坂口恭平100問100答 第22問 批評機会

22. 批評機会


坂口さんはしばしば、「批評がされない」とご自身について言及していますよね。でも実際には「ユリイカ」などでも特集をされていたり、評価も含めて、注目されていないわけではないように思えます。坂口さんの著作を評価する作家やアカデミシャンも多い。もちろん、批評の側が坂口さんの実践を全然拾えていない、追いついていないといった問題が背景にあるのでしょうが、坂口さんは批評のどのような点に限界だったり物足りなさを覚えていますか。なぜ批評が坂口さんに言及できないのだと考えますか。

答:

 確かに、批評してくれないとはよく言ってるかもしれません。それが僕の実感でもあります。ユリイカで特集してもらったこともあります。あれは何年でしょうかね。2016年に作ってもらったみたいです。あれは別に販売促進のための広告としてお願いしたわけではありません。よくユリイカでは広告っぽい感じの特集もありますよね。あれとは違うので、そうですね、あの特集では批評されているのかもしれません。でも、あれは、坂口恭平という人を特集するので、みんな何か思いついたことを書いてください的な感じで、批評されたという感触はないかもしれません。やっぱり誰も批評してくれないと今も思ってます。僕の著作を評価してくれている作家の人はいるのか。どうなんでしょうね。人間として面白いと思ってくれてる人はいるんじゃないかな、と思ってます。それは実感としてあります。一番最初で言えば、赤瀬川原平さん、その前で言えば、師匠の石山修武さんもなんらかの評価をしてくれていたと思います。あと誰でしょう。これを機会に思い出してみましょう。その次で言えば、ビートたけしさん。ビートたけしさんは、番組に呼ばれ、僕だけロケするのは嫌だから、たけしさんきてくださいと勝手に台本を書き換えて送ったら、本当にロールスロイスで多摩川まで来てくれました。恥ずかしがり屋なのか、友近さんがいないと嫌だ、ということで、友近さんも来たのですが、たけしさんはすごく理解してくれたのを覚えてます。困ったら助けるよ、ともおっしゃってくれました。一度、困ってオフィス北野に連絡をしたことがあるのですが、その時は丁重に断られました。でも、直接会えば、今も助けてくれるんだと思ってます。あとはウィリアムギブスンが僕の仕事を、これはどちらかというと美術関係の仕事ですが、面白いと言ってくれていたようで、直接お会いしたことはないのですが、励みになりました。2006年頃のことです。作家ということで言えば、養老孟司さんもそうでしょうか。養老孟司さんはおそらく僕が想像するに、かなり本気で応援してくれてます。「坂口みたいなのが、人の上に立つような社会じゃなきゃだめだ」みたいなことを言ってくれたように記憶してます。なんかこれ褒められ自慢みたいになってきてますが、でもそういう一言で本当に励まされるので、どうやって励まされたかを書いてみることにします。中沢新一さんも励ましてくれます。中沢さんは僕の本をほとんど読んだことないと思うのですが、何か直感的に感じてくれているようです。それと先述しましたが、タンタンの冒険シリーズの翻訳者である川口恵子さん、中沢新一さんの奥様ですが、彼女も応援してくれているとの話を中沢さんから直接聞いて、励みにしました。とにかく人の応援で自分の行動の励みにするのはとても得意かもしれません。そういえば、サザンオールスターズの桑田佳祐さんも病気で入院している時に、僕の本を読んでくれて、それで面白かった、と言ってくれた時がありました。これも嬉しかったですね。ただひたすら嬉しかったことを書きたくなってます。そういう意味ではいろんな角度から励みの言葉はいただいてます。熊本で言えば熊本県知事も熊本市長も僕の著作を読んでくれているようで、いのっちの電話についての理解もあります。自殺防止をどうしたら良いのか話を聞かせてほしいと市長に呼ばれ、話をしたこともあります。そういえば女優の方で、読者の方もたくさんいるようで、あれもまた嬉しいもんですね。電話がかかってきて、一人で喜んで、妻に突っ込まれたこともあります。

