坂口恭平100問100答 第16問 小説が迫る現実

16. 小説が迫る現実


小説の魅力のひとつに、たとえそれが起こりえないようなことであっても、いちど書いてしまえば起こったことになるという小説内現実の効果があると思います。ガルシア=マルケスに接続のできる文脈です。ではそのような小説という土壌において何を書くのか。批評の場合、狙って何かを書きにいくと、その結果は現実よりも小さなものにまとまってしまうのではないかという感覚があります。社会の言葉を使っているのに、むしろ普遍性からも離れていくかのような感覚です(もちろん普遍的な説得力を持つことは大事になるのですが…)。一方で、小説においては感じたものをそのまま提出できるというか、坂口さんのなかで起こっている反応がそのまま外に出る。面白いことに、その小説の言葉の方が現実を捉えている。だから小説には2重の構造があって、そもそも書けば現実になるのだけど、書かれるのを待っているものもまた現実なのかなと。そして、この構造に安易に頼ることなく、いかに現実を現実として出すことにひたすらこだわれるかが重要だと思っています。小説において現実を書くために意識されていることはありますでしょうか。


答:


 さっき、ガルシアマルケスについて、読書の項目で、同じようなことを書いたかもしれません。とにかく自分が考えていることを書くと、自分から出ることができないんで、自分が考えていることを書かない方が得策です。しかし、自分が考えないで書く、これは難しいです。人間は考えてしまいます。考えたことを書こうとしてしまいます。考えないで書くのはどういうことでしょうか。自動筆記のようによくわからないことを書けばいいのでしょうか。それも違う気がします。それで僕は何度もここで書いてきているように、とにかく、今、目の前に見えているものをどこにも行かずに調べもせず、ネットも検索ただひたすら書いてみるという実験をしています。誰かが使っている言葉は極力使いたくありません。でもそうやっていると、コミュニケーションが取れません。それでもいいのですが、別にコミュニケーションを取りたくないわけではありません、僕としてはできるだけリアリティ、真実味があることを書きたい、それしか書きたくない、心の中にあるものを、なんにも着色せずに、そのまんま出したい、いつもそう考えてますし、そうやってきたし、マルケスの、現地に行かずに、そのまま見えているのを書いた、百年の孤独の執筆方法についてのインタビューは、新しい発見ではなかったですが、自分がやってきたことのまんまでいいんだ、と自信にはなりました。小説には二重の構造がある、書けば現実になる、書かれるのを待っているのも現実になる。しかし、僕は書けば現実になるとは全く思っていないかもしれません。書いても、それが嘘なら、嘘だとわかってしまうからです。マルケスの小説の中で、僕はそう感じるところがあります。だから、マルケスにハマることができないんでしょう。少し遊んでいるように感じてしまいます。切実じゃないようなところがある。そういう意味では、マルケスよりも、僕としてはフアンルルフォのペドロパラモ、そして短編集の燃える平原、これらの著作の方が参考になります。この2冊は嘘じゃない感じがします。現実、と言っても自分が感じた現実なわけです。それこそ、それぞれの人に現実というものがありますから、一つの現実というものはないわけです。なんというか、僕の感触としては、マルケスは一つの現実というものがある、という認識でそこからズレているものを書いている、という感触があります。彼が新聞記者だったことも影響あるのでしょうか。意外と、奥深い人ではないな、という感じがあります。百年の孤独にたいした影響を受けていないのでそう思うのかもしれませんが。フアン・ルルフォはいくつもの現実があるということをしっかり感じていると思ってます。つまり、小説を読むと、書いてある内容というよりも、僕としてはその人の「現実とは何か」ということの体感的な思考を感じるようです。それは複数で多面的で多次元で多時間で多空間であると感じると、僕はワクワクします。そうだよな、そんなもんじゃないよね、僕が自分で考えているくらいなもんじゃなくて、もっと複雑で心地良いよね、と思って嬉しくなって、自分の時空間、自分の現実も広がるような思いがします。実際に広がります。そういう経験が面白いと思ってます。カフカもそうでしょう。ベケットもそうだし、彼ら二人はやっぱり現実に関しての深い考察があるように感じます。同時にそれでも思うのは、もっと行かなきゃダメなんじゃないか、ということです。どうしても、社会の枠組みの中に収まってしまっているような、もちろん、僕もまだまだです。僕もまだ自分が感じている本当の真実味のある現実に書き迫ることができていないなと思います。悔しくはありませんが。これからどんどんやっていけばいいんです。もっとやっていきたいです。批評だろうが小説だろうが、特に違いはないと思います。エッセイだろうがなんだろうがいいんです。自分が感じている現実を、それはきっと複数のはずです、そこには目の前の社会を生み出した現実もあれば、私の心の中の現実もあるし、記憶の中の現実もあれば、遠く先を見て感じる現実もあるし、それは今の今の今、私が感じている全ての現実だと思っているので、それらを全部ひっくるめて、なんか書けないか、と思っていると嬉しくなります。書きたいんですから当然です。だから、自分の作品とかどうでもいい。終わらなくてもなんでもいい、読んでもらえなくてももはやどうでもいい、そういうことじゃなくて、もっともっと現実っぽく書きたい。とはいつも思ってます。それが僕がやりたいことです。40冊書いてもまだ書き終えることができません。twitterで毎日毎日書いてもまだまだ足りません。何十万枚書いてもだめなら何百万枚書いても無駄だということではなく、何千万枚も書きたいなと思います。だから、一冊の本では収まらないはずですし、そりゃ、カフカの城とか、なんかそういう傑作みたいなものは切断面として生まれるとは思いますよ、でもあくまでも切断面ですから、そういうことじゃなくて、もっともっと広く、もっと遠くまで、そうやって、今の目の前のむちゃんこ隣のこの皮膚と触れてる今の今の現実を、なんとか遠い未来書いて見たい、死ぬ前に書いたと思いたい、でもそれってもう文章だけじゃないじゃないですか? だからパステル画も毎日描いてます。音楽だって、まだまだ足りませんよ。そうやって考えると、もっと作れるじゃないですか。そうやって自分を盛り立てているってことでもあると思うんですけど、もう文章とか絵とかじゃなくて、もう生きているその生活そのもの、それこそ、自分そのものが、その複数に入り乱れて時間も空間も食べたり飲んだりして咀嚼して栄養だけ抜き取って排泄したところにある地面にまた芽が出て膨らんで花が咲いてその花を見て昔のことを思い出してる女性のうなじとか見ながらさらに太古の記憶をふっと眼前に体験するみたいな状態のまま、生きていきたいです。そうやって現実を「書こう」とするな、現実を生きよ、といつも思ってますよ。

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