坂口恭平100問100答 第10問、第11問 石牟礼道子 渡辺京二


10.11.石牟礼道子、渡辺京二

世間一般には、石牟礼道子といえば『苦海浄土』の作家という印象が強いと思います。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した本作は、チッソに代表される近代が壊してしまった古代的なアニミズムの世界へ戻る回路として読まれ、評価されました。4歳の子供であるみっちんは、近代工業主義の結果として現実の世界から疎外されてしまいます。しかし、こういった解釈に異を唱えたのが渡辺京二ですね(『もうひとつのこの世』)。みっちんが最初から果たして幸福だったと言えるのか、そこから問い直さなければならないと。みっちんの疎外は、チッソに代表されるような近代の退廃がもたらしたのではない。近代工業社会に対しそれ以前の農民・漁民の世界があるとしたら、そのどちらにも属さない異界の中にはじめからみっちんはいる。石牟礼道子もまた、自分が異界に属するものであることを知り、孤立感の中で生きていたのだと、作品に的確な批評を加えました。このように考えると、なぜ石牟礼道子が『苦海浄土』を記したのかもわかりますし、それが決して「ノンフィクション」の枠におさまらない作品で、石牟礼道子が患者の思いを一人称の文体に載せて書いていたことにも納得がいきます。彼女自身が生まれつき疎外の感覚を持ち、人間界と異界の間に生きていた。だからこそ奪われた者としての患者に深い共感を示し、その思いを文にすることができた。ここには、深いレベルでの魂の共振によって、疎外を受けた(もしくはそう感じている)者の隣に立つ姿勢、それも自分自身が異界にいる感覚を生かしながら自然に寄り添うような姿勢が見出せます。これはまさに、坂口さんが行なっていることに近いのではないでしょうか。坂口さんは度々石牟礼さんに言及はするものの、どのような形で影響を受けているのかということに関してはあまりお話になっていなかったのではと思います。影響を受けているというよりも、僕からみれば、「死にたい」の感覚に寄り添う坂口さんの姿はすでに石牟礼さんに重なっていきます。いまこうやって言葉にする中でこぼれ落ちてしまうものがたくさんあるのですけれど、石牟礼道子の達成を社会的な解釈だけに還元させない読み方、それは更に付け加えれば渡辺京二さん、坂口さんと引き継がれているものでもあります、その達成の意味合いをしっかりと読み繋いで、書き繋いでいかなければならないなと思いました。坂口さんの実践がどのように見えるかということで石牟礼道子との重なりに触れさせてもらったのですが、問いとしてはやはり、社会的な言論の規模に負けずに、このバトンをどのように繋いでいくか、ということだと思います。読み手として、書き手としての渡辺京二さんの批評観も、しっかりと受け止めていきたいです。


答:

 石牟礼道子については、僕は名前だけはぼんやりと知ってましたが、熊本に住んでいることも何も知らずにいました。渡辺京二に関しては全く知らなかったです。二人のことを知ったのは、2011年3月11日に東日本大震災、そして、その後、3月12日、福島第一原発が爆発してからです。これはたまたまなのですが、僕は3月4日にDOMMUNEという宇川直宏さんが主宰している配信番組で、山口県上関町に建設予定されていた原発について議論しようと思い、エネルギー学者である飯田哲也さんを招いて、話をしました。その中で僕は今現在、一番危険な原発はどこなのですか、と質問したのですが、すると飯田さんは間髪入れずに、老朽化が進んでいる福島第一です、と言いました。地震が起きたら危険なのですか?と聞くと、地震よりも津波です。津波が原発施設内に到達してしまうと、すぐに電源が止まり、放射性物質が漏れてしまいます、と言いました。漏れたらどうすればいいのですか、と僕は聞きました。チェルノブイリを参考にするしかないのですが、チェルノブイリだと半径200mまでは放射性物質が降り積もっていると確認されているので、とにかくまずは半径200mは逃げてくださいと飯田さん。とは言いつつも、さすがに僕もそんなことは起きないだろうと思ってはいました、でも頭には入れておいたわけです。