ティム・インゴルド、蜘蛛のメッシュワーク


質問文 ティム・インゴルド

坂口さんは、人類学が獲得してきた知恵を自身の態度として内蔵しているのではないか、そのように思えたのでこの質問文を書いています。坂口さんをまた別の新たな角度から学ぶことの助けになるかもしれません、文章化してみます。

『はじめての人類学』を書いた文化人類学者の奥野克巳さんによれば、仮に人類学の絶対に外せない重要人物を選ぶのだとすれば、ブロニスワフ・マリノフスキ、クロード・レヴィ=ストロース、フランツ・ボワズ、ティム・インゴルドの4人になるそうです。

まずマリノフスキは、調査地の中心に飛び込んで現地の人々と暮らし、彼らの生活の成り立ち全体を理解しようとした最初の人類学者でした。文献や資料だけにあたるのではなく、「参与観察」という手法を編み出します。坂口さんの例に置き換えれば、多摩川の河川敷に長年暮らす路上生活者とのやりとりは、僕たちが決して既存の本だけを読みながら体験できるものではなかったのかなと思います。インポンデラビーリアという、社会構造の骨組みから漏れ落ちる泡沫のような微細な部分もまた、坂口さんの文章には詰まっています。

レヴィ=ストロースについては、繰り返し言及するまでもないかもしれません。坂口さんは度々彼について言及していますし、酋長という存在に関しても僕からたくさんの質問を用意しています。とはいいつつも、新たな観点を付け加えておきますね。レヴィ=ストロースの提唱した「野生の思考」は、農耕や牧畜、陶器や土器などを生み出した素にある思考形態であり、「科学的思考」と対立するものではありません。それは不変の「構造」を保持しながら、要素を解体し再構成する過程を繰り返すブリコルールの思考形態だといいます。そうであるならば、「野生の思考」は今も僕たちの中に息づいていて、直感を重視させるはず。インターネットでは次から次に新しい仮想空間が生まれていますが、そこではすでに世の中に存在していた言葉や画像、動画が解体され、再構成され、どんどん新しいものへと変わっていく様子が見てとれます。熱力学機械的な「熱い社会」ではなく、工学的機械的な「冷たい社会」が循環するなかでの「野生の思考」を、現代的な環境(ツイッターなど)においても坂口さんは垣間見せているところがあるのかなと思いました。

フランツ・ボワズ。イギリスの人類学者マリノフスキと、フランスの人類学者レヴィ=ストロースについて触れましたが、ボワズはアメリカの人類学者ですね。アメリカの人類学にも独自の特徴がありますが、ボワズは文化相対主義的な考えの由来とされることが多いです。ただ僕が興味深いなと思ったのはボワズが社会をひとつのまとまりとしてホリスティック(全体的)に捉えることの重要性を説いていたことの方で、坂口さんの「全体的な芸術家」という観点にも繋がるところがあるのではないか。現実を表現するために、小説や書くことだけに限定しないと回答されていたことが印象に残っています。ホリスティックに表現するからこそ見えてくる、感じられる次元があるのだろうなと興味深く読みました。

最後に、ティム・インゴルドですね。彼についてはもう少し字数を割いて書いてみたく、まずはインゴルドが立ち上げた人類学プログラムの「4つのA」の話から始めたいと思います。「4つのA」とは、人類学(Anthropology)、考古学(Archaeology)、アート(Art)、建築(Architecture)という4つの学問領域のことです。インゴルドは、アートが僕たちの感覚を呼び覚まし、知識を成長させてくれるものだと考えました。また、それまでの人類学は建築を視覚文化や物質文化の一部として扱う傾向にあったのですが、インゴルドにとっては、建築とは力とエネルギーの流動の関係をより深く考察し、人類学的な思索を深めるための欠かせない領域となります。ここに加わるのが考古学で、考古学もそれまでには発掘された人工物や古代の建築物の図面だったり、結果のみで評価される傾向があったそうです。インゴルドは、考古学は発掘人の熟練した手つきによって行われる、生き生きとして素材とのやりとりの中から生み出されるのであり、発掘とは変化しやすい環境の中で、視覚的・触覚的な手がかりに対して当意即妙に反応することなのだと主張しています。これら「4つのA」の理念に基づいて、「理論化」ではなく「職人」の態度をプログラムに組み入れていったインゴルドには、坂口さんと重なる部分があるように思いました。「探求の技術」を他者に体験させるところも近いです。考古学に関しては、坂口さんが畑に関して綴っている文章をよく読んでみれば、そこで行われているのは「発掘」にも近い行為なのかなと僕には映りました。

