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合本:mtg駄文集

はしがき

思いついては書き溜めていたものがいろいろあったので一本にまとめた。長いのでもし興味がありそうなとこがあればそこから読んでもらえれば幸い。


The Rockについて思った事

※WARNING※
雑魚プレイヤーの隙自語注意報です。苦手マンはブラバ推奨。

私の2年間のミドルスクール体験はほぼこの「The Rock」と共にあったと言っていい。時々浮気はしたがデッキを回した回数は圧倒的に「The Rock」が多い。なのでここからは私が感じた「The Rock」の構造上の弱点と、そこから派生して「強いデッキの条件」について私なりに考えたことをアウトプットしてみる。ミドルを熟知した諸兄各位には「そんなこと20年前に知ってたよ」というようなことばかりかもしれないし、あくまで「mtg noob」である私の主観なので間違いもあると思うがその点ご容赦願いたい。

「The Rock」はデッキの調子によっても勝率にかなり差が出るデッキだと思う。調子が良ければ鳥→ディード→ダーム→村→「起源」でフタ、で勝たせてくれる。調子が悪いと土地土地土地土地土地土地→爆死。
よく言われるコンボデッキに強いという意味では決して弱いデッキではないと思うのだが、柔軟性に富む反面、比較的重めのソーサリーデッキが抱える共通の問題を「The Rock」も内包している。

特にこのデッキの場合、所謂「グッドスタッフ」型のデッキであるため採用カード1枚1枚はそれなりに優秀だが相互作用が薄く、その為前述したようなデッキの調子によって爆勝ち、爆死の両極端な試合が起こりやすい。ライブラリー操作の手段にも乏しく、マナカーブに沿って綺麗に連鎖しないと、軽いとは言えないソーサリータイミングの動きは捌かれ易く大振りで隙も大きい。その為切ったカードを各個撃破されてしまうと、こちらの手数が尽きてしまい、相手に主導権を取られるとあとはサラサラと水が流れるように負ける。これは「ランドスティル」に負ける時の典型的な負け方だ。

「ランドスティル」と比較して「The Rock」の構造的弱点を考えてみる。ソーサリーの重いカードを軽いカウンターで捌かれている間に「ランドスティル」とこちらのアド差はどんどん開いていく。「ランドスティル」は隙を見て相手のターンにも動ける上にリソースの回復手段に事欠かない一方で、「The Rock」は基本的に自分のターンにしか行動できずカードを切る度にリソースが漸減する。戦術的には「破滅的な行為」や「黄塵地帯」を相手のターンに起動することはできるが、基本的な動きはソーサリータイミングでしか行えない。

一方で1枚1枚が強力なカードでありながら各カードの相互作用が高密度に密接に結びついているのが「補充」だと思う。相互作用の係数が高ければ高い程デッキの強度は指数関数的に高くなる。しかもカード1枚1枚のカードパワーの高さ自体も桁違いに高い。だから「The Rock」は理論上、「補充」側に偶発的事故が起きない限り勝てない。相手の事故待ちということは対等な条件下ならほぼ100%勝てない事と同義だと思う。同じく「ゴブリン」にもほぼ勝てない。「補充」と「ゴブリン」はデッキ自体が相互作用の塊のように見える。「補充」がトップティアたる所以はこのカード同士の結びつきの密度の高さだと思う。それが「強いデッキ」の条件に直結していると思う。

「ランドスティル」や「補充」はカードをプレイすればするほど次のカードに連鎖していき強くなっていくように設計構築されている。反対に「The Rock」は1枚1枚のカードはそこそこ優秀なものの、動けば動くほど補給線が伸びきってしまい、ある一定のラインまでに敵を仕留められなければ弾が尽きて防戦一方になる。(それはほぼ敗北を意味する。)つまりある一定のターン数までに敵を仕留められなければ、こちら側はカードを使えば使うほど相対的に弱くなっていく。よく「勝ちきれないデッキ」と揶揄される所以はおそらくこのあたりだろう。

縦軸が強さ、横軸がターン数のグラフでイメージすると、一定のラインまでは右肩上がりにパワーが上がっていくが、特定のラインに達するとあとは打ち止めになり水平線に移行するのが「The Rock」。逆に一定のラインまでは緩やかな曲線を描いて上がっていくが、あるラインを超えるとグンと一気にパワーが増し、最高点に達するとまた緩やかに水平線に移行するのが「ランドスティル」。あくまで私の体験上の感想でしかないが面白いことに両者のデッキの「ライン」は絶妙なバランスの一点で交差している。

