坂口恭平100問100答 第20問 即興

20. 即興


近年でいうと、『土になる』は原稿用紙30枚程度のボリュームを推敲なしでnoteに掲載する試みから生まれています。坂口さんも、漢字をひらがなに開く、開かないといったことも考えずに、ただ書き連ねていったのだと。しかもこれまでの訓練として結果的にそうなったとおっしゃっています。小説以外に目を向けても、坂口さんにとって「即興」というのが重要な意味を持っていることは明らかです。即興だと始まりと終わりが勝手に決められてしまうのでそこから生まれる作品もあるとみる立場、始まりがあって終わりがないからこそ可能となる表現があるとみる立場、いろいろな考え方がありますけれども、ここではある小説の可能性について考えてみたいと思います。小説における「思い出す」機能についてです。とりあえず思い出し始めてみて、そこからどんどんと「思い出す」が派生していくのですが、このとき過去から過去へ、過去から未来へ、現在へと時制が入り乱れるかと思います。「思い出す」力で時間を、現在、過去、未来をジャンプしていくイメージです。この時に「即興」の力がより強く発揮されるように思えるのですが、例えば「思い出す」のような、「即興」の磁場と強く結びついた言葉、表現に関して坂口さんはどのようにお考えでしょうか。たとえばある地点からスタートして、ずっと思い出し続ける、その生々しさをありのままに描写する作家としての保坂和志さんがいて、坂口さんにも似たところがあるように感じました。

答:

 最近は、また書き方に変化がでてきたのかもしれません。土になる、は、気持ちよく書けましたね。畑を始めたという楽しい喜びを見つけたからでしょう。楽しみを見つけると、当然ですが、僕は嬉しくなります。その喜びが発生すると、原稿を書きたい、って思うのです。元気になる感じです。元気になると、何を書こうかということを、ほとんど考えなくなります。何を書こうかということよりも、もうなんでもいいから書きたい、という状態になります。これは不思議なことに、鬱の時もそうなんです。この時は、楽しい、という感情ではありませんし、喜びもありません。逆に、苦しいという感情が大半というか、全てを占めていて、とにかく書いていないと、頭がおかしくなりそうなんです。頭がおかしくなるというのは、どういうことかというと、自己否定の運動に飲み込まれてしまう状態です。飲み込まれてしまうと頭を抱えて、立っていられなくなって、寝ていても、ずっと飲み込まれてしまうので、ぐるぐるしてしまいます。そうなると、死ぬしかないとなってしまいますので、そうならないために、なんとか体を起こして、普通は体を起こすのも難しいかもしれませんが、しかし、僕は死にそうになっているので、それよりもマシだ、と思うようになります、というわけでうつ状態であるにもかかわらず、僕はとにかく体を起こし、僕はうつ状態の時には、ずっと家から出て、下の階のアトリエの書斎に布団を敷いてこもっているので、立ち上がりさえすれば、頑張って布団を少し横にずらしさえすれば、書斎の椅子に座って、すぐに書き始めることができます。そうやって、最近の180日間のうつ状態でも、原稿用紙600枚分のよくわからない原稿が出来上がりました。このとき、実は元気な時よりも、執筆する速度は早いです。書いてある内容は、とても読めたものじゃないんですけど、でもその原稿も今年出版されることになりました笑。不思議なものです。でもそのことに気づいたのはとても大きいです。うつ状態の時に、なんでも実は書けるってことに。ある意味では夢中になっているんです。「なんで、僕は何事にも夢中になれないんだ」ということを夢中になって書いてます。こういった鬱の時の原稿執筆の方法が、元気になった時のあの夢中になって即興的に原稿を書いている状態の訓練になっているのかもしれません。とは言いつつ、僕はたいした原稿は書いていないわけで、これは一流の人間の質疑応答ではないので、そこは確認しておいてください。まず、何よりも、僕は、自分の原稿執筆の技術を高めようとあんまり思っていないところがあります。高めてしまうと、逆に書くことの速度が落ちます。良いものを読者に届けなければというプレッシャーがあると、どうしても、思うままには書けない、書いたものもすぐに発表するなんてとんでもない、となってしまいます。大抵の芸術家はそうなっていくんだと思います。そして、それでいいんだと思います。そうやって、傑作を書いてくれたら、僕たち平凡な人間はありがたいわけですから。僕は、そのような傑作を書くみたいな使命はゼロです。これは謙遜ではありません。傑作を作るためには、つまり、それは作品ですから、初稿を書いたあと、プロダクションしていく必要がありますが、僕の場合はそのプレッシャーをゼロにするという技術の持ち主だと思います。つまり、傑作なんか書かなくても、自分で自分のことを受け入れることができる。下手なところを見せても、人に笑われたり馬鹿にされても気にせず自分の仕事に集中することができる。そういう自分への愛情の持ち方に特徴があるかもしれません。僕の場合は、できるだけ、オンタイムで、自分が今感じていることを、今、実はこの質問の執筆ですら、twitterのスペースで公開しているのですが、執筆自体を公開している作家はあまり見たことがありませんが、僕としては、その瞬間瞬間をいかにして、形にするか、いかにしてその瞬間自体を読者に届けるか、そのことに気持ちが集中してます。だから、僕は傑作を書かない人ではあるが、三流の作家のまんまでいいと自分を捉えているわけではありません。これまでの、作家が命をかけて一冊の傑作を作るべき、とされていた仕事を僕がやりたいわけではないということです。僕がやっていきたいのは、一冊の本を、後世にも読まれるような完璧な物語を書きたいという意識はゼロです。そうではなく、僕がやりたいのは、今、考えていることをそのまま文章に置き換えるということです。そのことがなぜか重要だと思っています。なぜそれが重要なのか、ということを考えてみたことはあんまりないのですが、なぜ重要だと思っているのかを今から少し考えてみることにしましょう。僕の場合は、その本を書くときに、どれだけ準備したかを見せずに、どれだけ文献を駆使したかを見せずに、どれだけ書く時に苦しんだかを見せずに、作品を作ることを良しとしません。自分の良いところだけ、つまり、それが傑作には必要なのですが、そのプロダクションした良いところだけを抜き取って、完璧な作品を作ることを、僕は嘘と呼んでます。で、僕は嘘をついてはいけないと自分に課しているようです。嘘をつくよりも、下手なものでも「今回、今はこれしかできませんでした」という正直な態度をとれ、と誰かから言われているような感じがするのです。誰からか、というのはまだわかっていません。体の内側からか、と考えると、体の外からそう言われているような感じはします。僕がどのように作品を作っているのか、その時の僕の動き自体がとても重要で、それこそが、僕と読者の間の信頼関係につながっているのではないかと推測してます。