 アカデミックの世界からも評価されているのでしょうか。そういえば、大学の先生をやっている方、病院の先生をやっている方などから深い理解を示してもらったこともあります。しかもそれだけでなく、たくさんの読者がいます。本を書いて、絵を描いてそれを売るだけで生きていけているのですから、しかも、稼ぎは決して安くありませんで、おそらく作家たちの中ではかなり稼いでいる方に入るんだと思います。書き方が自慢っぽいですね。

 でも不思議だなあと思っているんです。結構売れてたり、理解されていたりするんですけど、もちろん、それで僕は満足しているんですけど、何か変だなあとも思っているんですよね。もっと評価されてもいいのに、と思っているのでしょうか。それこそもっと売れてもいいのに、と思っているのか。僕が貪欲だからこう思っているのか、なんなんでしょう、確かに、評価されてますね。今、書きながら、これで評価されていない、というのはちょっと違うのかもしれない。でもなんでこんなにちょっと不満気なのか。僕の今の正直な気持ちとしては、不満でもないんだけど、なんかもうちょっと感じてくれないかなあ、なんて思ってるんですよね。

 はっきり言うと、今まで、何か書いてもらったり、褒めてもらったりしたことで、驚いたことって一度もないんですよね。なんか全部想像の範囲内というか、まあ、そんな感じだろうなあ、嬉しいけど、嬉しいんだけど、でも、確かに物足りないと感じているかもしれません。僕が意図していること以上のことを何か言われたという経験がないんですよね。何を言われても、まあ、そうですね、と淡々と言うしかないというか、腹の底では、僕はもうちょっと考えて行動しているんだけどなあ、と思ってしまうことばかりです。そりゃ、聡明な方々に褒められたら嬉しいと言えば嬉しいですが、でも正直、僕としてはもっと、僕は違うことを考えている、もっと複雑に絡み合っている全体を考えている、考えながらも全て自分の手で行動している、行動しつつも、行動におさまらず、言語として成立するようにも実践しているつもりなのですが、やはりその僕の全体について、何か言葉を投げかけてくれた人は一人もいません。もちろん、それぞれの分野ではそれぞれに素晴らしい褒め言葉をくれる人はいるんですが、それぞれの断面だけで語ってしまってはだめなんだ、と今の僕はもうそういうふうに断言してます。それでは明らかに見落としているもの、切り落としているものが多すぎるからです。もちろん、僕も、僕の感覚としてはとにかく僕の仕事、外に出すもの、それは本だけでなく、音楽や絵だけでもなく、ご飯の盛り付けの仕方、それこそ、息の仕方とか振る舞い一つ一つが、僕の中では全て、等しくとても大事な表現なのですが、これらの表現によって、私はどうやら、やはり何か一つのまとまり、まとまった人間の塊、それを共同体というのでしょうか、僕の言葉の中には実は共同体という言葉はありませんで、共同体というよりも、家族、という言葉に近いのですが、でも家族とも少し違います。まだ言葉で名付けることができてません。しかし、そういう人間の集まり、人間が複数集まっている状態を作り出すことを、僕は想定しているのですが、その集まってくる人たちのために、僕からなんらかのアクションが必要になります。そのアクションが複雑すぎると伝わりませんので、しかし複雑でないとすぐに飽きてしまって、人間の集まりはすぐに散らばってしまいます。人間の塊がある一定の時間、それこそ歴史を持つようになるくらいのできるだけ長い時間、かたまり続けるためには、固まっていてはだめで、いくらか緩くつながりつつも離れながらでもまた戻ってきやすくまた離れやすい、というような土壌の豊かさが重要になる、ということを感じるために研究するために、畑もやっているわけですが、これと同時にいのっちの電話も同じような土壌の研究ということでもあります。もちろんいのっちの電話は土壌の研究だけではなく、声の研究、自殺の研究、自己否定の研究、などなどとにかく僕は一つの項目についても複雑に僕の中では多次元という感覚が近いですけど、多次元の考察ができるようにしているつもりです。