その一点は私の体感では「The Rock」にとっては「微不利」か、良くて「五分」。あとは使い手の腕、その日の運、細かい構築の違い次第だと思う。そのラインまでにいかに迅速に場を固められるかが「The Rock」が「ランドスティル」に勝つ条件になる。逆にそれまでに有利な状況を作り出せなければ、一度完全な持久体制に移行した「ランドスティル」にはもう何も通らなくなる。

このマッチアップは基本的にこちらから仕掛けなければならないので徹底的受けで構築された「ランドスティル」側に都合がよく、やや有利なマッチだとは思う。こちらは「受かるか、さもなくば死」という、刃の上を歩く気持ちでゲームを仕掛ける一方、通すか通さないかの主導権は常に「ランドスティル」側にある。私ほど「The Rock」で「ランドスティル」に繰り返し負けたプレイヤーもそういないと思う。だから何の自慢にもならないが負け方に関しては一家言あると自負している。(本当に自慢もクソもない。)

こちらの戦法は「ランドスティル」側が持久戦体制を整え終える前にハンデスで露払いをした後に「生ける願い」を通し、「黄塵地帯」で足回りをズタズタにして回復しきる前にクロックで殴り倒す。逆に言うとこれ以外に勝つ方法がない。まるで理不尽ゲーのボス戦を毎回やらされている気分である。この両デッキに関して言えば、「The Rock」がこのムーブを出来るかどうかで遅くともだいたい4~5ターンまでには勝敗は決するものと見ていいと思う。特に「ランドスティル」が「嘘か真か」を撃つ4ターン目が分水嶺になる。経験上ここで強い5枚が捲れるとほぼ目なしと思っていいと思う。「補充」や「ゴブリン」が派手なだけに埋もれ気味な感はあるが、そもそも「ランドスティル」のポテンシャルはミドルのデッキの中で抜きんでて高いと思う。あまりそういう意見を聞いたことはないが、番付表では個人的に「補充」の次点に位置してもいいのではないかと思う。

ここまで散々「The Rock」のあまり良くない側面について書いてきたが勿論良い所もある。そもそも本稿では目標設定値が高すぎるが故に苦汁を舐めさせられている節があり、「The Rock」単体で見ると個々のカードパワーがそこそこ優秀で、「破滅的な行為」が定着すれば、攻撃しつつ常に盤面に睨みを利かせることができる強いデッキだと思う。トーナメントでは複数の対戦相手を広く浅く見れる安心感のある腰の据わったデッキだ。

8枚のハンデスがコンボデッキに対しては効果的に作用する。「悪魔の布告」と「破滅的な行為」も併せればトップメタの一角たる「スタイフルノート」に対して非常に盤石な防衛能力を発揮する。しかし程なくして「スタイフルノート」も「ミシュラの工廠」を採用するなどして布告除去に耐性をつけてきた。まるでイタチごっこだがこれもメタが回っていく要因なのかもしれない。これがミドル環境の面白い所以でもある。他のコンボに関して言えば特に「ワールドゴージャー」や「エンチャントレス」に対しては相性が良い。「エンチャントレス」のトップ補充で負けるのはソーサリーデッキの運命であるとして甘受する以外にない。

私がミドルスクールを初めた2022年頃はコンボデッキが大いに幅を利かせていたので、それらレガシー級のデッキに対して後発かつズブの初級者の私でもほぼ五分で渡り合うことができ、先発のレガシープレイヤー達に比べ極めてカード資産に乏しくスタートで立ち遅れたミドル後進国の私には比較的安価で組める「The Rock」は非常に頼もしい存在だった。

逆に2024年現在、このデッキは環境的に強い逆風に晒されている。「ゴブリン」の台頭が完全にそれを決定づけたと言っていい。ミドルはメタが自然と回ると書いたが当面は「雌伏の時代」に甘んじることになるかもしれない。
ミドルスクールのメタはあって無きが如しとよく言われるので、こればかりはわからない。特にトーナメントでは各々が好きなデッキを使う傾向にあるのでなおさら見通しが効かない。「錯乱する隠遁者」や「繰り返す悪夢」を採用したり、ライブラリーの潤滑剤に「森の知恵」を1枚差しするくらいの抵抗は試みてもいいかもしれないが、今はそもそもそういう次元の話ではないし焼け石に水程度の効果しかないだろう。

