坂口恭平100問100答 第19問 風景

19. 風景


『現実宿り』では、現実の時空が少しずつ歪んでいくような体験が描写されているかと思います。それは「雨宿り」の経験に重ねられる。軒先に逃げ込んだ瞬間、外の雨も、からだについた雨粒も、何か温度を持った別のもののように感じられてくる。そのようにして時空が変化する体験がたしかにあります。そしてそれについて考えることは視界を、風景を引き連れてくる。自分が感じている時間の風景と他者が感じている時間の風景、その2つがあったとして、描写の際にそれぞれに変化をつけるために意識されていることはあるのでしょうか。それとも、時空の歪みは人間誰しもがある程度似たような経験の形で持つことができていると考えますか。

 答:

 他者が感じている時間を、僕は書くことができません。できるのは、自分が感じている時空間だけで、それは他人とは全く違うものだと感じてます。だから、他者が感じている時間を想像して書いたところでそれはハリボテの世界にしかならないのではないかと思ってます。勝手に想像して書かない、勝手に他人はこう感じているんじゃないかと勘違いしないようにしていこうと常に思ってます。僕が一人で特異な状態であると感じているわけではありません。そういう自分に対する特別意識はないつもりです。でも明らかに僕は他人と違っている。そして他人もそれぞれ明らかに違っている。僕にできることは、とにかく自分が感じていることに忠実にやってみるということです。それでも、勝手に想像してしまうことが多いです。勝手に想像して、勝手に言葉を使ってしまう。空の色も勝手に既存の色になぞらえて、心があると思い込んで、小説というものはこういうものだ、はじまりがあって終わりがあると思い込んでしまいます。何度やっても、なかなか、この勝手な想像から抜け出すことは難しいです。ついつい自分が感じていることを、時間の流れを、人も感じているものだと思ってしまいます。僕は推敲はほとんどしないとは言ってますが、一応、読み返すことはします。読み返しながら、勝手な想像が入り込んでいないか、他者はこう感じているに違いないと思い込んでいないか、ということは確認しているんだと思います。厳密にそういうことだけをチェックしているわけではないのですが。というわけで「自分が感じている時間の風景と他者が感じている時間の風景」というものの書き分けはやってません。他者が感じている時間の風景を描くために、作家は想像力を働かせるものだ、という方法では執筆してません。僕はある意味では、想像力を一つも利用していないのです。僕にとってはそう考えたほうが自然だなと思ってます。創造行為は想像力を駆使するものであると思われているかもしれませんが、僕はそう考えていません。想像力はできるだけ使わないようにしよう、といつも心がけてます。つまり、ある場面を書いていて、次の場面を書くときに、もっと面白くしたいので、次に何を書くかを考える、ということを極力しないようにしてます。ある場面を書いていて、次の風景が見えてきたときだけ、次の場面を書くのです。見えなかったらどうするのか。見えなかったら、想像力を駆使する代わりに、書かないでやりすごします。書くのを止めたらいいんだけなんです。それでしばらく散歩でもする。しばらくすると、また次の風景が見えてきます。それは前の風景と何一つ繋がりがなさそうに見えます。時間も全く違っていて、場所も違う。そこで歩いている人も、今まで出てきたない人です。でも、それが次に見えたのだから、僕はそれをそのまま書きます。前のと繋がりを持たせようとして、また想像力を使いたくなるのですが、それをやめました。やめたのがその『現実宿り』という小説を書いたときからです。それはどういうきっかけから始まったのかというと、やっぱりこれが鬱の影響なのでしょう。僕の小説作品としては『隅田川のエジソン』2008年、そして『幻年時代』2013年、『家族の哲学』2015年、そして『現実宿り』2016年と繋がっていきます。『隅田川のエジソン』は路上生活者であった隅田川に住む鈴木さんを調査したフィールドワークをもとにしてます。同じ年に『TOKYO0円ハウス0円生活』というこっちは形としてはノンフィクションの鈴木さんについての本を出版したのですが、その調査をしていたら、ちょっと不思議な感覚を覚えました。