坂口恭平100問100答 第21問 並走してくれる作家

21. 並走してくれる作家


坂口さんにとって、自分の「死にたい」の感覚と並走してくれるような作家はいましたか。また、この文脈においてはどのような文学を読まれてきたのでしょうか。僕にとってはカフカがそうで、カフカが持つ答えを出さない感じというのが、自分が抱えてきたやり場のないモヤモヤ感と相まってときに読みやすくすらあったのですよね。また、ブローティガンは一度辛くなった際に自分のコミュニティ全てを捨てるつもりで遠くへ引っ越すのですが(まるで移住のように)、移住先での限界にも向かい合い、悩んだ末に再度原点へ戻って人生に向かいあった作家といえます。ぼくは海外で暮らせばいいと何度も考え実践したこともあるのですが、やはり日本でしか叶わない活動というのもあるわけで、今は日本で暮らしています。坂口さんの場合はもっと制作的な文脈が色濃くなるのですかね。「死にたい」と文学の関係についてきいてみたいと思いました。坂口さんもまた、多くの人にとってそういった「並走してくれる作家」のように見えているはずです。

答:

 僕の場合は、躁鬱病なので、ずっと「死にたい」わけではないんですよね。「死にたい」と感じるのは、今までの中で見ると、長くても1ヶ月くらいでしょうか。10年くらい前は3ヶ月くらい続くこともありましたが、躁鬱病との付き合い方が少しずつ上達してくるに従って、期間は短くなりました。本当ここ数年では2週間以上続くことはほとんどなくなり、最近は、1ヶ月に五日間、まるで女性の生理のような感じでしょうか、そんなふうになってきました。とは言いつつ、昨年は半年間鬱が続いたのですが、、、。この半年間の鬱は今までとはまるで違うもので、少し比較するのは難しく、これはこれで別に話をした方がいいと思います。この半年間の鬱は、どちらかというと、自ら向かっていった鬱でして、しかも、そこから逃げるような態勢を一度も取らずに、しっかり鬱のまま、鬱とは何かを考える時間でした。だから、鬱ではありますが「死にたい」とは思わなかった、もちろん、鬱は苦しいですから、口では死にたい、とつい漏らしてしまうこともあったのですが、実際、僕は一度も死のうとはしなかったです。それで鬱のことがさらにわかってきました。鬱の時、僕は、頭と首と背中を丸めて布団の中にうずくまっているのですが、これはつまり、胎児の状態なのではないか、と僕は最近思うようになっていたんですね。鬱といえば、自己否定ですが、つまり、社会で色々とストレスが溜まって自分を否定するようになってしまってそれで落ち込んでいる、みたいに、僕も考えてはいたんですよ。元々。ところが、元気になると、そんなことは全く感じないんですよね。元気になると、忘れてしまう。元気になると、何が問題だったのかすらわからなくなってしまいます。それで元気になると、また何か取り戻そうとして、必死に頑張るんですね、ちょっと僕の場合だとそれ日本一やりすぎじゃないってくらいにやりすぎてしまっていました。やりたいというよりも、やらなくちゃいけない、という感情の方が強かったですね。まあ、ちょっとその話を広げすぎても仕方がないのですが、徐々に、僕は鬱の時に、実は一番重要な問題に向かっている、これは目先の社会での自分とかそういう問題ではなく、この布団の中の僕がまさに胎児の体勢であるように、なんらかの出生前後の問題であろう、と思うようになってきました。それで、今回は半年間かけてじっくり、元々胎児の頃の記憶がありましたので、つまり、その時に、生まれる前にしっかりと意識が芽生えているわけです、なんらかの危険があったのだろうと、そんなふうに考え、半年間かけて、じっくり、タイムスリップしようと思って、自ら鬱の穴に向かいました。しかし、これは質問に答えていない感じがしますね、で、そんな時の、鬱の過ごし方について、今回は書いたら良いのかもしれませんね。
 鬱の時、つまり「死にたい」と思っている時、どのように過ごしているか。はっきり言いまして、僕は本が読めません。カフカ全集も持ってはいますが、そして、鬱の時は必ず手に取るのですが、全く読めません。カフカの日記を読むことは読みますが、カフカのように、何か文学作品で傑作を残そうなんていうモチベーションも僕にはないので、読んでいると、大抵落ち込みます。「巣穴」という中編小説は、何か僕の鬱の時の状態と近いような感じはしますが、それでも読みにくいなあと思ってしまってすぐに読めなくなります。本を持っていると、うとうとはするので、睡眠薬代わりにはなるかもしれませんが、死にたい時に読書しようという気持ちにはあまりなれません。それでもいくつか読める本はあります。それを思い出してみることにしましょう。なぜなら鬱の時以外はまた僕は本を読もうとしないからです。どっちでもあんまり読まないですね。基本的には書くことが好きなんです。読むことが好きなわけではなさそうです。なんというか、自分の直感をかするような文章はないものかといつも探してはいるのですが、そのため、家にはたくさん本はありますが、しかし、たくさんと言っても、五段の本棚が二つあるだけですが。そこに入り切らなくなった本は、汽水社の方に持っていき売ります。