あらゆる存在は自己完結した個体ではない、どのような動物も環境を離れて存在することはできないなどの見地に立ち、ハイデガーの「私たちは建てたから住まうのではなく、住まうために建てるのだ」という言葉を援用しながら、「住まうことの視点」を重要視するインゴルドの姿にも坂口さんとの相似が見出せます。環境の中に住まうことで、いかに世界が立ち上がってくるのかを捉えようとする。インゴルドにとって生きているとは、様々なモノとの関係から成る世界で、生きるやり方を見出していく創造的かつ即興的なプロセスとなります。偶発的な出会いを受け止め、どこに行くかわからない生の不確定さを肯定する点でも近いところがある。

そんな彼の話の中で面白いなと思った生物の例えがありました。生命の網として知られているものは、点と点から構成されるネットワークではなく、編み合わされた線からなるメッシュワークであるという議論がありまして、インゴルドは、ネットワークとメッシュワークの違いを、アリとクモから比喩的に語っています。アリは、人類学者のブリュノ・ラトゥールらが提唱した「アクター・ネットワーク・セオリー(Actor Network Theory)=ANT」のように、ネットワーク上の動きをします。他方でクモは、自らの身体から糸を出して、メッシュワーク上に動き回る。アリははじめから物質的な実態として存在しますが、クモは物質的な実態でもあり、自ら糸を出す線でもある存在として関係論的には動いていくところに注目がされています。インゴルドは、「生きている」とは、クモの動きのように糸と経路がもつれ合った状態のことなのだと言います。クモをその網から切り離すのは、鳥を空気から、魚を水から切り離すのと同じことを意味していて、切り離されればそれらは死んでしまう。「生きている」こととメッシュワークの結びつきが強調されます。ただ動いているだけではなくて、動きながら同時に糸を出している。関係性の網を作り続けてメッシュワーク状に動くクモの存在は、坂口さんを思わせるところがあるように感じました。

最後に、インゴルドが推奨する参与観察というのも、民族誌のように人々「〜について」書くものなのではなくて、人々「とともに」学ぶ方法のことでした。坂口さんは、路上生活者「について」ではなく、路上生活者「とともに」、独立国家やゼロ円ハウスを考えていったのだと読むことができると思います。

人類学は、「生きている」という問いに挑み続けるがために、「生きづらさ」から言葉を紡いできた坂口さんの実践と重なり合うところがあるのではないでしょうか。そんな人類学にとって重要なのは「外部」への想像力です。もはや遠くでエキゾチックな「外部」を生きる人たちは「隣人」となり、かつての未開とされる土地に住んでいた人々も今では当たり前のようにスマホを使うようになりました。「外部」と「内部」があいまいになり、その境界がなくなりつつある現在では、人類学はこれまでとは異なる人間の生き方を探ろうとしています。「人間的なるものを超えた人類学」だったり、「マルチスピーシーズ民族誌」といった近年の傾向もこうして整理ができるのかなと。人工知能だったり、「人新世」というテーマについての議論が盛んになりました。

人類学のなかには、たとえ強調されることがなくとも、「外部」が埋め込まれているのだという言い方ができるのかもしれません。路上生活者とともに文章を綴ってきた経験を持つ坂口さんにとって、現在の「外部」とはどこにあるのでしょうか。また、クモのようにメッシュワーク上に動いて行くなかで、それが「生きやすさ」に繋がっていることを常々表明しているのも坂口さんの特徴であり、そのあたりのお話も聞いてみたいと思いました。

参考文献
奥野克巳『はじめての人類学』、講談社現代新書、2023年

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