坂口恭平100問100答 第12問 保坂和志


12.保坂和志

「作為的にことばをまっすぐ吐く」ということについてお話をききたいなと思います。どれだけ細かく文章を組み立てていても、作為的になっていたとしても、読者からしたら直感で書かれているようにしか見えないような書き方があります。そして、書いている坂口さんからしても直感で書かれているようにしか見えないと、そう思い込めるくらいのレベルにまで自身を持っていっているからこそ生まれてくる結果があるとのことでした。これは小説における総合的な技術の積み重ねによって可能となってくるものなのでしょうか。それともある決まった方向に向けて小説の角度を設定していった方がいいのか、時に限定というか、研ぎ澄ませていくことも必要なのか。坂口さんや保坂和志さんが取り組まれている小説の可能性について、そして「ことばをまっすぐ吐く」ということのレッスンについて、お話をきいてみたいです。絶対に簡単なものではないだろうと承知してはいますが、どのような作為のメカニズムがあるのか、考えてみたいと思いました。(保坂さんにおいては、ひとつの場面を描くときに書き手が必ず行なっている、何を書いて何を書かないかの取捨選択、さらにはその抜き出した情報をどういう順番で、どのように再構成するかという「出力の運動」こそが小説における文体なのだそうです。)


答:

 保坂和志さんには相当影響を受けていると思います。でもその影響は2015年からのようです(ツイログを確認)それまでは全く知りませんでした。そして、保坂さんの小説は読んだことがありません。というか、僕は小説論を小説だと思っているので、それも小説だとしてますが、プレーンソングとかは読んだことがありません。僕が読んでいるのは、小説論三部作の最後の本『小説、世界の奏でる音楽』とこれは文庫本、それとKindleで読んでいる(iphoneで読むのは、鬱の時、本を読めずにiphoneでKindle本を読むからです)『書きあぐねている人のための小説入門』僕はこの2冊だけずっと読んでます。最近はあんまり読まなくなりましたが『現実宿り』(2016年)『けものになること』(2017年)そして『建設現場』(2018年)という3冊の本は僕の中では保坂和志に影響を受けて書きまくった三部作となってます。なんなら保坂和志になったつもりで書いてます。保坂和志になったつもりになるとどんどん書けることがわかったので、嬉しくなってどんどん書きました。保坂和志になったつもり、というか、保坂和志が小説論で取り上げそうな小説を模造している感じです。保坂和志が小説論で取り上げる小説ならではの、なんというか、売れないけど、ほとんど見逃しちゃうけど、確かに保坂さんが言うので、読んでみると無茶苦茶面白い、というこの運動に虜になりまして、そういう小説を書いてみました。という側面がこの3冊の本にはあると、僕は思ってます。もちろん、それだけではないのですが。保坂和志という機械を通すと、まず書くことのタブーが色々と取り払われます。もともと、僕は思いついたまんまに書き続けるということを、自分でもやっていたというのもありますが、とにかく、思っていることをそのまま書く、ということにさらに保坂マシーンでブーストがかかったという感じです。それまでtwitterでとにかく思いつくまま、どんなことでも、考えていることでも、生活のことでも、もうなんでもいいんです、とにかく「何かを書きたいのではなく、ただ書きたいだけ」という、これは一体誰の言葉でしょうか。保坂マシーンの中に含まれている言葉だと思うのですが、今や、僕が自分で言い続けているので、勝手に自分の言葉になっているような気もするのですが、この質問もそうですが、とにかく僕はただ書きたいだけなんです、とにかく書くきっかけが欲しい。そのきっかけさえあれば、この質問はきっと1000枚以上の大作になると思うのですが、しかもそれを僕は1ヶ月で書き上げようとしてます。きっと1ヶ月で書き上げることができることでしょう。質問一つにつき、10枚くらい、ただ好きに、何も考えずに書き連ねていくだけ。しかも、僕の場合は、保坂和志さんと違って、もはや作家ですらありませんので、なんと言いますか、質のことを全くありえない考えないでいいという素敵な環境にありますので、もうとにかく、質はどうでもよくて、ただ書きたいのだから、なんでもいいから書くきっかけさえ見つけて、ただひたすら書くということができるようになった時の、喜びは今でも思い出して嬉しくなりますし、もはやそれで本が売れなくても構わないどころか、本だけじゃなくて、この方法論で、絵もただ描きたいだけ、音楽もただ鳴らしたいだけでやれるようになったので、僕が保坂和志さんから受け取ったものは、最初村上春樹から受け取った先述したことよりも重要だったと僕は考えてます。僕は直感では書いていません。そんなひらめきなんか全くありません。僕はただ模写しているだけです。何を模写しているのかというと、頭の中にある、僕の中にあるずっと前から今もそこの世界の川の水は流れ続けていて、一つとして止まっていないその世界がある、その世界の中で動物が生きていますが、その動物はこの世界にはいない動物の時もありますが、大抵は似ている動物で、その動物の名前を知らなくてもいいんだと、保坂和志マシーンは教えてくれました。動物と言えば、その動物のことを知っていなくちゃいけない、その動物は自分にとって、馴染み深いものでないといけない、みたいな感じが取り払われていきました。僕はその動物をあんまり知らないのです。知らないが、見えていることは確かです。その時は、私は動物を見ている、とだけ書けばいいことがわかってきました。よく見えないなら、よく見えないと書けばいいんです。名前を知らないなら知らないと、知りたくなったら知りたくなったと、調べたくなったら、近くにいる人がいれば、その人に聞いてみる、もちろんこれは僕の世界の中にいる、一人の人ってことです。その人のこともよく知らなくていいんです。そうやって考えていると、登場人物という考え方も何もなくなって、すごく自由になりました。そうじゃなくって、保坂和志マシーンによって気づいたのは、書き方が自由になったというよりも、僕の世界の中が自由だった、僕の世界の中を自由に歩き回ることができるようになった、という方が近いかもしれません。言葉をまっすぐ吐く、というのはこのような状態だと僕は思ってます。そうすることで、僕は知っていることは知っていると、見えているものは見えていると、見えていないものは見えていないと書くことができるようになってきました。見えていないから、書けない、というのは僕の中では嘘なわけです。見えていなくても書けるようになってきた。このような思考回路、もしくは書き方、体の動かし方、自分自身への視線の移し方、みたいなことは保坂和志さん以外に、こんなことを励ましてくれる人、方法を教えてくれる人を僕は他に知りません。保坂和志さんありがとうございます。実際に、保坂さんが現実宿りを、すばるかなんかの連載で、ベケットやカフカを読むように面白い、そして、ベケットやカフカより元気がある、と言ってくれた時は嬉しかったです。ま、そのように保坂さんが喜ぶように書いた、というのも正直なところではあるのですが。でもそれは人のために書いたというよりも、僕がそう書きたいと思っていたのも事実ですし、なんにせよ僕の本領は90歳代に発揮されると思っているので、真似でもなんでも適当に自分が書きたいと思うことを具現化するためにはなんでもやればいいのだと思ってます、なので、あの頃、2015年から2020年くらいまでの僕の小説執筆集中期は、まさに保坂和志と二人三脚で歩いてました。保坂さんとは現実の世界ではほとんど会ったことがありませんし、人間的にはあんまり頻繁に直接会わない方がいいのかなと感じでいるので道子さんみたいに電話したりする仲ではありません。でも、僕の制作初期から中期の導入に際し、大きな影響を受けたことは隠すつもりもないし、それはほとんど保坂さんからの影響だと思います。いつか本当に感謝の言葉を直接会って伝えたいと思ってます。

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