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優しい祖母でした

祖母が逝去した。
87歳という人生の大往生。最後の晩餐は寿司で、苦しんだのは一瞬だとか。
私はその場に居合わせなかったので、そうか、と思うしかなかった。

葬儀が終わると親族で集まり、ぐだーっとしていた。みんなぐたーっとしていた。
葬儀だけではないけれど、人生のイベントはかなり重苦しい。楽しいものなんて一握りだと思う。だから、全員が疲れていて、食べれないといいながら寿司やれ唐揚げやれを食べていた。
絶対食べきれないよ、と話していたオードブルと寿司は、最終的に5分の1ぐらいしか余らなかった。

祖母のことを書いたからと言って、お悔やみ申し上げますと言われたいわけでもない。
ただ優しい祖母がいたんです、と言いたいだけだと思う。祖母は優しい人だった。
幼少の頃、私の中に空前のコンビニブームが起きたとき、夜遅くでも付き合ってくれた。
赤飯が美味しくないと言うと、反骨心を燃やして別の炊き方で挑戦してくれた。
何か自分について悪いことが起きると、やだよお、と言いながら励ましてくれた。
多分、祖母の言動やれ支えは私の中でかなりのキャパシティを占めている。祖母は優しい人だった。私もそう在りたいと思った。尊敬すべき人だ。

祖母のように長生きはしたくない。
これだけが不義理だとおもう。祖母が近しい間に私が天にやってきたら、きっとびっくりすると思う。一瞬だけ喜んで、そうかい、と理由を聞いて肩を叩いてくれることだろう。
そうあってほしいな、とつくづく思う。

葬儀の際にずっと頭の中に蔓延っていたのが、私が死んだら私の葬儀に誰が参列するのだろう、ということばかりで、参っていた。
別に家族葬でいいと思う。ただこれから長い人生で家族が増える兆しが見えないので、家族葬とはなんとや、と思っている。
おそらく私が望む葬儀は、早めに私が死亡することと直結している。
だから祖母の葬儀に参列しながら、なんつーことを考えているのだ、と我ながら思った。親不孝が過ぎる。

人の死に触れると、ずい、と引っ張られる感覚がする。
今回の件は引き寄せられ続けるな、と思った。私の中で明確になった死のシーンを繰り返し続けるだろう。健康的でないのを知っていて、でも優しい祖母のところに行きたいような気がして、ずっと引き寄せられる。魅惑的な死の世界。私が目指す葬儀なんて、多分誰もしたくないというのに。

生き延びられたら、来年やりたいことが今のところ一個だけある。
拠り所にすると同行者の負担がすごいので、まあ適当にしようと思う。きっと死なないってそういうことだ。
祖母にも土産、買わないとな。


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