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慰め

暗闇。と言っても真っ暗闇ではなかった。微かに光があった。しかし月明かりなどではない。思うにどこかの街灯か、電光掲示板か、ビルの明かりだろう。窓らしきもの。カーテンを通して鈍い光が差す。
すると突如、ピピりと何かが瞬いた。暖色の蛍光灯がついたのだ。そしてぼんやりと照らされて見るに、どうやらここはホテルの一室のようだ。コートかけ、机、テーブルライト、そして大きな白いベッドがある。
蛍光灯がつくやいなや、入口の扉らしきものが開き、男女が入ってきた。背の高いダウンジャケットの男と外套を着た小柄な女性。年齢はどちらも二十代半ばといったところか。男はジャケットを着たまま部屋の真ん中で伸びをする。女性は外套を脱ぎ、コートかけに掛けた。
「ふぅ。いや相変わらずボロい割には小綺麗な部屋だ」
伸びを終え、息をつきながら男は呟く。どちらもどことなくぎこちない。
「ジャケット脱いだら?」
「あぁそうだ。そうだね」
男は手早くジャケットを脱ぎ、ベッドに放り出した。少し考えて、綺麗にたたみ直した。几帳面なのだろうか。
「あー……これで何回目だっけ?」
「数えてないわ」
「そっか」
「…………」
女性は外套を掛け終わったようだ。バッグを置き、ベッドに腰掛けた。始終、静かな態度をしている。
「……何回も聞くようで悪いけどさ、こういう所に男と来ることについてさ、ほんとに分かってる?」
「何を?」
「だからさ、君にも、なんていうか、プライベート?があるわけだし、もし僕と一緒にここに入るのが見られたりしたら……とか……考えない?」
「今更」
「そりゃそうだけど……そうか」
彼女は男の目を見て話す。毅然とした態度に男はたじろぐ。まるで小動物のような……と言うにはいささか汚い男だ。
「気にしないわよ……始めないの?それとも私とピロートークでもしたいの?」
「ピロートークは終わったあとの会話だよ」
「そうだったかしら」
「あぁ……うん、確か、ね」
男はなおも所在なさげだった。しかし、大きく深呼吸した後に言った。
「じゃあ……始めようか」
男がそう言うと、彼女はベッドから立ち上がった。男の前に立つ。

「服は着たままでいい?」
「そう。このままで」
「わかった」
右手を差し出し、指先を男の胸元にあてる。
「じゃあ、始めるわよ」
彼女はそのまま右手でゆっくりと胸を撫で下ろし、溝内の手前で右斜め上に撫で上げる。男は黙って遠くを見ている。女性は無表情のまま、自らの動く指先を目で辿っていた。指先が男の左の鎖骨に触れる。すると、彼女は手を離した。そして、突然、肘を少し引くと、男の、鎖骨の下あたりを、鋭く殴った。

「ぐっ……」
男が短く唸る。彼女は見向きもしない。肘を引き、もう一発殴る。
二発、三発、彼女は殴る。無表情に。無感情に。今度は左腕も上げ、男の右胸を殴る。ドスリと鈍い音が鳴る。
「くぁハッ」
男が咳き込む。彼女、右の拳で左胸を殴る。右胸。左胸。右胸。左胸。右肩。左脇腹。溝内にジャブが入ると、男は酷く咳き込んだ。上半身を少し屈める。すると、彼女は殴るのを止めた。男は咳き込む。彼女の前にこうべを垂れる。
彼女は黙っている。その目は男を見ている。激しい動きのせいか、横髪が乱れ、右目に少しかかっていた。
「足りない?」
彼女は無表情のまま問いかける。
「ェほっガはっ、ふ、ふグ、アぁまだ」
「……まだ?」
「んぅまだ……足りないッん、がハっ」
男。唾液が気管に入ったのか、口を手で抑えて長く咳が止まない。
彼女は咳き込む男を眺めていたが、やがてもう一度男に近づくと、右手で男をベッドに押し倒した。男は力無く、無抵抗にベッドに倒れる。きしゃりと安物のベッドの悲鳴が聞こえた。彼女は律儀に靴を脱ぎ、男の腹に股がった。頬を撫で、そして鋭く叩いた。肩を上げ、大きく、強く、一発、二発、三発、四発。左手で胸ぐらをつかみ、五発、六発、七発、八発。前髪をつかみ、九発、十発、十一発、十二発、———————

男の頬は赤く腫れた。髪が乱れ、ベッドに仰向けのまま。横をむくと、目が滲み、涙が細く零れた。彼女はベッドから降りて靴を丁寧に履き直す。両足しっかりと履き込み、靴先でトントンと床を打つ。さらりと振り向くと、まだ起き上がらない男のだらしのない姿。やはり無感情に、彼女は右膝を上げた。右の足を、スニーカーを履いたまま、男の腹に乗せる。そして優しく踏みつけた。ゆっくり、ゆっくりと丁寧に。丁寧に男の腹をぐりぐりと踏みにじった。

