坂口恭平100問100答 第14問 予感

14. 予感

坂口さんの「読み方」についてきいてみたいことがあります。意味を理解しながら読むのではなくて、次にくる展開を、感情を、「予感」しながら読んでいくという仕方です。僕にもなんとなくいっていることはわかるというか、実際に多少認識もしているのですが、これは立ち上げられている小説世界というか言論の場に対して、自分の身体や脳が先に予備動作を始めているといった感覚に近いものでしょうか。それぐらい自分が前のめりになっているというか、誰かの文章に対して「乗っかっている」かのようなときに僕は「予感」に近い体験を覚えました。そういう読書は幸せなもので、驚かされたり、感傷的になることも多い気がします。


答:

 僕はよく読書ができないと書きます。でも、僕の家にはたくさん本がありますし、本をいつも買ってますし、そして、本を読むのも好きではあります。読書が苦手というわけではないようです。あ、でも僕は小説が読めないんですね、きっと。読み通せた小説は、村上春樹の初期作だけだと思います。あとは全く読み通せていません。読んでいると、違うイメージが湧いてきてしまうんですね、それこそ『けものになること』みたいに、ある本を読んでいると、すぐに自分なりに解釈したというか、自分ならこう書く、という方向に突っ走ってしまう。『けものになること』はその自分なりの読書の方向性をそのままでいいんだ、それをそのままやってみたらいいんだと思ってやってみた結果です。『躁鬱大学』もその流れとも言えます。あれも『神田橋語録』というネットにアップされているPDFを読んでいて、色々と閃いたことを即興的に適当に書きました。読めないというか、読んでいると、その文章で、それに喚起されて、すぐに文章が浮かんでしまう。振り返ると、それは、何も最近はじまったことではなくて、元々そうだったんです。僕の最初の本は、絵本だったと思うのですが、絵本もほとんど読み通せていません。絵本を読んでいると、その絵本の中の時空間を感じて、それが頭の中に広がっていくみたいです。それに圧倒されるのではなく、その空間の中にいるのは楽しい、楽しくて、でもそれ以上に読んでいくと、僕が絵本を最初に読んだ時に広がった空間は狭まっていくんですね。知れば知るほど狭まっていく。ガルシアマルケスが百年の孤独の書き方を模索している時に、その自分が生まれ育った場所に実際にフィールドワークをしにいこうかと考えたが、やめた、だから一切見ずに書いた、だから書けた、見たら書けなかったと何かのインタビューで言っていたと思うのですが(だから本当に僕は本は読めるんだと思います。いろんな文章の断片は無茶苦茶頭に入ってますから。ただ本を読んでいる時に、読解をしようとかそういうことは一切考えないですね)、それを読んだとき、そうそうそんな感じ!と嬉しくなったのを思い出しました。百年の孤独も族長のなんとかも持ってますが、1ページ読むくらいで満足なんです。持っていることが重要。カフカ全集もありますが、一冊も読み通したことはありません。でも巣穴という小説が好きだなあとかそういうのはあります。巣穴は保坂さんも指摘している通り、僕の『現実宿り』という小説に大きな影響を与えた、と思いつつ、ふと考えるのは、あれはいつ買ったんだっけ、と僕は自分のtwitterのツイログを見直してみると、2015年5月27日に本棚に並べてます。僕がtwitterでなんでも書いているのはこうやって後で自分がいつどこで何をしたかを確認できるからです。僕はとにかく自分の読んだものをほとんど読み返さないですけど、でも、時々、あの時、どうしてたっけ、と気になる時があるので、アーカイブしておくことが必要で、twitterに書いてないことは一つもないくらいです。だから、とにかく思いついたら、どんなことでも全部書いておきます。そして、現実宿り、というタイトルが降りてきて、原稿を書き始めたのが2016年1月6日でした。だからカフカ全集が影響を与えていることは確かですが、でもほとんど読んでいないんですね。カフカ全集がもたらしたものは、あの文章の塊であって、文章の細かいところに僕は影響を受けているわけではないような気がします。