南方熊楠から坂口恭平の思想を読む

質問文 南方熊楠2


1.

坂口さんの回答を読ませていただいてから、改めて南方熊楠についての興味が強くなりました。もう少し勉強してから改めて坂口さんに質問文を送りたいと思い、その後少し時間がかかってしまいましたが出来上がったのが以下の文章になります。まずは熊楠を読む際の強度を上げないといけないと感じたため、今回は安藤礼二さんの『熊楠 生命と霊性』を参考にしながら考えています。

南方熊楠は、非生命と生命との差異、物質と精神との差異を乗り越え、森羅万象あらゆるものが発生してくる根源的な場を探求しました。熊楠は、そのような根源的な場を、まずは粘菌に求め、さらにそれが曼荼羅という形象に昇華され、最終的には潜在意識の構造的な把握というかたちに落ち着いています。(安藤礼二によれば、粘菌、曼荼羅、潜在意識の構造的な把握という3つの段階は、熊楠が読み込んだ3つ(合計5冊)の膨大な書物、エドワード・ドリンカー・コープの『最適者の起源』、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーの『ヴェールを剥がされたイシス』、フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤーズの『人間の人格とその死後の存続』に対応しているそうです。)

第一に、『最適者の起源』のなかでコープが触れているエルンスト・ヘッケルの「モネラ」という定義があります。「モネラ」は「核」をもたない原初の生命体であり、ただ「運動性をもった無形の粘着状の塊」として存在する。海中を漂う微小なガラス質の骨格をもった単細胞生物「放散虫」が「モネラ」のモデルにもなりました。この「モネラ」を起源とする「原生生物」の世界の詳細を突き詰めると、ライプニッツに由来する「モナド」にも合流します。

「モナド(すなわちモネラ)は、そのなかに無限の分化と変化の可能性を潜在状態のまま孕んだ、原初の物質にして原初の塊である。そこから、森羅万象あらゆるものが発生してくる。われわれもまたモナドから形づくられ、それゆえ、われわれ自身もまたモナドの性質をもっている。つまりはモナドを分有している」。こうしたヘッケルの考えを、神智学的に、つまりは宇宙論的かつ霊的な進化の体系として突き詰めていけばブラヴァツキーの『ヴェールを剥がされたイシス』になり、心霊学的な潜在意識の構造として突き詰めていけばマイヤーズの『人間の人格とその死後の存続』になります。また、僕は熊楠が生命発生の起源としての「原子」について、「生物現身の原子」には「先祖代々の業」が積まれ、それゆえ「原子」には「個々先祖伝来の経歴事相を再現するの力」があるとしたのも興味深いと思いました。


第二に、万物が根源的な「一者」から段階的に流出し、それゆえ根源的な「一者」に向けて段階的に帰還できるということは、熊楠が土宜法龍(真言宗の僧侶であり、のちにその宗団の頂点にまで登り詰めます)に向けて語っているように、それは「大日」の宇宙原理にも重なっていきます。ブラヴァツキーの進化論的な流出論を経ることで、熊楠の粘菌は曼荼羅に展開することが可能となる。

「大日」から森羅万象すべてが産出され、森羅万象すべては「大日」に帰還する。それゆえ、有限の私がもつ「霊魂」と、無限の大日がもつ「霊魂」とは一つのもの、「一如」なのだ。(中略)われわれが「死」を体験し、「霊魂」そのものになったとき、われわれははじめて大日に帰還することが可能となる。(中略)「根源」への帰還が完了したとき、記憶−系統発生の記憶と個体発生の記憶−のすべてが、いまここによみがえる。「われわれ霊魂となりて大日中心に帰り、特に吾れ吾れ自箇の過去、現在、未来を記憶し出す」(『高山寺』二六九)、その際、胎蔵大日如来の身内には、宇宙の「一切の相」が顕れ出る。われわれはいずれも、大日のなかから生まれた、大日の「原子」(すなわちモネラにしてモナド)からなる大日の「分子」なのだ。

(『熊楠 生命と霊性』、p42)


ヘッケルの進化論とブラヴァツキーの宇宙論が一つに融合し、さらにそれが大乗仏教の新たな哲学として整理される。粘菌一元論にして、大日=法身一元論がここに完成します。


さらにいえば、近代人であった熊楠が、伝統的な仏教解釈学の上に一体何を付け加えることができるのかという点で、ここに第3のステップとしての「潜在意識の構造」の話、神話の解釈などが加わっていくわけですね。近代が可能にした新たな「科学」を利用しながら、中世以降の信仰原理(曼荼羅)を読み替え、心、物、人間、自然、神という理念を再編成する(意味の地場の関係式のようなものを熊楠は記しています)。ではマイヤーズの『人間の人格とその死後の存続』が、曼荼羅に主観的に「直入」する方法、粘菌のように変化し続ける「心」を通じて曼荼羅と一体化する方法を熊楠に指し示したとして、ここでのキーワードは「遺伝」だったり「記憶」だったりするのではないでしょうか。