「The Rock」は私が初めてフルスペックで組めたミドルスクールのデッキで、当時「帰化」と「貪欲なベイロス」がまったく市場になく、全て旧枠にするのに時間がかかったのも今や良い思い出だ。そして「ブラストダーム」は私の少年時代とmtgを結びつける思い出の1枚だ。プロフェシーの構築済みデッキ「猛撃」から出てきたコイツに、「コモンでこんなに強くていいのか?」と子供ながらに思った覚えがある。なので自然とデッキにも愛着が生まれる。もっとも、まだ小学生でコントロールやクロックパーミッションの概念もないクリーチャー大艦巨砲主義者だった私は同じデッキに入っていた8/8という驚異のP/Tを誇る「力の化身」の方に心を奪われてしまっていたのだが…。

なのでなにも好き好んで自分のデッキの弱点をあげつらっているわけではない。ただ現実の問題として「The Rock」にもデッキパワーの限界値がある。その限界値の正体を突き止めるべく何度も対戦をし、何度も負け、対戦相手の意見を聞いた。それらを整理し、一度アウトプットしたかった。今まで語ったことの中にはそうしたやりとりの中で得られた知見や対戦相手から貰ったアドバイスの受け売りも多く含まれる。

以上が私が今「The Rock」に関して無い知恵を最大限絞って書き留めた自分なりの現状報告になる。ここまでしか上がれないという"天井"があらかじめ見えているゲームにどこまで熱量をキープできるかは難しい問題だ。それはデッキの問題でもあるし、私個人の技量の問題でもある。しかしながら、自分で言うのは傲岸不遜に聞こえるかもしれないが私個人の技量で言えばこの2年間で今現在ほぼ高止まりしている。「高止まり」というのは「プレイヤーとして最高レベルに達した」という意味ではなく、あくまで私個人というプレイヤーの個体値の「レベル上げの限界値に達した(カンストした)」という意味だ。これ以上同じデッキを擦っても経験値を得られない為レベル上げすることができない。

ここから先はひたすら個別のシチュエーションで起こったミスの洗い出しといったひたすら重箱の隅をつつくような、言ってみれば作業ゲーに徹することになり、それはあまり楽しい事ではない。数万ドルの賞金を勝ち取る為に切磋琢磨するプロプレイヤーならいざしらず、私は在野の一介のnoobプレイヤーでしかない。「環境」に抗うために振るわないモチベーションを無理強いしてまですることではないだろう。mtgは当然ながら趣味のひとつでしかない。楽しくなければやる意味もない。

握るデッキの趣向を思い切って変えてみるというアドバイスを貰ったが、これはなかなかよさそうだと思った。新味な気持ちが新たなモチベーションに繋がるかもしれない。例えばの話だがこちらが「ランドスティル」で「The Rock」を相手にやってみると新しい知見が得られるかもしれない。時には一度持っているものを手放して新しい風を入れることもひとつの手だろう。今日はそれにささやかな期待をこめて筆をおくことにする。再見。

店舗とオンライン

私が初めてmtgのカードを手にしたのは1999年。
それからmtgとはつかずはなれずの付き合いを続けてきたことは過去の記事でも書いた通りだが、私が初めて本格的に対戦を始めたのは2022年からだ。それも対面ではなく、オンラインである。パンデミック下でネットユーザー間のオンライン対戦が活発になった時期にタイミングが合致したことは非常に大きかっただろう。

そして2023年に実店舗で何度か対戦する機会に恵まれ、今年(2024年)からは念願のイベントに出ることができた。それまで自宅の自室でPCでオンライン対戦しか経験がなかった私にとって、オフラインでの対戦は様々な「カルチャーショック」を受けるところからはじまった。今回はその「カルチャーショック」について書こうと思う。

本来ならオフラインが本流のはずなのだが私の場合順序が逆だ。それまで私にとっての対戦はウェブカメラと自分のデスクとディスプレイに映る相手の盤面がゲームの全てだった。静かでリラックスした環境で都合のいい時間に一人でディスプレイの向こうの対戦相手とプレイできる。

しかし実店舗のイベントは全く環境が違う。当然の事としてまず現地まで移動しなければならない。私はただでさえ出不精だから、移動時間が1時間を超える場合はかなりの"気合い"を要する。店にたどり着き、登録を済ませて大会スタートがアナウンスされ、ほぼ一斉に試合がスタートする。開始早々正直言って私はあまりの騒がしさに閉口した。

mtgは口頭でプレイの宣言と確認を避けては通れない。オンライン対戦ではプレイの宣言も確認も一対一だから余計な音は一切聞こえない。だが店舗では数種類のイベントが同時開催されている場合がほとんどで、おそらく30~40人の人間が同時にそれを行っている。あくまで私の体感では休日の街の大通りと同じくらいの騒がしさだ。誰もが自然と声量が高くなる。そうしないと私も相手も声が聞こえない。