その1週間後に本当に地震が起き、津波が発生しました。そして、3月12日に爆発が発生、僕はまるで夢でも見ているような感触でした。1週間前に話していたことが本当に目の前で、テレビで映っているのを見ていただけですが、実際に起きているようなのです。そこで、東京の国立駅近くに住んでいた僕は、妻フーちゃんと2歳だった娘のアオにとりあえず逃げようと伝え、大阪に逃げました。もちろん、放射性物質は見えませんから、政府はなんの問題も言っているし、しばらく大阪の妹の家に滞在してはいましたが、東京に戻るか、逃げるのか、しばらく考えましたが、熊本に戻ることを決めました。2011年3月20日には熊本に戻ってました。熊本に戻って仕事をするなんてことは一度も考えたことはありませんでした。僕は東京を中心に活動をしてました。当時は、0円ハウス(2004年)、TOKYO0円ハウス0円生活(2008年)、隅田川のエジソン(2008年)、TOKYO一坪遺産(2009年)、ゼロから始める都市型狩猟採集生活(2010年)と5冊の本を出版し、雑誌の連載を三つほど抱えてました。絵は、バンクーバーで知り合ったコレクターに直接、Dig-italというインクで描いた細密都市画のシリーズを売るようになってました。年収は650万円くらいだったと思います。大変ではあったが、なんとか自分で自立して生活ができるようになっていた頃です。東京を離れて生活して、食べていけるのか不安な状態のはずですが、意気揚々と熊本に戻ってきました。3月11日以降、僕は完全な躁状態に入っていたのでしょう。実家に戻ると、僕が日本政府は狂っていると口にしているのを見て、母親が一時的に発狂状態になりました。実家に住み続けるのは無理だと判断し、僕たちは自分が住む家を探します。両親は僕たちが育った十禅寺という町をでて、さらに熊本市中心部にあたる新町に引っ越してました。両親の家に近いと、彼らから嫌がられるかもしれないと思ったけれども、それでも新町のことが気に入ったのは、両親の家の近くに、明治7年創業長崎次郎書店があったからです。長崎次郎書店の建物を見て、すぐに、僕はこの書店を中心にこのあたりの街が文化豊かな様子に変貌している未来の姿を勝手に幻視しまいました。躁状態が入っていると、僕はよく幻視してしまうのですが、躁状態ですから、それが幻だとは思わないんですね。当時、長崎次郎書店は、開店休業状態で、後で知ることになりますが、社長が精神的な体調を崩していたようです。なので、店内には灯りがついていなかったのですが、僕はいつかこの書店を自分が復活させている様子まで幻視してました。躁状態も困ったものです。そして、僕はこの書店のすぐ近くで、書斎を持ち、本を書き続けていく必要があると強く感じました。勘違いもほどほどにして欲しいですが、妻のフーちゃんは優柔不断な人で、ついつい、僕の躁状態の思いつきで、それはないだろう、ということまで、つい黙って了承してしまいます。そんなわけで、僕たちは2011年3月下旬には、今現在も住んでいるマンションの四階を借ります。今ではその一階に、愛すべきアトリエも設けているので、結果的には良かったようです。今では僕以上にフーちゃんが熊本に馴染んでます。東京には戻りたくないようです。フーちゃんは実家も横浜にあるので、九州には一切住んだことがなかったのですが。僕は、これも躁状態のおかしな現象だと思いますが、不動産の物件、つまり、建物と対話することができます。もちろん、これも躁状態のときだけですが。そのおかげで、物件選びに失敗したことが一度もありません。そんなわけで、一度選んだ家にはずっと住むことになります。今年で移住して丸13年。今の家に越してきて、縁起が悪いことが起きたことは一度もありません。というか、僕の人生で、縁起が悪いなと思ったことが一度もありません。苦しいのは、僕の鬱状態だけです。僕は病気にもなりません。鬱状態があらゆる悪霊を全て追い払っている可能性はあります。おかげで、鬱状態を抜けると、とても快活な気持ちの良い毎日を過ごすことができるのです。自殺さえしなければ、僕は幸せなんでしょう。
