「大八島国」内「熊曽国」の(邪馬国、巴利国、支惟国)
本文は、「邪馬台国・倭国三十国」の比定内音形読みによります。
一般的に「熊曽国」は、「鹿児島県」と認知されています。しかし、私の理解した「熊曽国」は(律令制)筑後地区から始まりました。
熊本平野の北面になる「筑後地区」は、「邪馬壱国」倭王国時代は「邪馬国、巴利国、支惟国」範囲でした。「大八島国」制定時には「熊曽国」と命名されました。
※九州島「倭国」内の国々は、玄海灘面の「末盧国、伊都国、奴国、不弥国」を除いて、他の国々は、「有明海、島原湾、八代海、橘湾」を中にして反時計周りに並んでいます。
「大八島国」の国々の並びも同じです。したがって「島原半島、経ケ岳、長崎半島」を有する「筑紫国」の次は「八代海」面となる「好古都国、不呼国、姐奴国、投馬国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国」が「豊国」。
次が、熊本平野の「華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国」で「肥国」となり、
「有明海」面となる「筑後地区」の「邪馬国、巴利国、支惟国」が「熊曽国」となります。
つぎに「邪馬壱国」倭王国に属する「伊邪国、邪馬壱国、烏奴国、躬臣国」がありますが、「大倭豊秋津島」と命名されました。
数百年前に「倭国」を征服した(卑弥呼の)「邪馬壱国」倭王国は、同盟国の「邪馬国、巴利国、支惟国」体制内に「倭国」統一王の「倭国倭王権者」と「倭国内九州人国十四ヶ国王」を拘束監禁し、
「倭国倭王権者」の権利である倭王権を代行して倭王権を振るいましたが、「魏志倭人伝」に記された「狗奴国」との戦いで「邪馬壱国」は破れ、
「狗奴国王」体制内に「倭国倭王権者」が収容されて「狗奴国王、倭国倭王権者」統合の「(古事記内)子淡道之穂之狭別島」統一王権が「狗奴国」内に構築されました。
この際の、「子淡道之穂之狭別島」統一王権内の「倭国倭王権者」内には、死んだ「卑弥呼」の後を継ぐ「台与」が従属連合されていました。
つまり、この統一王権内の主役は、「狗奴国王」です。「狗奴国王」に統合された「倭国倭王権者」は、数百年「邪馬壱国」に拘束監禁されて「邪馬壱国」倭王国を支えてきました。
想像するに、「邪馬壱国」王権者と「倭国倭王権者」は長年の王権付き合いで切っても切れない関係が構築されていて、
これまでとは逆転の主従関係をもって「狗奴国王」統一王権内に参加したことになります。
上記体制の中で「魏志倭人伝」にも書かれた「倭国」内混乱の中「台与」が王権について国中が治まった。
との状況は、「大八島国」制定の後の「六島」体制になり、「台与」体制が、「倭国倭王権者」を体制内に拘束し、次の「十神」体制内で「狗奴国王」も「台与」体制内に拘束して「狗奴国」内に「台与」の単独統一王権が確立しました。
上記「大八島国」、「六島」、「十神」制定内で筑紫平野内の「伊邪国、邪馬壱国、烏奴国、躬臣国」と筑後地区の「邪馬国、巴利国、支惟国」に大きな変動がありました。
〇「邪馬国、巴利国、支惟国」は、「熊曽国」となって「邪馬壱国」同盟国内から九州人国同盟国の「筑紫国」体制内に鞍替えしました。
〇筑紫平野内の「邪馬壱国」倭王国体制内「伊邪国、邪馬壱国、烏奴国、躬臣国」の四ヶ国は、「八代海」面の「好古都国」同盟国である「豊国」体制内に従属連合されました。
〇「豊国」内に従属連合された筑紫平野内の「邪馬壱国」同盟四ヶ国の大人は、「豊国」大人と「熊曽国」大人に率いられて共に統一王国である「狗奴国(子淡道之穂之狭別島)」統一王国内に移住しました。
〇「邪馬壱国」同盟国内「伊邪国、邪馬壱国、烏奴国、躬臣国」の全国民は「豊国」体制内の「不呼国(現在の鹿児島県)」領土内に強制移住されました
〇筑紫平野(大倭豊秋津島に変更)内の国々と国民がいなくなった筑紫平野内には、「豊国」の住民が移住しました。
「六島」島名内では、「台与」が「倭国倭王権者」を体制内に拘束して統一王権を取得しました。
〇元々「台与」の母国であった筑紫平野内の「邪馬壱国」国々を「台与」が取り戻して「伊邪国、邪馬壱国、烏奴国、躬臣国」を復帰しました。
〇「不呼国」に移住した「台与」体制国民が、「台与」体制統一王権に沿って「不呼国」と「豊国」領土を「台与」体制内に取り上げまじた。
〇筑紫平野の「邪馬壱国」四ヶ国範囲に移住した「豊国」住民は、「狗奴国」統一王権内となった「豊国」体制内に送られました。
〇上記状況で「豊国」が「狗奴国」の周防灘面に移住し現在に豊国名を残すことになりました。
〇この時点より「八代海」面の七ヶ国同盟国である「好古都国(天草上下島)」同盟国の「豊国」が消えてしまいました。
「卑弥呼と台与」が「邪馬壱国と邪馬台国」を築く
「卑弥呼」の「邪馬壱国」が、筑紫平野内で「邪馬壱国」倭王国を築き、「卑弥呼」の後を継いだ「台与」が,『古事記・子淡道之穂之狭別島』内の「狗奴国王、倭国倭王権者」の統一王権を奪い築いたのが「狗奴国」内の「邪馬台国」であると確信しています。
熊曽国 … 地形読み結果
ク 「子淡道之穂之狭別島(狗奴国)」統一王権内に交わった
マ 「有明海、島原湾、八代海、橘湾」内の「有明海」になり
ソ 「有明海」内「筑後川」が集まった
ノ 「筑後川」水路面内に集まり
ク 山岳地が交わった
ニ 山岳地内「邪馬国、巴利国、支惟国」内領土内につながりきる
熊曽国 … 業績読み?
ク 「邪馬壱国」倭王国内に交わった(拘束された)
マ 「狗奴国王、倭国倭王権者」が連合をして
ソ 連合内に「邪馬壱国」倭王国を集めた(征服した)
ノ 「邪馬壱国」倭王国を征服した「狗奴国王、倭国倭王権者」の「倭国倭 王権者」内に集まり
ク 「倭国倭王権者」の(※)身の回りの世話役を交わって
ニ 倭国倭王権者が集まる「狗奴国」統一王権内に入りきった
※「邪馬壱国」は、中国「始皇帝」からの援助を得た「徐福」の「徐福」船団が「倭国」に移住して建国した国ですから紀元前210年以前に「倭国」倭王国として存在したと思われます。
西暦248年に「卑弥呼」と「邪馬壱国」が消滅しました。それにしても400年以上の年月「倭国倭王権者」である「弥奴国王、斯馬国・北九十九島地区王、好古都国王」連合が「邪馬壱国」内で「倭国」王として、
「邪馬壱国」内で、おそらく中国式の接待を受けながら暮らしてきましたから「熊曽国」は、日常生活を含めた儀式にも必要「不可欠であったと思われます。