もちろん、僕がやっているのはフィールドワークで、鈴木さんという人は本当に面白い人で、ぜひとも本を読んでほしいのですが鈴木さんは東京の墨田区という場所を、普段過ごしている僕たちとはまるで違う感覚で生きていて、それは都会というよりも森の中で暮らしているように僕には感じました。どこで何を採集してそれを換金して食糧を得ているその姿が、のちに本のタイトルにもなりますが、その都市型狩猟採集民に見えたんです。鈴木さんの家も同様でした。それは他者から見れば、ホームレスのボロい掘立て小屋です。しかし、実際に中に入って、鈴木さんとその場所に座っていると、狭い家の中のはずですが、部材ひとつひとつに鈴木さんは拾った時の記憶を僕に話すんです。「この柱は花火大会の後、屋根を作って放置して帰っていった人がいてその時に見つけた部材で、、」とかひとつずつ全部記憶が残っているんです。その時に、どこに使うかは決めていない、でも、何かに使えるかもしれないと思って拾っているわけですが、その時には体のどこかの部分はもうすでに、あそこに使う、とわかっているような感じがある、と鈴木さんは僕に言うわけです。それがとてもワクワクしました。そうやって家を見ると、それぞれの部材に時間がくるくると織り込まれているような感じがしました。柱を触ると、その時間がオルゴールみたいに流れててくるような不思議な体感をしました。その時に、僕は、鈴木さんの話を聞きながら、鈴木さんの家を、全く違うように感じていると知覚したようです。だからフィールドワークをしたあとノンフィクションの本を書いても、物足りなかった、それで、僕が鈴木さんの話を聞きながら、体感した時空間を書く必要がありました。それで、TOKYO0円ハウス0円生活を書き上げたあとすぐに僕は『隅田川のエジソン』という小説を書き始めたんです。鈴木さんを一人称にしつつ、僕が感じた時空間を描きたい、と思ったのが動機でした。それと同時に感じたのが、僕は0円ハウスを2004年に出したあと、建築学科出身の路上生活者研究者みたいに見られていたんですね。なんというか、それが他者が感じている僕という人間という時空間を含んだ生き物でした。でも僕が自分で感じている僕という時空間を含んだ生き物は違うんですね。全く違っていた。僕は研究者ではないし、写真集だったけど、写真家でもないし、建築学科出たけど建築家と名乗っているけど、いつか建物を設計したいけどとりあえず路上生活研究しました、というわけではなかったんです。もちろん、今から見れば、それは幾分伝わっていて、僕が元々、路上生活者の家を調べたりしていたことすら知らない人もたくさんいると思うんですけど、当初は全然違いました。なんというか、他者が感じている「僕」という規定があるような気がしたんです。それが窮屈でしたから、早めに僕は「自分が感じている僕」を全面に出していこう、と思いました。まあ、それはどうしようもなくやり始めたわけではなく、とにかくそれが自然ではあったのですが。2004年に僕は『0円ハウス』という写真集を出し、まずは本の出版について色々経験を積もうとヨーロッパに営業に行き、ヨーロッパの方では美術方面にもアプローチし、ブリュッセルで展示もするようになります。そのおかげで美術に関しても伸ばせると嬉しくなって絵を描き始め、絵はバンクーバーの方でコレクターを獲得し、絵を売るという仕事もはじめます。バンクーバーで出会った仲間たちからはお前と話しているとジャリを彷彿とさせると言われてました。四次元についていつも話をしていたからでしょう。熊楠の南方曼荼羅、マルセルデュシャン、そしてレーモンルーセル、と四次元の感覚が僕にいくつもの仕事の芽、感覚の芽、時空間の芽を伸ばしてくれました。そうやって少しずつ「他者が感じている僕」から「自分が感じている僕」そのままのまんま、そのような作品を作るだけでなく、そのように「生きる」ことを実践していこうと思うようになりました。そんな活動を始めて20年、今では、もうほとんどが自分が感じている僕の生活になってきているのではないかと思ってます。このような視点が先にあり、それが現実宿りのような作品に結びついたのではないかと考えてます。

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