 僕はその後、2011年5月に、何を思ったのか、まだその時も躁状態でした、突如、新政府という言葉を口にしはじめます。その新政府という言葉を使うきっかけになったのは、熊本に越してきたからかもしれません。熊本に移住すると決めた時に、僕は、友人の編集者である川治くんに一冊の本を渡されます。それは「熊本県人」という本です。著者は渡辺京二、知らない名前でした。しかし、川治くんは渡辺京二が好きなようで、この本面白いから読んだらいいよ、と本をくれたのです。僕が最初に読んだのが、林桜園についての章でした。林桜園とは熊本の幕末の思想家、国学者で、原動館という私塾をやっていた教育者でもあります。ここで、横井小楠、宮部鼎蔵、吉田松陰、河上彦斎などが学んだらしいです。林に学んだ若者はのちに、神風連の乱を起こします。明治政府への最初期の反乱で、のちにこの流れが西南戦争へとつながっていきますが、その反乱の精神的支柱だったのが、林桜園だったと渡辺京二は書いてました。僕は読みながら、渡辺京二が林桜園に見えてきたんです。熊本人がかなり早い段階で中央政府に反乱を企てたことも参考になりました。中央から離れていることが実はとても大きな力になるのではないか。熊本に移住してきたことをハンディキャップだと思っていた僕はなんとかして、その状態を少しでも良く捉えたかったのかもしれません。神風連の乱が、僕ののちの行動の一つの参考例になりました。かといって、僕は暴力革命を起こすつもりは少しもなかったのですが、渡辺京二は革命、反乱、一揆などについて現在でもそういうことを起こすことができる、と具体的に考察しているように見えました。僕にとって、渡辺京二は、いかにして、日本ではない、別の共同体を作るか、その具体的な反乱の方法は何か、ということについて、研究をしている人、と捉えてます。神風連の乱について調べていると、明治政府のことを新政府と言っていて、当たり前のことですが、江戸幕府という崩れるはずのないとみんなが思っていた世界が崩れ、新政府に生まれ変わったその明治維新のことを考えると、つい140年前のことです、パスポートも何もなかった世界があって、誰かが勝手に新政府を名乗り、江戸幕府に変わった。そんな新政府のいうことなんか信じられるかい、ということで、熊本の士族たちは反乱を起こした。この構図を見て、ほう、新政府っていう言葉は面白いと思いまして、つい僕はこういう反乱系の時は、すぐに中沢新一さんに電話しました。この時も電話しました。佐々木中さんにも電話したと思います。僕は理論が整っていないので、まあ、躁状態の思いつい、幻視、で勝手にやっちゃうわけですが、それなりに、いつも間違っていることはやっていないようだ、ということはわかってきていたのですが、一応、確認のために、彼らに電話しました。二人とも、ナイス、いいね、みたいな感じで電話で励ましてくれました。そこで僕は冗談ではありますが、一応、本気で新政府を立ち上げ、その責任を冗談のようにとって、新政府初代内閣総理大臣の役割を勝手に、一人で担うことにしたのです。痛快な感じがしました。そんなことを口にしている人は一人もいなかったので、やったーと思いました。
 それで、僕はのちに熊本県人という本をくれた講談社の編集者川治くんと組んで『独立国家のつくりかた』を2012年に出版します。2011年だけ僕は本を出版してません。Twitterするのに忙しすぎてそれどころではなかった。2008年に初めて文章だけの本を出版して、僕は2011年だけ本を出してませんが、それ以外は全て最低一冊は本を出版してます。それで、独立国家のつくりかた、これが7万部くらい売れて、僕の中では一番売れている本です。でも、一冊は七十円くらいしか印税入りませんから、7万部も売れてもたいしか額になりません。これがのちに、僕が自分で出版するようになったり、絵を売ったり(つまり一点ものを売るってこと)あとはnoteで読んでもらって、面白かったら、お金を振り込むという自己申告性印税のスタイルを生み出していきます。本が売れても金にならないジャン!という事実は僕にとっては悲しいことではなく、いつも七転び八起き人間なので、なんだよ、じゃあ、俺は自分で稼げる方法どんどん見つけます!よろしく!みたいな気持ちになるんです。友人が、今こそ、独立国家のつくりかた、読んだら、面白かったよ、今読むといいよ、と先日言ってました。僕は10年以上も読み返してはいません。みなさん読んだらいいかもです。
