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あの日の記憶を召し上がれ

Ⅲ 感傷的なヒロイン

「よいしょっと」
リュックを背負って教室を後にする。
高校生ともなれば、帰りにホームルームをするために教室で集まることもなくなる。
それゆえに階段は一時通行ラッシュに陥る。
爽やかなユニフォームの白。鼻先を撫でる柔軟剤の甘い香り。耳元を追い越していく笑い声。
私はこれが嫌いではなかった。
ただ、そのラッシュも下駄箱まで来ると静寂に呑み込まれる。
遠くの方から笑い声やカウントする声が聞こえるだけで、後は私の足音しか聞こえない。
これも嫌いではなかった。
感傷的な気持ちに浸りつつ、一歩一歩アスファルトの地面を踏んでいく。
やっぱり部活動に入ってもよかったなぁ。
そう思う日もあるけれど、何だかんだこの一人の帰り道が好き。

「かほこちゃん」
「藤宮さん」
白いポロシャツを爽やかに着こなした美南が、後ろからスポーツシューズで駆けてきた。
「部活……だよね?」
「そう! 今から」
背中にテニスのラケットを引っさげて言った。
「頑張ってね」
「ありがとう。かほこちゃんも気をつけてね」
そう言って、美南は最後まで爽やかに笑顔を振りまいて行った。
かほこちゃん。
藤宮さんに初めて呼ばれた。
そんなことがすごく。すごく嬉しくて。
軽やかな足取りを必死にこらえて、校門まで辿り着いた。

「あ……」
浮かれていた。
返却日が今日の本を教室に置き忘れてきた。図書館の物だし、遅れるわけには。
そう思って歩いてきた道を振り返る。
「……遠い」
独り言をつぶやき、諦めもほどほどに、私は来た道を引き返した。
教室の鍵を職員室で借りて、足早に教室へと向かう。
誰もいない教室に鍵を開ける音が響き渡る。
廊下に響くのも私の足音だけ。
さっきまでの騒がしさが嘘みたい。
何だか不思議な感じ。
机の中にすっと手を伸ばして、ひんやりとした本の背を引っ張り出す。
「よし。帰ろう」
またあの道を引き返すのか。
そう思った何気ない瞬間だった。
別に故意ではない。
ただ、ふっと窓の外を覗いただけのはずだった。
「え……」
まただ。またあの魔法だ。
赤褐色のレンガの建物。またお昼と同じ場所に。
それと同時に、ふと奏の言葉を思い出した。
「気になるなら行ってみたらどうだ?」
行く? でも……
でも気になる。
そんな自問自答を繰り返したあげく、好奇心に根負けした。
少しだけ。
ほんの少しだけ近くに行ってみよう。

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