◇ ◆ ◇

「顔はまずかった?」
ベッドに座りながら彼女は聞いた。男はまだ仰向きのまま、腫れた頬を撫でていた。
「いや、いいさ。男の顔が少し腫れてたくらいで世間様は特に気にしない」
男は答える。
「そう」
無機質な返事をすると、彼女はベッド脇に置かれたバッグから煙草とライターを取り出した。
「タバコなんて吸うのか?」
「悪い?」
「灰皿ないぜ」
「携帯用を持ってる。吸わないの?」
「からきしだね。健康には気を使ってるんだ」
「…………」
煙草に火をつける。ライターをベッド脇の机に放り出し、溜息のように紫煙を吐く。
「そんなカッコで健康に気を使ってるなんてよく言えたかと思ったかい?」
男は自嘲した。はははははと、喉の奥から捻り出したような乾いた声。彼女はそんな男の様子を気にもとめないで紫煙を燻らせている。男はひとしきり笑うとぽつりと呟いた。
「……なんでさ」
彼女は男を見ない。
「キミはなんでこんなのに付き合ってくれる。エスだから?……いや、違うな。憐れだからか。憐れんでいるんだろうな。醜いままの俺をさ。汚いけど、これも人間だって。こうでもしてやらないと救われないって、目に痛いってさ。そういう慈愛なんだろう?」
「……そうやって」
「え?」
「そうやってまた、‘罪’を重ねるの?」
彼女は冷ややかに言った。煙草の苦い匂いが部屋に流れる。
「罪……かな」
「違う?」
「そうとも捉えられるかもしれないし」
「そうでないかもしれない」
「うん、そんな感じ」
彼女は白い息を吐く。
「……自己完結しないで」
その声はあまり大きくはなかった。が、男は何かハッとしたようだった。
「そうか。うん。ごめん。ありがとう」
「なんでありがとうなの?」
「えっと……いや、どうだろう。うん。わかんないけど、何となくありがとう」
「そう」
男は少し呻きながら上半身を起こした。片頬をボリボリと掻く。
「でもやっぱ……。いや……。どうして?」
「何が?」
男は彼女を見て聞く。
「なんで殴ってくれるのかってさ」
「あなたが頼んできたんでしょ。同窓会のあの日、たまたま会った私と話して、少し時間あるかって聞いて、頼んできたんじゃない。僕の慰めに付き合ってくれないかって」
「そうだけど……改めて言われると酷い誘い方だな」
ここでやっと彼女は男に振り向いた。煙草を指にはさんで。男と顔を突き合わせたが、やはりその表情に変化はない。
「聞きたい?」
「……いや、やっぱりやめておくよ。なんか、聞いたらもう会えなくなる気がする。僕らの関係はそれくらい脆い」
男は彼女から目を逸らした。
「ねぇ」
「何?」
「その『いや』って言葉、好きよね」
彼女は慣れた手つきで灰皿に灰を捨てた。
「いやまぁ……好きって訳じゃないけど、口癖?かな」
「今も使った、ほら」
「気に入らない?」
「どうかしら」
彼女の返事ははっきりしない。男は再度同じことを聞こうとしたが、躊躇ったようだ。もう一度ベッドに横たわる。しばらく沈黙がつづく。
「……煙たいから吸うなら外でやってくれ」
男は急に不機嫌そうに言った。
「そうね。じゃあもう行くわ」
彼女は特に変わらないまま、灰皿に煙草を押し付け火を消した。灰皿をバッグにしまい、立ち上がった。
「欲しかったら、また連絡して」
外套を羽織りながら彼女は言う。
「麻薬取引みたいだな」
「麻薬なんじゃない?」
「……そうかもしれない」
「あなたはどうするの?」
「もうちょっとここにいるよ」
「そう」
「また連絡する」
彼女は扉を開ける。
「……なぁ」
立ち止まる。
「何?」
「生きてて、幸せか?」
男は仰向きに天井を見たまま話している。彼女は数秒の間の後に答えた。
「わからないけど、死にたくはないわよ」
「そっか」
「……またあなたに会うまではね」
「え?」
男が起き、扉の方を見た時には、もう既に彼女はいなかった。出て行ったのだろう。男はしばらく呆然としていたが、やがて大きく息を吐き、もう一度横たわった。ベッドの横を見ると、テーブルにライターが出しっぱなしだった。

(忘れ物か……らしくない)

男は起き上がり、ライターを手に取った。可愛らしいキャラクターもののライターだったが、コンビニのレジ横で適当に調達したもののようにも見えた。

(死にたくはない……か)

男はライターをつける。すると蛍光灯が二、三回チラついたかと思うと、ぷつりと消えた。劣化でフィラメントが切れたのだろう。男は見向きもしない。窓の外からは相変わらず微かな光が漏れている。ライターの火は薄ぼんやりとした暗闇の中、煌々と燃え続ける。静かに。必死に燃える小さな火。男はしばし眺めていたが、やがてライターを持たない方の手を出し、羽虫を潰すように火を塞いだ。
「うっ……」
火は消えた。皮膚の焦げる匂い。燻る煙。タバコの匂いはまだ微かに部屋に残る。男は火傷した手のひらに顔を近ずけ、頬を撫でた。焼けた手で撫でながら、彼の喉はぐっぐと喘いだ。彼は泣いていた。しとしとと流れていく涙。暗闇は絶えず微かな光を湛え、優しく辺りを包んでいた。

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