 今回、鬱の時に読んでいた本をご紹介しましょう。
 まずは①雑誌『MONKEY』第31号です。この中に「ローランドケルツ インタビュー」が掲載されているのですが、この中でケルツさんと柴田元幸編集長が僕の文章を絶賛してくれてます。英訳にするとさらに僕の短編の文章が光っているようです。これは自分を励ますために読んでました。僕のことを文章にしている人はほとんどいないので、どうやら僕の本を読んでいると人から知られると恥ずかしいように見えます。なぜかは知りませんが、それで誰も僕の文章のことを話題にしてくれないんですね。まあ、それは別にそんなに気にしてないんですが、書いてくれてると嬉しいってだけです。だから、小川くんの本も嬉しかったんですけどね。このケルツさんと柴田元幸さんが僕のセンテンスについて書いていて、それがどこからどう読んでもお世辞に読めなくて感動しました笑。やっぱりお世辞はすぐに分かりますもんね。続いて2冊目。河出書房から出ているポール・ウィリアムス②『フィリップ・K・ディックの世界』です。これはディックのインタビュー集なのですが、これを読んでいると、僕は少し落ち着くことができます。他の人には効くのかは分かりませんが。ディックはなんとなく書き散らしまくっていたというところも含めて、シンパシー感じます。生前理解されていなかったところも含めて。僕は現在、全く理解されていないと自覚してます。本が売れてなくはないのですが、僕がやろうとしていることを理解されているとは思っていません。次は、寝る前は必ず読んでいた③『天才たちの日課』という本です。これは僕にとって安定剤です。女性版の芸術家たちの続編も出てますが、これはKindleで持ってます。僕は本を持つのがきつい時はiPhoneでKindle本を読んでます。次は④バーンズ博士の『いやな気分よ、さようなら』これは自己啓発本風ですが、僕は違うと思います。自己否定をやめるために必要なかなり重要な指摘がされてます。これを僕はひたすら書写してました。書写していると安心できました。辛い人はぜひ。実際ベストセラーにもなっているようです。僕ののちに書くことになる『自己否定をやめるための100日間』の参考図書でもあります。さて次、意外と読んでいるかもしれません。⑤『みみずくは黄昏に飛びたつ』これは村上春樹と川上未映子の対談集ですが、これも効きましたね。基本的に僕は村上春樹の本読んでいると鬱が落ち着くのかもしれません。そう考えると、並走している作家と考えると、やっぱり春樹なんですかね。最近の小説なんか全く関心がないのですが、仕事を進めていく姿勢としてはとにかく参考にしてます。誰よりも参考にしているかもしれません。あと、ちょっと悩んでいること自体をバカじゃないのと思えるのは、山下澄人さんの⑥オンラインの質問箱です。『おれに聞くの?』という本にもなりましたよね。あれはどうやら、僕が鬱の時に、山下さんのオンライン質問箱を熟読していて、それで本にした方がいいと言ったから本になったみたいなことを山下さんが言ってました。鬱の時は山下さんに電話するのが一番いいのかもしれません笑。でも正直、本で読むより、オンラインでスマホで読むってのがなんか体に合ってるので、いまだにオンラインで読んでます。⑦トーマスメレの『背後の世界』これは躁鬱病の作者、ドイツ人のメレさんの文章ですが、少し真面目ではありますが、鬱の時、僕は彼の鬱の時の文章を読んで少し落ち着かせます。でも、対処法としては僕の方が一枚上手かな、とか思ってます。そういう意味で、少し申し訳ないが、この人でも本になっているんだから(いや、この人はドイツでも有名な凄い人なのですよ)、お前も大丈夫だと少し自分があげるために、下に見ているかもしれません。これは鬱の時だけの視界なので許してください。⑧エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』これも僕は落ち着きます。僕は書けなくなってしまった作家たちが大好きなのですが、その人たちの大特集してます。