そう考えると、僕の場合、作品を作るときに、できるだけ準備しない、というか、ほとんど即興でやることが前提としてあるのかもしれません。土になる、というnoteの連載でいえば、毎日30枚、書き下ろしを、編集者も通さず、なんなら僕自身も一回も読み直してしていませんが、その状態で、書いた瞬間にネットにアップする、それを読者自体も気づいてます、そういう行為自体が、僕にとっての執筆活動のようです。それをまとめて本にする時には、正直、僕はもうその原稿からは魂が離れてしまってます。ずっとゲラと向き合って考え込む、みたいなことは人生で一度もやったことがありません。そのために、僕の本はハイプロダクションではありませんので、たいして売れません。そして、たいして売れないことは意味があります。もちろん、売れることにも意味があるのですが、売れる意味は売るために人が作っているというだけです。村上春樹は売るために推敲してます。もちろん、それは尊敬すべきことです。それによって傑作が生まれるのですから。しかし、幾つも嘘をついているはずです。それは僕の世界ではあり得ないことです。つまり、僕と村上春樹は、そんな比べられるほどの能力は僕にはないのですが、まあ、それはそれとして、作家であることは共通してますが、作りたい世界はまるで違います。それも当たり前です。いろんな人がいていいんです。でも僕が三流作家ではなく、僕には僕なりの方法があり、今のこの執筆態度にも確かな意味があるということです。僕にはまだその意味がはっきりとはわかっていないのですが。僕の執筆は、即興なのかどうかということですが、それはちょっと判別が難しいのですが、僕の頭の中にはこの現実よりも、かなりはっきりとした、しかも自由に動ける時空間があるようです。それで書く時には何度も言ってますが、この時空間の中に入って、というか、中にはずっと入っているのですが、そうすると、その時に、見えたものがあります。それを書いているだけです。今のこの質問も、一見、ただ質問を答えているようにしか見えないのですが、実はこの文章もその世界の中から見えたものを書いてます。だから、考えたことのないことも、書けるわけです。見て書いてますから。意味がわからないかもしれません。でも、先に進みましょう。そうやって考えると、つまり、始まりも終わりもありません。でも始まりの時間と終わりの時間はあるという感じです。書こうと思ってから、もうこれくらいでいいやと思うまでの間、僕はその現実よりも僕にとっては確かな世界、その時空間に身を委ねてます。だから即興というよりも、写真家の森山大道のように、ファインダーも見ずにただスナップしているという感触に近いです。
 次に「思い出す」ことについてですが、僕も色々思い出すことをやってはいます。『幻年時代』という小説は、一応、4歳のとき、幼稚園に初めて行く日の記憶を元に書いてます。あれはどんな感じで書き始めたのかというと、幼年期の遊びについて執筆してくださいという軽いエッセイの依頼から始まりました。自分が大人になった今、幼年期のことをそうやって、どんな遊びをしていたかと思い出し、それを今の視点で書く、みたいなことをしようとしていたのですが、僕の中にずっと、これは記憶なのかわからないのですが、4歳の時に見た景色がずっと思い出すまでもなく、ずっとその現実よりも確かな僕の世界の中にあるんです。それはどこか辺鄙な場所にあるわけではなく、地層のようになっていて、僕のその僕だけの現実の世界の地盤のようになってます。だから、それは思い出すというよりも、今もずっとあるので、これは現在でしょうか。僕としては、それを記憶と簡単に言えないんです。そして、それは事実の記憶でもないんでしょう。僕が感じた感覚の記憶、というか、感覚の元になっている体験、元になっている時空間、みたいな感じでしょうか、書きながら、やっぱり、記憶じゃないな、と思ってしまいます。記憶というよりも、僕はあの4歳の時に経験したことを、言葉にしてみたい、いや、僕の中に残っているものはみんな全て、いつか言葉にしたい、というものの集まりな気がします。こういう出来事があったなあと思い出しているわけではなく、4歳の時に、あ、これは言葉にしたい、しなくちゃ、これは誰かに伝えなくちゃ、とはっきりと感じた記憶はあります。そして、それが先述したように、体の中の街の瓦版となっていくわけですが、その瓦版は言葉で書いているわけではないんですね。僕の中の言語と言いますか、それも言葉ではあるんですけど、色もついてますし、音楽もついてますし、空間も時間もくっついてます。それが僕の言語で、そう考えると今思いついたのは、僕が作っているもの、現実の人からみると、いろんなことをやってますね、多岐に富んだマルチプレイヤーみたいに言われたりするのですが、なんか恥ずかしいですけど、でも、実際は僕の体の中の言語、僕にしか通じないこの言語は、このように言葉、時間、空間、立体物、建築、音楽、絵画、ガラス、セーター、織物、書、歌、そんなものが統合されたような不思議な言語です。僕はその言語を今も話してます。僕の体の中で。だから常に僕は今日本語に翻訳しているだけです。僕の言語を翻訳している。だから即興では実はないのです。同時通訳的に、僕の言語を日本語に翻訳している、翻訳家、通訳の人なのかもしれません。

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