 それで、でも、少し僕はスピードダウンしてしまいます。躁状態が長かったので、大変な鬱状態が始まります。それが2012年だった。その時に、もうこの先何をしたら良いのかわからなくなってしまいます。つまり、少し売れた後に、また良い作品が書けるか、みたいな調子に乗ったことを考えだしてしまったわけです。ほんとバカです。この時の経験がのちに、継続するコツ、という本につながっていきます。でも僕はすぐにちゃんと自分の無能に気づけました。無能なんだから、最初からゼロなんだから、もうどうでもいいじゃん、適当に好きなこと書けば良い、と吹っ切れて、書いたのが『幻年時代』という小説です。これは僕の4歳の時に、幻視していた世界をそのまま思い出しつつ書いた小説です。担当編集者は、ゼロから始める都市型狩猟採集生活を担当していた、九龍ジョー(梅山景央)です。彼からのお題は、幼少期の遊びについて、思い出しながら書いてみて、みたいな感じでした。しかし、仕上がってきたものは、小説となり、かなり不穏な、幼少期の描写だったのです。冒頭を送ると、九龍ジョーは「回想するのではなく、その時の自分が嗅いだ匂いをそのままに、まさに今、嗅いでいるように書け」と言いました。とりあえず初稿は、一気に素潜りで、息が続くまで、書ききれ、と言われたので、そのまま、4歳の自分になって、幻視したものを、勘違いだと思わずにそのままリアリティのある世界だと4歳の僕が捉えていたまま描写することに専念しました。1日に50枚書きました。それを1週間続けて、350枚、初稿は1週間で終わったのです。鬱の後の一瞬の躁状態を利用して書きました。一度も筆が止まることがなかったです。書き終わりには涙が出ました。そういう経験は初めてでした。僕の中では隅田川のエジソンが最初の小説ではなく、この幻年時代こそ、僕が最初に書いた小説だと思ってます。
 さて、話はようやく渡辺京二につながるのですが、のちに、2013年幻年時代を出版した後、僕は熊本の明治時代からやっている古本屋舒文堂河島書店にて、林桜園の没後すぐに有志によって出版された本を見つけ、3万円で購入します。それで隣に昔あった、タイムレスという素晴らしい喫茶店で読もうと、入った時に、一人のおじさんがいたのですが、隣にいたのが僕の熊日新聞の担当編集者で、そのおじさんと目が合った瞬間に、あ、この人が渡辺京二さんだ、と紹介されずに顔も知らないのにわかりました。僕はその瞬間に泣いていたらしいです。躁状態だったんでしょう。その出会いのあと、熊日新聞の正月特番で、僕は渡辺京二さんとの対談を行いました。渡辺京二さんは僕の著作をほとんど読んでくれていて、独立国家のつくりかたを、明らかに間違っていると指摘してくださいました。痛快でした。とりあえず独立国家のつくりかたの方向じゃない道で訓練するしかないと覚悟が決まりました。同時に、渡辺さんは『幻年時代』を読んでくれていて、これは本当の文学作品だ、と言ってくれました。幻年時代は、当時、誰一人面白いと言ってくれてませんでした。独立国家のつくりかたが七万部売れたあとですから、ギリギリ出版できたんでしょう、でも、そういった売れ線の本を書くのではなく、やはり書きたいものを書く、とのちにも続く、精神はこのとき、渡辺さんが、独立国家のつくりかたをしっかり酷評してくれて、幻年時代をほめてくれたことが影響あるでしょう。渡辺さんは幻年時代を読んだ時のことを「石牟礼道子の苦海浄土を初めて読んだ時と同じ感銘を受けた」と言いました。最上の褒め言葉なんでしょうが、石牟礼さんのことを一切知らない僕はよくわかっていませんでした。それで石牟礼さんに興味が湧きました。そして、渡辺さんは石牟礼さんが入所している老人養護施設に僕を連れて行ってくれたのです。それは数年後のことでした。おそらく2015年あたりかと思います。
