ホーチミンに1ヶ月住んでみて
東京とか大阪を歩いていると決まって頭が痛くなる。
巨大なビルが立ち並び、圧迫感が物凄いし、人が多すぎてせわしない。五感から入ってくる情報が処理できる量を超えたのだろう、逆に何の情報も得られない。なんだか鬱っぽくなってくる。
巨大な社会の中で自分というものはほんのちっぽけなもので、何の価値もないのだと感じてしまう。
ここ、ホーチミンでは所狭しと建物が並んでいるし、人で溢れかえっている。交通量は東京よりも多いだろう。
しかし、東京にいる時のような圧迫感を覚えることも無ければ、鬱っぽくなることも無い。
それは、建物の形が不揃いで、さまざまな色合いだからかもしれない。それも広告などのような押し付けがましいものではなく、人々が思い思いに作ったり塗ったりしたような、のびのびとした形と色だ。
ただ単に街を歩いてみるだけで、人々が道端で食べ物を売ったり、盤上遊戯に興じたりなど、より街と生活が密接に繋がっていることが肌で感じられる。
決してホーチミンの生活は日本ほど快適ではないが、日本が忘れてしまったものを思い出させてくれる。それは、早朝の公園で運動をしているおじいちゃんおばあちゃんだったり、レストランで鍋を振る青年だったり、至る所にいる暇そうな犬だったりする。みんなそれぞれに悩みはあるのだろうが、彼らは生きるために生きているのだ。
人々の表情一つ一つに生が宿っていて、ハッとさせられることがよくある。彼らは社会における自分の価値を内面化することなく、日常の一コマ一コマを楽しみながら自分の人生を生きているのだ。
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