プレイが白熱するとリアクションが大きくなることもある。正直私は狭くて騒がしい場所がこの世で一番苦手だ。著しく集中力が削がれる。無論私もその環境の一部なのだが。ただ今まで静かな環境で対戦に集中できていた身としてはその環境の変化にかなり戸惑った。

利用可能なスペースの狭さにも驚いた。縦にも横にもである。自宅でプレイする分には自分のデスクを使いたいだけ使える。しかし実店舗のテーブルは私にとってはやや狭い。私は荷物を減らすためと席移動の度に片付るのが煩わしくてプレイマットは使わなくなったが、お互いのプレイマットが収まるくらいの広さがあれば…というのはやはり贅沢な要望だろう。しかしテーブルの端からせっかくのプレイマットの下端がベロンと垂れているのは、見ていても使っていてもいかんともしがたい。

日本は都市部の物件はどこも狭小で利便性が高い場所ほど地価も高いから回転率と収容人数の兼ね合いでそうならざるを得ないのは分かっているが、やはり二人対戦が可能なスペースギリギリに切り詰めている印象を受ける。私はまだマスクをしていることもあり店内の人数が多い時は熱気と軽い酸欠で頭痛がした。

対戦の前は相手のデッキをカットする。公平性の担保の為に重要なのはわかっていたが、その時はじめてデッキは自分だけが触るものではないことに気づかされた。私のデッキの方は乱暴に扱われなければ別にどんなカットをされても構わないし今のところそんなことをする人は見たことがない。入念に横入れシャッフルをする人から、2~3個の山に分けて詰み直す人などやり方は人それぞれだ。

私はそもそも横入れシャッフルが得意でない上にどんな高額カードが入っているかわからない相手のデッキをシャッフルをする勇気がないので山分けにして詰み直している。オンライン対戦ではデッキに触るのは自分ひとりだけである。同時に3重スリーブにしたり、「プレイ用」のカードはそもそも状態に拘らないという人の感覚が少しわかった気がした。

カードゲーム界隈で槍玉にあげられがちな所謂"ニオイ問題"については私は今のところ気にはならなかった。そう言う私が他のプレイヤーに不快な思いをさせていないことを祈る。

最後にもう一つ挙げたいのは、早く終わったプレイヤーが他の対戦卓を観戦することは当然あるだろうが、私の卓が長引いているときに複数人のプレイヤーに観られているのは精神的にかなりしんどい。私はただでさえ他人にじっと見られるのは苦手だ。テストの答案を書いているのをじっと教師に横で見られている感覚に近い。私の稚拙なプレイを見られるのが恥ずかしいのが理由なのだが、特に長引いている上に負けこんでいるときにそういう状況になると余計に焦る。そして焦るから余計にプレイがブレブレになる。そんなこともあって、とにかく「ゲーム外の要素」に「精神的リソース」を割かれる事にまず私は向き合うことになる。

慣れれば割かれていくリソースも減っていくのだろうか。かと言ってそれが勝敗に影響を及ぼしているかと言われればあまりそういうことはないように感じる。対戦が終わった後の行動は個々人の自由だし、店も禁止していないのだから偵察活動も兼ねて他卓を見る人がいても咎める理由は何もない。むしろ禁じられていないのであればしない理由がない。私も遠巻きに見るくらいはするかもしれない。

こうして散々「店舗下げ」のようなことを書くとあたかも店舗を腐しているようで悪い気がするので強調しておくが、むしろオンラインとのギャップに「面白さ」を感じたからそれを残したいがためにこの文章を書いた。私は所詮後発のビジターであって、もちろん郷に入っては郷に従うつもりだ。先に述べた通り店舗を悪し様に言いたいがためにこの文章を書いたわけではないことは今一度念押ししたい。私は長い間店舗で対戦をするということに憧れを持っていたからそれが実現して本当に良かったと思っているし、これからもイベントが継続されることを願ってやまない。なにしろ実店舗のイベントに参加することは子供の頃からずっと私の夢だった。当面の目標はとりあえずいろんな意味でいろんなものに「慣れる」ことだろうか。勝敗はそのまた次であろう。