 石牟礼道子については、正直、僕は良い読者ではないでしょう。全集も持ってますが(橙書店に寄贈してますが)、ほとんど読んだことがありません。石牟礼道子とは本を読むことで出会ったというよりも、ただ、会った、話した、という関係です。石牟礼道子と初めて会った時に、僕が感じたことは、どんなものを書いていく、みたいなことは一切考えずに、僕の頭にずっと蠢いている世界があるのですが(だから、僕は一秒も執筆が止まったことがないのです)、それをそのまま書きなさいと道子さんは僕に言ったわけではないですが、そう僕は完全に受け取りました。道子さんと一緒にいる時に、虹が見えて、色が一つ減っていると言いながら、道子さんは猫になっていて、僕と道子さんはニャーニャー言いながら話をしていたんですが、渡辺京二さんは呆然と二人を見てました。渡辺京二さんからのちに、僕は絶縁状を受け取るのですが、その理由はよくわかっていませんが、僕は道子さんと猫語で喋っていたのが理由なのではないかと勝手に思ってます。
 石牟礼道子は僕が鬱で死にそうになっている時に、2回ほど電話してくれたことがあります。先に死のうなんて、いいですね、と言われました。あなたが死ぬ時は、私も自殺したいからストッキングがそこにあるからそれで首を絞めてください、と言われて、もう自殺するのは諦めました。道子さんは死にたいと思っている同志で、でも、死ねずに困っている同志です。頭の中にぐにゃぐにゃ世界が広がって困っている同志で、本も読めない同志で、だから、毎日、とにかく書くしかない者同志です。それ以外の影響は受けてません。水俣病に関しても、僕はよく知りません。道子さんの闘争に関してもよくわかっていません。あの時は闘争した、でも今は闘争していない、ということには僕はあんまり関心が向きません。道子さんが死ぬまで闘争したこと、それは自殺せずに死ぬまで書き続けることだったと思うのですが、僕が注目しているのはそこです。そして、道子は熊本に住み続け、そこで書き続けました。そういう人は、現在、ほとんどいなくなってます。ほとんど東京に住んでいる作家ばかりです。僕は道子よりもさらにもっと深く自分が住んでいる熊本の街とつながりながら書いていきたいと思ってます。あとは渡辺京二が僕に言った、道子と恭平は同じように異能である、世界を違う目で見ている、というのは死ぬまでの励みになるでしょう。僕は影響と言えば、それだけで十分です。もちろん全集はあるので、時々、開くことはあるでしょうし、今後、道子が何を書いてきたのか、少しずつ自分なりに咀嚼し、身にしていくのだと思いますが、僕としては作家の作品に影響を受けたというよりも、唯一の同志であった、という感じが強いです。死ぬまで会い続けてくれた石牟礼道子と渡辺京二には感謝してます。そして、今後も熊本に住み続ける、僕と橙書店の田尻久子が僕には渡辺京二と石牟礼道子の関係と重なります。久子ちゃんと死ぬまで書き続けると約束しましたし、熊本に居続けることも決めてます。作家と生まれた場所は大きな関係があると思います。日本にはほとんどそうやって、地方都市に住みながら書き続けるという文化は無くなってしまってますが、元々はそういうものが作家だったと思ってます。石牟礼道子と渡辺京二は日本でも他に例がない地方都市に住みながら書き続けた作家たちですが、不思議なことにそれが熊本で、僕が生まれた場所で、僕がひょんなことから戻ってきた場所で、偶然にも橙書店の田尻久子と出会った場所で、今も書き続けている。しかも、長崎次郎書店は再び書店としてオープンし、僕の家の周りは今ではとても豊かな文化的場所となっている。悲しいことに長崎次郎書店は再来月再び一時休業するそうですが、僕は死ぬまで書き続けると決めてますし、田尻久子ちゃんも同時に死ぬまで書店をやり続けるのではないかと思ってます。お互い助け合いながら、死ぬまでやっていこうぜ、と声をかけ合ってます。心から信頼できる、本を書く上での師二人を、さらに橙書店の田尻久子という同志と出会えたのは、奇跡的なことであり、熊本という唯一の場所でしか起きえないことなので、これは月並みな言葉ですが、何かの必然だと思ってます。世界中いろんなところを自分なりにリサーチしてきましたが、こんな都市は世界を探しても他に見当たらないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?