鬱で困っているメルヴィル、みたいな文章を読むのが大好物なのです。鬱の時に落ち着くから。あとはいつも読んでいる『ベケット伝』上下巻ですかね。これは鬱の僕がいつも手に持っている本です。確かに本が読めないと言いつつ、ずっと手に持っている本はありますね。基本的に、どこの誰がどんな悩みでどんな日課を持っていて、それでどんなふうに苦しんでいたか、を読んでいると安心します。どんなふうに、切り抜けたか、はあんまり興味がありません。僕が苦しいのですから、苦しくなくなった人には興味がないのです。他の人がどれだけ苦しんでいるかだけに興味は集中します。鬱の時ですが。それで考えると、苦しさでいうと、僕はベケットが一番参考になります。ベケットと僕は自閉状態の時、似ているのかもしれません。そのため特に小説に影響されているわけではないのに、ベケットと僕の文章はどこか似ているのです。ベケットを模倣しようと思って書いたことはありません。ベケットも自殺しなかったんだから僕も自殺せずに生きていこう、と思ったので、並走している作家はベケットかもしれません。村上春樹は日課の参考になったり、作家として生きる上での参考にはとてもなるのですが、彼の苦しいことについての何も言わなさは不安にしかなりませんので、書くことは並走してくれてますが、生きることの並走者ではありません。生きることでいうと、ベケットに近そうですが、ベケットほど僕は自閉的でもないんですよね。そう考えると、全体的な並走者はやっぱりいないかもしれませんが、いくつかの側面でそれぞれに並走者を立てているのは事実だと思います。絵画に関しては、ピカソはちょっとブレブレしすぎて、マティスだとなんか気持ち通じなすぎて、ポロックだと、そこまでやると苦しいなあという感じで、マークロスコも自殺しちゃったし、自殺したけど、作家のデイビット・フォスター・ウォレスはどこか並走者では合ったが、46歳、今の僕の年齢で自殺してしまったので参考にならないし、石牟礼道子は熊本で生きるという意味では並走者ですね。でも僕にとっての一番の並走者はやっぱりどんな苦しい時でも、原稿を書いて送りなさい、って言ってくれる橙書店の久子ちゃんじゃないかなと思います。絵に関しては、どんな苦しい時でも絵を描いたら送ってきなさいと言ってくれる、キュレイターズキューブというギャラリーのギャラリストであり親友の桝村旅人くんかなあ。僕は作家と並走するのではなく、このように僕の作品を一緒に作り上げようと励ましてくれる仲間が並走者かな、と思ってます。
 僕も鬱が苦しい時は、熊本にいたくない、ってフーちゃんに漏らしたりするんです。フーちゃんはその時、鬱の時はいつも言ってるけど、こんなに恭平のことを好きでいてくれる町はそうそうないと思うよ、移動してもいいけど、と言います。僕も分かってはいるわけです。場所が問題なわけじゃない、って。この半年間の長い鬱はそういう場所を移動しようとする僕に対しての、観察期間だったとも言えます。結論は場所は関係なかった、でした。それどころか、僕にとって、熊本で生きている、というのは、生まれた場所、というだけでなく、石牟礼道子と出会えた場所というだけでなく、久子ちゃん旅人くんという二人の並走者が住んでいた場所、というだけでなく、もっと大事な何か、僕はまだ言葉にできませんが、僕の体の奥の奥が選んだ、場所というものもまた大事なのです、それを僕が選んだ、ということを自覚するきっかけになりました。死ぬまで僕はこの今の場所、新町という場所から移動することもないと思います。僕はここで生きて、文章を書き、制作を死ぬまで続け、電話に出続け、人々と会い、新しい都市を作る、と腹が決まったようです。海外に移住したいとは一度も思ったことがありません。でも時々海外のホテルで原稿を書いていると、とても心地よいです。時々、移動するくらいがちょうどいいんでしょう。僕の現場はやはりここ熊本・新町四丁目のようです。
「死にたい」と文学の関係ですが、僕の中ではまだまだ甘いのではないかと思っています。文学者たちはまだ本当の死にたいに向き合っていないのではないか、どこか作品を作る、傑作を作る、ということに囚われているのではないか、僕自身もそうだと思いますが、まだ今まで作られてきた文学では、その死にたい、に向き合えていないのではないか、そんなことも思います。孤独で一人自殺していく人たちが、手にとって目が開かれるような本をいつか書いてみたいと思ってますし、僕が本を書く動機はやはりそれなんだと思います。

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