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しびろい日々(20)

 平鍋に放られた脂身のような塊は、熱を帯びると溶けはじめるが、本物の油のように爆ぜることはせず、白っぽい液状になって鍋底に広がっていく。
 すっかりクリーム状になったそれを指で触れ、ほどほどの温度になったことを確かめる。指先にすくったそれを額に乗せ、薄く延ばした。両の頬、鼻先から全体、顎の下、耳とその裏側。肌の見える場所を漏らさぬよう、顔が終われば首、次は肩、と、順繰りに塗り広げる。
 そうしている間に、額に僅かに酸性の痛みが生じた。合図である。
 調理台の脇に重ね積んだ布切れを手にすると、額を強く、こそげ取るように拭う。ごっそり、という音がしそうな量の、塗布した時より明らかに大きな油脂の塊が布にこびりつく。拭われた額の方は、つるつると湯上りのような質感をしていた。
 モグリは続けて、疼感を覚えた個所を上から順に布で拭いつつ、肩から下へと油採りの素を塗り広げていく。汚れて使い物にならなくなった布切れは、始末壺に”食わせ”て、まっさらの布に代えては拭う、を繰り返す。
 やがて足先までを拭い終えると、モグリは難儀そうに小さく唸り、尻のあたりをぽりぽりと掻いた。効果が強力なぶん、この油採りは”敏感な”場所には使えない。肌に作用するものなので、髪の汚れもそのままだ。
 とまれ、今はこの応急的な身繕いでしのがねば、モグリの腹の虫が、そろそろ我慢の限度を越えつつあった。
 汗っぽい髪を無意識に撫でつけてから、衣装箪笥の下段、外出着を収めた蔦編み箱を引っ張り出す。蓋を開け、綿布の襟無し上着と七分丈の脚絆をざっと広げ、しばらく日の目を見ていなかったそれらに虫食いの跡がないのを見て、安堵の息を吐く。
 着衣をまとめて箱から引き上げた。その下に覆い隠されていたのが、鈍く輝く。
 それは、目隠しの付いた赤銅色の円柱兜と、獣革の外套であった。


【一章・終い】
【二章へ続く】


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