの句の意味にまだ決着はついていないのに。

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