で、巣穴という小説について不思議なのですが、巣穴のようなものを書きたいと思って書いたのか、書いた後に巣穴を読んだら、無茶苦茶巣穴っぽいな、と思ったんか、どちらかなのかちょっとあやふやな感じなんです。ベケットに関してはどうなんでしょう。これもツイログを調べたら、現実宿りを読む前に読んでいたのは、モロイと短編小説集の中の「なく」でした。このようにかなり断片的な影響ですが、しかし、これもなんというか、僕はカフカとベケットをそんなに読んでいません。でも二人とも今ではほとんど全部の本を持ってます。しかし、ほとんど読み返すことはありません。正直、すぐに眠ってしまうんです。でも、一文を読めば大丈夫、それはマルケスが百年の孤独を書いた時のように、生まれた場所に戻る必要がないんです、生まれた時に見た記憶の方が重要。で、僕もカフカを一文読んで、それで広がった世界の方が重要。それを確認するために、カフカをもっと読まなきゃいけない、とは少しも思わない。で、それが僕にとっての読書、なんです。それでも、それはもちろん、読書をしたとは言いにくい状態であるかも知れない、だって、城は冒頭しか読んだことがなく、でも冒頭で、僕の中に城が広がってますから、それで、僕としては十分なんです。しかし、それを「僕はカフカの城を読んだ」と人に断言するのは違うかな、と思ってまして、一応、僕なりの誠実な態度として、僕はいわゆる読書はできない、でも、本を「読む」ことはできる。むしろ、無茶苦茶「読む」ことができる。僕の場合の「読む」は読解するのではなく、先を読む、の「読む」なんです。スライダーか直球か、次に来る球を読む、占い師のような作業。つまり、パッと開くだけなんですね。そこを読むと、次の世界が見える、というやつです。つまり、書物占いってことなんですかね。よく知りませんが。実際にbibliomancyって言葉があるらしいですね。書物占いって意味らしいです。古代ローマの時代からあるので、これもこれで正当な本の「読み」方なのかも知れません。そう考えると、僕は読書ができます!僕は背表紙を読むだけで、その本を僕が書くことができます。けものになること、みたいに、興奮することが条件ですが。書きたい本は人の本だろうと、僕も書けるという感じです。そういう読書法ではとにかくやってきてますので、大変な読書家だと言えます。一文を読むだけで、それこそいのっちの電話の声を聞くだけで、電話の向こうの相手の人間関係の作り方、働き方、財布の中身まで一発でわかるのですが、それと同じような感じで、一文だけで、その文章の書き方だけで、僕はどんどん世界が広がっていきます。それこそ、いのっちの電話についてもそんな感じなんです。僕は声を聞くと、世界が広がります。その世界の中で、僕は顔を知らないことが重要な理由なのですが、僕の中に世界ができて、その世界の中で電話の声の主が立ち上がっていきます。僕の中で人物造形が一瞬でおこなわれて、そこで電話の主が動き始めるんですね。電話口ではいろんな悩み、絶望を話してくれているんですが、僕の中では元気なその人が動きはじめてます。僕がいのっちの電話で観察しているのは、その僕の世界の中で広がった、その人の元気な営みと、電話から聞こえてくる声の元気の無さの違いなんです。それでどうやったら、僕の中で元気に動いているその人(もちろん、これは僕の世界に広がった顔であるので、実際のその人とは違うはずなのですが)の声に、電話の向こうから聞こえてくるその人の実際の声を近づけていくか、これがいのっちの電話で僕がやっている方法です。調律しているような感じなんです。基本的に悩んでいる人たちは声がおかしくなってます。声の調子が悪くなっている。僕の中ではチューニングが狂っているような状態。そして、興味深いのは、チューニングが狂っていると、かなり声の個性がなくなります。つまり、調子が悪い人は同じような声をしているんです。でも僕の世界の中に広がったその人の声は十人十色的声なんです。つまり、全員違う。しかし、たとえば、いのっちの電話にかけてきた人の中で、売春をやっている人、もしくは風俗店で働いている人、これは女性ですが、声を聞いたら、一発でわかります。外れたことがありません。