『人間の失格』、第三章「天才」、三四〇節(この賞は三四三節で終わる)でマイヤーズは、潜在意識の構造、その「神秘」の原因を、最もプラトン的かつ最もラマルク的に答えるとして、次のような一連の言葉を続けていく(一部言葉を補い、私自身の表現として説明している)。一、その「神秘」は、ラマルクの「獲得形質の遺伝」から答えられる。二、同時にそのことは潜在意識が、ダーウィンのいうように「原形質的」(protoplasmic)な構造をもっていることによる。三、そうした事実は、プラトンのイデア論を思い起こさせる。イデアこそ、永遠に滅びない記憶そのもののことである。四、プラトンがいう「想起説」、人間の魂のなかには前世の記憶が秘められているという考えこそが、潜在意識の構造を、きわめてよく捉えている。

(『熊楠 生命と霊性』、p54)


粘菌、曼荼羅、潜在意識。それらは熊楠にとっては一つのものであり、そのただ一つのものだけを生涯をかけて探究したのが熊楠という人間なのかなと思いました。
 
 
 
2.
 
翻って、熊楠を再び読んだこの地点から、改めて坂口さんのことを考えてみたいのです。
 
例えばこういった「神秘」的な話は、具体的な理解に落としこめなかったり、身近に想像しづらい部分もある。そこが近代的な考え方を持つ多くの人との間に距離を開けてしまう理由になってしまうこともあるかと思います。でも、熊楠本人はとことん本気だったわけです。読者は熊楠を外側から眺めることができるぶん好き勝手に解釈することもできますから、本当かわからないものでも事実であると言ってしまうことだってできる。そうやって悦に浸っている人だっているような気がします。ただ熊楠本人は、やはりこの思想を地で行っていた。この事実から、思想の輪郭を自分なりに多角的に立ち上げられるのかどうか。
 
熊楠を読み、坂口さんの全体的な芸術に触れるということを交互に繰り返していくなかで、なんとなく理解が進んできたところもあるのかもしれません。熊楠を通して坂口さんを、坂口さんを通して熊楠のことが少しずつわかってくる、そのような現象がもしかすると起きています。
 
熊楠をヒントに坂口さんの思想的な回路を想像するのであれば、以下のように僕はひとまずの理解をしました。
 
1.坂口恭平の思想における粘菌とは、生きのびようとする制作主体である。自分自身の深いところにある声を聞いて、自分のしたいことに従いながら生きのびようとする(たとえば制作を行う)際に、個体が発生する。死にそうな地点から、改めて生きはじめる。
 
2.坂口恭平の思想における曼荼羅とは、制作や作品によって出来上がった多次元的な経済のことであり、その原型は坂口さんの中にある「世界」である。坂口さんは「全体的な芸術家」として、すべての制作物を通してその世界を「再現」しようとしているのかもしれないし、小説としてより直接的にその「世界」を描写することもある。ただ現実が文章だけで表せない点は重要で、だからこそ「現実を書く」のではなく「現実を生きる」という意識、取り組みが前景化されている。また、曼荼羅の潤滑油のようなものとして坂口さんの態度にまつわる哲学が関係する(僕が質問で多くのパートを割いている箇所でもあります)。
 
3.坂口恭平の思想における潜在意識とは、自身が母体の中にいたときの記憶であったり、先祖が体験した記憶に関係するものである。個体が継承する記憶の遺伝的要素にも注目する。永遠に滅びない記憶、人間の魂の中には前世の記憶が秘められているという潜在意識の構造を介して、曼荼羅に「直入」していく。坂口さんの曼荼羅が、他の時空間と通じあうことになる。自分の中から取り出して再現された現実はより色濃いものとなり、同時にそれが他者の現実との共鳴を起こす。
 
そして、坂口さんの粘菌、曼荼羅、潜在意識の構造をつなぎ合わせたところに現れるのが、
 
4.坂口恭平の思想は、共同体論でもある
 
という見方だと思いました。
 
以前の質問で、坂口さんは仏教に関連する質問のなかでこのように答えてくれています。「僕の実家は浄土真宗らしいですが、僕の中に親鸞の影響などはゼロです。全くありません。斎藤環さんも僕と仏教の関係性について、それこそ、現在の僕について、悟りの境地に至っているのではないかという意見がありましたが(笑)、全く仏教とは関係がありません。何も学んでいませんし、禅も別にちょろっと本を読んだが、実践したことはありません。」
 
もしかしたら、仏教の中でも具体的にみれば、大乗仏教を解釈した熊楠の考えに近い部分があるのかもしれないなと、今回改めて感じたということも付記しておきます。坂口さんご自身がおっしゃられているようにもちろん影響などはないのだと思いますが、不思議なことにいくらかの重なりが見受けられるのではないかという意味合いです。
 
南方熊楠を読みながら坂口恭平の思想を見出すということに今回挑戦してみたのですが、坂口さんは例えば以上に書いたような、(粘菌、曼荼羅、潜在意識をモデルとした際の)ご自身の思想の連関について、どのようにお考えでしょうか。
 
あんなに難しくてわけの分からなかった熊楠の本がいま面白くてしょうがないという不思議な状況が訪れているのは、間違いなく坂口さんのおかげであり、そのことにも本当に感謝しています。


参考文献
安藤礼二『熊楠 生命と霊性』、河出書房新社、2020年

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