私が利用したカードショップは4~5件程度しかないが、私はカードショップの空間それ自体は好きだ。店舗によっては珍しいボードゲームや様々なグッズを置いてあって、なんというか妙に落ち着くのだ。部屋で好きなものに囲まれると落ち着く心理と似ているのだろうか。対戦中相手の表情や反応がビビットに伝わってそれを観察できるのも対面の良さだと思った。対戦が終わった後の次のラウンドまでの短い雑談で、初対面の人と思いがけず話が弾んだりするのは非常に面白い体験だ。

30歳を過ぎて10分か20分そこら前に出会った赤の他人と打ち解けられるのは「mtg」という共通のコミュニケーション言語があるからだろう。mtgという趣味を介するだけで他者と親睦を深める機会を得られるということがなにより新鮮で面白いと感じた。オンラインで完結できるのは確かに便利かもしれないが、便利で無駄がない故に"アソビ"がないともいえる。あえて「ゲンバ」に足を運ぶ意味と楽しさを知った面白い経験だった。

猫も杓子も効率化、省力化と喧しい昨今だが、(私はコスパ、タイパという言葉が好きではない。つい使ってしまう時もあるが…。)ミクロな視点から物を申せば、あえて無駄から生まれる豊かさを享受するのも、人生をゆるく楽しむ秘訣なのかもしれない。

収集癖

私は最近既存のカードを安いものから可能な限りより古いエキスパンションに置き換えることにはまっている。私は以前まで4版以前のあのP/Tのフォントが苦手だったのだが、今ではそれに"味"を感じるようになった。フレームの色合いも、印刷の質感も微妙に違うのである。4版以前の微妙な照りのある印刷と少しスモークがかった色合いが好きだ。テキストボックスのデザインも微妙に違う。

5版以降のイラストと4版以前のイラストではなんとなく雰囲気も違う。4版以前はよりダークでアングラなアート感のあるイラストが多い気がする。今私の手元にたまたま(本当にたまたま)「ゴブリンの王」の4版と7版のカードが転がっているのだが、この2枚を見比べると隔世の感を禁じ得ない。7版のイラストの方が明らかに技能的にも写実性においてもリードしていると思うのだが私はなぜか4版のゴブリンの王が好きだ。

初版と7版の「シヴ山のドラゴン」のイラストを見ても「ゴブリンの王」と似た印象を受ける。(ちなみに「シヴ山のドラゴン」はわりと甲乙つけ難いと思っている。メンドクサイやつだ。)もちろん5版以降のカードにも好きなイラストは枚挙に暇がないほどあるのだが(というより世代的に言って、絶対数であれば5版以降の方が圧倒的に多い)ここで提示したのはほんの一例だ。

私はmtgに於いてはデジタルアートよりもアナログアートの方が好きだ。私が好きなmtgのアートはアングラな雰囲気のある、いい意味で"ちょっと怪しい海外のボードゲームの様な感じ"なのだ。デジタルは輸送や画材などの物理的な制約を取り払う魔法の様なツールだが、同時にそれまでアナログアートに備わっていた、何か得体のしれない魔術的な魅力も取り去ってしまった。

それは2003年に旧枠から新枠に切り替わったときにも感じたことと同じだ。
旧枠はいかにも魔術書の1頁のような興味をそそられる怪しさがあるのだが、新枠はデジタルカードゲームの様な、いかにも人工的なフレームになってしまって、オヤジが一人でやっているちょっと古いけど旨くて良い雰囲気の居酒屋が、そこそこ安くて綺麗だけど個性のない画一的なチェーン居酒屋になってしまったような、そんな残念な感じがする。チェーン居酒屋も便利でそれはそれで良いのだが。

デジタルアートはクリアでパキッとしててそれはそれで「映える」のだが、私はアナログのタッチが残ったスモーキーなアートが好きだ。日本語版フォントも甲乙つけがたいがどうしてもテンペストまでの明朝体にいぶし銀のカッコよさを感じる。サーガ以降のフォント(名前は知らん)もあれはあれでいいのだが、カードゲームでありながら国語の教科書のような明朝体を使っているところに一種のフェティシズムを感じる。テンペスト期に巡り合わせられなかったがゆえの憧れなのかもしれない。

総合点的には4版日本語黒枠(もしくはクロニクル日本語黒枠)が最強なのだが、限定版だけあって一部の人気カードは少々値が張るものが多い。安いものから少しずつ集めてはいるのだが、「そんなことをしてるから本当に必要なパーツが集まらないのではないか」と問われると返す言葉もない。あえて言い訳させてもらうなら「ゲームの勝利とコレクションでは得られる栄養の種類が違う」のだ。私は収集癖がどこまでも抜けきらないのだろう。

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