スーザン・ソンタグ的な反知性主義の働かせ方、または反・反解釈について

質問文 スーザン・ソンタグ

 
16個目の質問「小説が迫る現実」での坂口さんの回答は、僕にとっての救いとなるものでした。というのも、僕は小説の世界でしばしば「正解」のように語られている感覚について、それに理解を示しながらもどこかで煮え切らない気持ちを持っていたからです。該当の箇所を一部引用させていただきます。

「小説には二重の構造がある、書けば現実になる、書かれるのを待っているのも現実になる。しかし、僕は書けば現実になるとは全く思っていないかもしれません。書いても、それが嘘なら、嘘だとわかってしまうからです。マルケスの小説の中で、僕はそう感じるところがあります。だから、マルケスにはハマることができないんでしょう。少し遊んでいるように感じてしまいます。切実じゃないようなところがある。どういう意味では、マルケスよりも、僕としてはフアンルルフォのペドロパラモ、そして短編集の燃える平原、これらの著作の方が参考になります。この2冊は嘘じゃない感じがします。現実、と言っても自分が感じた現実なわけです。それこそ、それぞれの人に現実というものがありますから、一つの現実というものはないわけです。なんというか、僕の感触としては、マルケスは一つの現実というものがある、という認識でそこからズレているものを書いている、という感触があります。彼が新聞記者だったことも影響あるのでしょうか。意外と、奥深い人ではないな、という感じがあります。百年の孤独にたいした影響を受けていないのでそう思うのかもしれませんが。フアン・ルルフォはいくつもの現実があるということをしっかりと感じていると思ってます。つまり、小説を読むと、書いてある内容というよりも、僕としてはその人の「現実とは何か」ということの体感的な思考を感じるようです。それは複数で多面的で多次元で多時間で多空間であると感じると、僕はワクワクします。そうだよな、そんなもんじゃないよね、僕が自分で考えているくらいなもんじゃなくて、もっと複雑で心地良いよね、と思って嬉しくなって、自分の時空間、自分の現実も広がるような思いがします。実際に広がります。そういう経験が面白いと思ってます。」

第16問「小説が迫る現実」


僕が具体的にどのように救われたかというと、ふわっと書くだけが全てではないというか、ああやっぱり「解釈」はしていいんだなと再認識したという点において、気が楽になったのです。
 
小説では基本的に目の前の現実とは違う世界が好んで描かれます。話をものすごく省略して言ってしまえば、それは小説の一つの機能として、社会と同じような現実を描いていても仕方がないと思われる(ことが多い)からです。ゆえに現実の社会に根ざした「解釈」というものは嫌われる。「解釈」をなるべくしないような「解釈」というか、書き手と作品のことをおもんばかったそのような書き方というものさえあって、僕はそれに対して良いところも悪いところも感じてしまうのですよね。
 
僕の考えとしては、たとえ僕が「解釈」をしたところでその作品が限定されることにはならないし、世界は広いのだから、むしろ「解釈」を積み上げていく中での複雑さや別の見え方に開かれていくところに現実的な着地がある。ふわっとしたものを捉えるのにも、ふわっとした言葉を当てはめるだけではなくて、逆にしっかりと地に足のついた言葉を多角的に当てはめていくことを恐れてはならないと思っています。
 
ただ、現実に市場で好まれるのは「ふわっと」性の方なんですよね。「ふわっと」した言葉はそれ自体で優しさにもなりますし、人の自由を生むというか、意地悪な見方をすれば、そこに寄りかかって自己表現をする人たちも助けるからです。たとえば、難しい本を読んでいる、わかってはいないが読めているという表面的な部分で、すごいでしょうとアピールしたい人たち。本当は小説内でとてつもなく高度な達成が行われているとしても、それを褒めるような優れた解釈が「ふわっと」性に寄りかかれば寄りかかるほど、その「ふわっと」した読みの世界の中で好き勝手に躍動できる読者もまた増えていき、元々の小説の試みはしばしば埋もれていきます。普通とは違う「オルタナティブな読み」を短絡的に求めようとすればするほど、そうなってしまうのかもしれません。もちろん大前提として読者にはそれぞれ好き勝手に読む自由があるのですけれど(それにどんな読まれ方であっても書いた作家には嬉しいことだったりもします)。
 
そして、もちろん小説によっては、本当に真の意味で「ふわっと」した時空間を表現しているものがあり、一義的な解釈から意識的に離れて、現実の解像度を生々しく豊かな方向へと開こうとしているものがあるわけですね。ゆえにそういった作品を強引に「解釈」しないことにももちろん意味があります。
 
