見出し画像

朝焼の鯨


春は短し恋せよ乙女。
色気づいた季節はそう長く、
その美しさを留めてはくれない。

卒業式が終われば、
私達は女子高生という名の看板を下ろす。
その後に残るのは、
ただ等速直線運動で進んでいく時間だけ。

三月四日。
こうして私は、
時を浮浪するタイムトラベラーとなった。

次に控える春のために、
そして過去に清算をつけるために、
少しばかり時間が必要だった。

持て余す時間を、私は専ら散歩に充てた。

行先も目的も決めず、身軽なままに歩を進める。

しかし、そんな行き当たりばったりな道筋の中に必ず寄り道する場所がある。

国道から少し逸れた細い道に、
しなやかな一本の木が立っていて、
手前を浅い川が走っている。

何気ない日常の中で、
唯一季節を感じられる場所だ。

先日その木がようやく蕾をつけた。

眠っている白い蕾は、
あの小さな袋の中でこの世界に
どんな希望を抱いているのだろう。

何故か今の自分と重なって、
ふとそんなことに思い巡らせた。


限りがあるから美しい。

限りがあるから愛おしい。

古来から存在するその価値観は、
今も人間の根底に親しいのだろう。


来週ここへ足を運んだ時、
君達はもう散り去っているかもしれない。

私にはその事実が、
より一層この光景を愛おしいものにしていると思われた。


大丈夫。
君達が想像しているよりこの世界は
ずっと綺麗だよ。


早朝に目が覚めてしまうと、
再び夢に落ちることが出来ない。

諦めの混じった溜息を残し、
うそ寒い街を安定しない歩幅で巡る。

まだ薄暗い朝を裂くように、
ホームに電車が滑り込んできた。

私は理由もなしに切符を切った。

車内は夢中で小さな画面を弄ぶ大人で溢れていた。

その薄い光が覇気の無い顔を
不気味に照らし出している。

私は一人、窓の外を眺めていた。

いつか見た映画の主人公のように。


そのうちに瀬戸内海が顔を出した。
この島を島で在らせる大きな水溜まり。

空はまだ黒が解けた藍色をしていて、
ぼんやりと暁の足音が聴こえた。


この砂浜でズル休みをした
いつの日かを思い出した。


結局思い出は、昔読み込んだ懐かしい絵本のような存在にしておくのが良い。

思い出なんて、フィルターという加工が施されて「いつかのあの瞬間」という一枚の絵画に収まってしまうものでしかない。

鮮やかな記憶はいつしか淡い思い出となる。

だからみんな、「今よりあの頃の方が良かった」と口を揃えて言うのだろう。


その補正は恐ろしい程に効果的だ。


初めて学校をズル休みした日。

あ日の空は高かった。

ちゃんと宇宙まで繋がっていた。


名前のない夜に幕が下りた。

小刻みに揺れる古い電車は
朝に向かって走っていく。

朝焼けに濡れる睫毛は
音もなく境を超えた海を見ていた。

この水溜まりにいるはずもない大きな鯨が、
春の空気に跳ねて魅せた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?