これは無意識でやっているわけではないのでしょう。今ではあまりにもその所作が早くなっているために、無意識でやっているような感覚がありますが、これはかなり僕が意図してやっていることです。早いのは訓練したからです。今、原稿を書くのが早いのも結局そういうことです。考えないで書いているわけではありません。それで何が言いたかったのかちょっとわからなくなりそうなので、戻すと、僕の仕事はそれぞれの分野でそれなりに論評することができるようになってます。別分野を入れなくても話が通じるようになってます。逆にいうと、これはトラップのようなものでもあり、僕は騙すつもりは毛頭ありませんが、確認する必要はあります。各人の能力をはっきりと観察したい。良し悪しを判断し、区別したいわけではありませんが、やはり、能力の高い人というのも人間の集まりには重要になります。なぜなら、そうすることで、僕に力が極端に集まりすぎないようにしたいようです。そのために僕はいつも批判を求めます。褒め言葉は実は一切必要ありません。褒めると伸びる式の考え方は実は全く持ってません。でも、褒めると伸びる的に行動すると、意外とめんどくさいしょうもない批判からは免れたりします。これは僕なりの処世術みたいなものです。しかし、僕が本当に求めているのは、徹底した批判精神です。僕がやっていることにツッコミを常に入れてほしい。そんなことでへこたれるような人間ではありません。どんなふうに批判しても、僕の中ではあらゆる批判に対応した諸々の対策をとっているつもりで、その対策も常にメンテナンスが必要で、つまり、時々しっかり批判されておかないと、対策自体が錆びついてしまうので、しっかりと批評してほしい、できるだけ批判的な視点で、と思っているのですが、不思議なことに、ほとんどそのような僕の活動の息の根が止まってしまうようなしっかりとした批評が全く発生してません。そんなわけで僕は、対策法のメンテナンスを自分でやらなくちゃいけません。おそらくこれが僕にとっての鬱です。鬱の時は日本一の批評家が僕を批判します。僕は息の根を止められそうになります。しかし、そのために対策法をメンテナンス、もしくはアップデート、もしくは全く違うソフトをインストールする必要が出てくると判断され、鬱の期間にその訓練が行われます。僕は今のところ、突然、結論を書きますが、おそらくこのことについてはもっと書いたほうがいいとは思ってますが、とりあえず長くなるのはやめましょう、僕よりも手厳しい批評家と出会ったことがありません。僕は僕にとって最大の批評家です。もちろん、人は人のことをたいして興味を持たないのだから、人の目なんか気にするな的な、どうでもいい、適当な論で、この僕を批判することもできるでしょうが、でもやっぱり僕は、僕なりに、しっかりと考え、行動し、実践し、組み合わせ、失敗し、訂正し、それらを全て人前で実現してきたつもりですので、つまり、しっかりと多くの人類が真剣に批評すべき人だと思っているのですが、もちろん、これは勘違いなのでしょう。とにかく僕はまともな批評家がこの世にいるのかは知りませんが、なぜなら実践なき批評など存在しないからですが、まあ、とにかく批評家からは論ずべき人間ではないと思われているという認識です。そして、それでいいんです。僕の批評は僕が鬱の間にやればいい。ひとまずこれまで出てきた僕に対する僕についての論考の中で、僕が目を開いたことは一度もありません。全ては想定内の批判であり、僕にはそのことに対して、しっかり応答するための対策法をすでに準備してます。でも論ずべき価値のある人間であると見なされていない限り、僕のやっていることはただの素敵な勘違い野郎ってことになるんでしょう。それでもいいんです。人生は愉快に過ごすべきですから。

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