大事なのは、物事の総量というか、バランスなのかなと思っています。表現の可能性が解釈によって制限されるのを嫌うような「ふわっと」した作品というのは、現実的には多くない。だけれども、読者は、自分の満足のために、自分の生活を作品に優先させるために、人工的な「ふわっと」した読みを作り出し、好む。「何か言ってないようで、でもだからこそ何か言えている」といったロジックで全てを包み込むならば、多くの作品の具体的な達成はますます見過ごされていくでしょう。じつは「オルタナティブな読み」という事態は似た傾向に進んでいくばかりなのではないか、といった思いが昔から僕の中にはありました。
 
何かを「解釈」することは、実際には、その原理的な「ふわっと」した表現の達成さえも邪魔しない。なぜなら現実は複数あり、一つの「解釈」などやはり「たかが」一つの解釈だからです。
 
僕はこれまでの読書体験において、「ああこの表現はわざと軽くしているんだな」と思っても、その著者が大御所であればあるほど、他の読者からは「重い」ことが書かれているとされる現状、さらにはそれを「重い」とする理由もその「わからなさ=軽さ」にあるのだという「ふわっと」のギミックに疑問を感じていました。リスペクトから安易に言葉を紡がない態度もありえますし、自由な世界があるのは仕方のないことだと思っても、全く読んでいないのかもしれないと思うような人たちがこれが正解と胸を張るような世界に対して、納得したくてもしきれていないところがありました。だから地に足をつけた「解釈」も続けていきたいなと感じていました。
 
現実の複数性を見ていたり、「嘘」を「真実」としないような坂口さんの姿勢を見て、ああ無理に自分を市場の一部が求めるような方向へ矯正しなくてもいいんだと、本当に心が楽になりました。ありがとうございます。
 
 
ところで、スーザン・ソンタグには『反解釈』という著作があり、そこでソンタグが言っているのは、「翻訳としての解釈はXをXとして語ることを許さない」ということです。それはその通りだと思いますが、もちろんソンタグは解釈自体を避けているわけではありません。人間の思考とは何かを解釈することなのだが、解釈行為は必ずしもすべてが正しいわけではないということを彼女は言っているのですね。
 
僕にとってより重要なのは、ソンタグの主要な著作である『反解釈』、『写真論』、『隠喩としての病い』などでは、そこにある反解釈、反写真、反隠喩の思想に反知性主義的な知性の働かせ方を見出せるということで、大きく共感してしまいます。これは「知性の超越行為をチェックする」かのような、反知性主義的な知性の働かせ方ということです。
 
入り組んだ話になってしまって申し訳ないのですが、僕の考えはこの枠組みで言えば、反「反解釈」です。「反解釈」の使い回しやすさに依存する人たちが多いように見えてしまって、ゆえにそこにある知性の超越行為足り得るギミックを読み取って、批判的な立場も取っています。もちろん「反解釈」をすることにも意味があるのだと思います。それでも現状においてはあまりにバランスが崩れているのではないかと感じてしまうのです。
 
市場の知性が時に要請する「ふわっと」したものの見方=「反解釈」は、知識人的にも、大衆的にもどこかメリットのあるものであり、様々な形で結託します。でも、現実の解像度をときに下げてしまったり、現実の複数性というものを捉えていないからこそ生まれる現象なのかなと僕は思っています。もちろん切実な「反解釈」というものを粗末に見ているわけではありませんし、切実な「反解釈」を支持する立場であれば、真摯な「解釈」を受け止めてくれるのではないかという認識です。
 
僕自身の中にある芸術分野や市場における知性への疑問というのは、おそらくこのような意味での反知性主義的な思考だと思われるのですが、坂口さんにこの文脈でもお話をきいてみたいなと思いました。「地で行く」ことを大切にするというのは、同時に反知性主義的な知性の働かせ方をも持つということであり、坂口さんの中にも見いだせるのかなと。
 
坂口さんは、やはり「切実さ」を重要視しますでしょうか。これはもしかしたら、まじめさとふまじめさについての問題なのかもしれません。

また、自分にとっての真摯な姿勢というものに対する自己批判をどのように乗り越え、自分の可能性を開いていきますか。僕はいわば言葉の可能な限りで「XをXとして語る」こともできたら良いなと思っているぶん、あるいはそのためのふわっとした読み方にも筋道を見出せているぶん、コインの裏側の考え方が自己批判的に自分に取り付いているのかなと感じています。


参考文献
波戸岡景太『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』、集英社新書、2023年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?