その人は性的に、少し調子を崩しているわけです。そうするとみんな同じ声になります。このように、統合失調症の方も同じ声になります。集団ストーカー被害に苦しんでいる人も不思議なことに同じ声になります。親との関係が悪いにもかかわらず30歳を過ぎても両親と同居している人も同じ声です。前の職場が嫌だったから転職したにもかかわらず、転職した先が嫌な職場だったから前の職場に戻りたいと永遠に後悔している人、家を買わなければよかったと後悔している人も全く同じ声になります。もちろん、それぞれに違う声です。しかし、風俗店で働いている人はそのような声、後悔が得意な人はそのような声、と僕は声で診断している感触です。声を読んでいる、とも言えるかも知れません。僕の場合はこの現実世界に存在している他人が作ったもの、たとえば本、声もそうですね、絵、音楽などは摂取するのは少しで十分です。少しだけ他人の制作物を感じると、頭の中にとんでもない壮大な世界が広がってしまいますので、それを僕が書くというだけです。だから、今日はゆっくり読書だけしよう、みたいな一日を過ごしたことがありません。映画はほとんど見ません。情報が多過ぎて、五分で寝てしまいます。ヘビメタの音楽を聴くと寝てしまう赤ちゃんみたいになるのです。映画は息子が大好きなので、彼が喜びそうなものをとにかく必死で探しているだけです。ゲームに関してもそう。僕は一人でゲームをしたことがありません。息子と遊ぶためだけです。ゲンが喜んでいると嬉しくなるので、なんとかゲームやってますが、1時間もしていると、眠くなります。原稿を書いて眠くなったことはありません。絵を書いて眠くなったことはありません。そんな感じです。他人の制作物を摂取していると、情報が多過ぎて眠くなります。なので、僕はよかったと思います。こんな人生で。僕は朝起きたら、どんどんいのっちの電話を折り返して、電話受けて、声を少し聞いたら、すぐに頭に浮かんだ、元気な時のその人の姿を、電話の向こうのその人にすぐに伝えます。どうすれば、その僕の頭の広がった元気なその人になれるか、厳密にいうと、その人の声になれるか、を調律します。はっきり言って、いのっちの電話で、僕は相手の訴え、苦しさ、を耳に入れません。これは批判されることも多いのですが、未経験者の人ばかりが批判し、経験者であるカウンセラーや医師からは結構、なるほどと言われます。耳に入れちゃうと寝てしまうので、僕はサクッと、自分の制作をはじめるという感じです。いのっちの電話は、傾聴しているわけではなく、これは明らかに僕の創造行為、制作行為です。僕からのかなり積極的な表現行為なんだと思います。もちろん、独りよがりに思ったことを伝えているつもりはないのですが。その人の声を聞いて(読んで)、浮かび上がった、その人の本来の元気な健やかな声についての情報を、その人に伝えているのです。予知能力ではありません。現在知能力かも知れません。

 さて、読書の話に戻りましょう。そんなわけで、僕の読書は、右から左に筋を読むのでは全くありません。だから、予感とも違うかも知れません。予感というと、その次に何がくるかを感じながら読む、ということですが、私は一文だけで十分で、予感どころか、はっきりとした世界が頭の中に広がって、風が吹き、水が流れ、動物たちは息をしていることに気づきます。だから予感ではないんです。それはどちらかというと確信であ理、はっきりとくっきりと世界であり、その世界が現実とは別に明らかに存在しているということが嬉しくなって、本なんかほっぽり出して、さっさとiMacの前にたちなさい、座りなさい、早く書こう、早く物語なんかじゃなくて筋でもない、早くその世界、その環境自体全部を書いちゃえ、と思っているので、なかなか落ち着いて本が読めないんです。でもむっちゃ占いのようには読んでいるはずです。なんといっても僕は本が好きです。本に囲まれているだけで、嬉しくて、馬鹿みたいに本を描きたくなってしまいます。読んでいる暇があったら原稿を書きたい。人の本は程々でいい。興味がないわけではありません。みんなのことは大好きです。

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