第2話 田舎に帰ったヘンなおじさん

原題「台北に私の人生はないーー阿昌伯の孤独」

 ●作者紹介 智偉
 老いは恐れないが、死はとても怖い。だから小さなときから悪夢といえば死だった。死に対して恐怖を持ち続けたせいで、逆に死に近づきたいと思った。だから、老人とおしゃべりするのがとても好きだ。ただし、そうしたお年寄りが、死が怖いと言うのを聞いたことはない。
 今年33歳、現在のところまだ自分が老いているとは思わない。台湾男性の平均寿命は73歳だから、だいたい37歳の誕生日の日が来てやっと半分が過ぎたことになる。そうすれば、そんな感覚もわくだろう。

 小さいときから自分は男が好きだと知っていた。隣のクラスの男の子L。いつも僕の顔を赤くさせ心を躍らせ、魂を夢中にさせた。放課後は彼を探して一緒に運動場へ行って遊びたかったが、こんな風に積極的すぎる行動は彼を怯えさせるとわかっていた。さらに重要なのは、わずか7歳の自分にしてすでに、男が好きだということは口にできないヘンなことであり、日常生活のいつでもどこでも見られる男女のアベックという暗黙の規範に対して、僕のようなヘンな本心のものはまったく相入れない、と知っていたことだ。成長するにともない、幸運にもLはおなじクラスの同級生となり、長机で椅子を並べるようになり、彼に対する好きはますます大きくなったが、心中の心配と恐れはおなじように膨らんでいった。

 ●私も同類だ

 クラスの同級生が男女のアベックの遊びを始めるころになると、僕もある女子学生Cとみんなに囃し立てられてカップルになった。アメリカから台湾に就学のため帰ってきた彼女は、ゆったり落ち着いた人だったが、僕は心のなかではありがたくもあり気まずくもあった。ありがたいという意味は、僕はクラスの同級生から、正常で、彼らの目のなかでは彼らと同様、女子が好きな男子と見られていて、それで僕もこの男子と女子を組み合わせる遊びのなかへ組み入れられたということだ。また、気まずいというのは、僕はCに対しては本当にただいい友だちと見なしていて、よくおしゃべりはしたけれど、心の中ではやっぱりLのことが好きで、クラスのほかの同級生もLとほかの女子とがくっついたと知らせてくれたとき、僕は心の中でずっと切なくて嫉妬していた。でも、僕はなにも言えないし、なにも顔には出せないことはわかっていた。
 そうした心情のせいでいろいろ考えることが多く、自分はけっきょく何者なのかということはよくわかっていた。
 そのころ家の付近に大きな書店があり、一つ一つの本棚のなかに自分を知るための答えを探し求めていたが、大判のゴシップ雑誌のなかにときどき新公園に関する記事があり、中を見るといつも「変態じいさん」が公衆トイレで張っていて、若い男の子が入ってくると下半身をこっそり見たり、こっそりさわったりするというのだ。とくに記事には「へんなおじさん」(訳註:原文は怪伯伯。ちなみに台湾でもよく知られる志村けんの「へんなおじさん」は怪叔叔)がお金を出して男の子を性的に犯すとか、トイレや草むらに引きずり込んで性的に犯すと書いてあった。僕はいつも一つ一つこういう記事を見ると、そういう「男と男」の行為という点で自分と「へんなおじさん」たちは同類だと思わされたが、記事には「気持ち悪い」「ホモ」「エイズ」「わいせつ」そして「変態」などの文字がつぎつぎ現れて、「へんなおじさん」とは一線を画したいと思い、心のなかでこっそり自分は絶対こんな「へんなおじさん」にならないぞと決心したのだった。

 ●へんなおじさんがやってきた

 ブザーが鳴った。ホットライン協会のがらんとした事務室のなかは自分一人しかいなかったので、立ち上がってドアをあけると、ドア口に一人の「おじいさん」が立っていた。
 「ここは例の同志協会ですか」。彼は聞いた。
 「そうですが。どういうご用でしょうか」。僕はかんたんに答えながら、彼より頭一つ高い視線から、彼を観察した。
 彼は阿昌伯(訳註:アーチャンポー。チャンおじさんぐらいの意)。僕が彼と知り合ったあとの3年、ずっと彼をそう呼んだ。
 一人で台北に住んでいる阿昌伯は、もともと雲林(訳注:台湾中部、西海岸の県)の人で、ゲイだということがバレ、隣近所の目が怖かったり家族が彼がゲイだといって抑圧したりするのを避けるため、田舎を離れて台北へ来ることを選んだ。年も60歳に近い彼の日々はまあまあ平坦、手に少しお金があるときには、(ゲイ)サウナが彼の唯一の温もりを得る場所となる。ある日、彼はサウナでゲイパレードのポスターを見て、さっそく第3回のゲイパレード(訳註:2005年)に参加した。
 「私はあんたを知ってますよ。パレードの日にステージに立って司会してたでしょう。私はあんたの前の場所に座ってたんですよ。あんた、他人にゲイだと知られて恥ずかしいということはないの?」。阿昌伯はドアを入ると聞いた。
 阿昌伯は小学校のときにもう密かに自分は男が好きだと気づいていたが、雲林のような素朴で保守的な場所なのでおとなしく成長して中学を卒業し、そのあと生活のために、彼は嘉義(訳注:雲林の隣県)のあるレストランへ行って見習いになり、毎日高温の厨房でずっと頑張り、皿洗いや野菜洗いや出前やらで、日々はそうやってすぎていった。
 「そのころ私はほかの同僚と一緒に便所に行く時、いつも彼らのチンチンを見ていたよ。あとで人に見つかって、みんなの噂になった、あいつは変態だ、ってね。しかたないから結局辞めるしかなかった」。阿昌伯はしょうがないといったように言った。
 僕の目の前の阿昌伯は、身長は160センチ足らず、痩せっぽちで、口を開いて話すときは、不揃いで欠けたところのある歯が見えた。顔中に現れた苦労に加えすでに半ば白くなった短い髪、それからずっと半開きの目に足もとは半分ボロボロになったサンダルで、僕の脳裏の「へんなおじさん」という言葉に結びついた。
 僕は彼に座ってもらい、お茶を出したが、彼の向かい側に座ることにした。

 ●若いゲイのためのリソース

 19歳でカミングアウトしたあと、僕は自分のゲイとしての人生のために日々を過ごそうとしっかり決めた。21歳のとき、最初のゲイの友人ができ、豊かなゲイライフを開始し、ゲイグループに参加したりジェンダー解放運動に共感したり、そうしたプロセスのなかで自分のアイデンティティを固め、過去に自分の身の上に加えられた差別やスティグマに立ち向かった。23歳のとき最初の恋愛をし、24歳で2度目の恋をし、同時にホットラインでの仕事を始めた。
 自分はラッキーで、リソースの多いゲイだということは、否定しようがない。
 僕の日常生活は、ずっとゲイと不可分で、週末の夜ちょっとくつろぎたいときはゲイフレンドリーなバーに行き友だちと何杯か酒を飲み、盛り上がったら互いにハグしあい他人に渋い顔をさせるのもへいちゃらだ。ふだん友人と飯を食べるときも、レストランではばかることなく自由にゲイのあいだでの恋愛話をしたり、あるいは可愛い男の子について夢中になったりする。なぜなら、公共空間はどの市民にも開かれたものであることを信じているので、他人の目線など恐れはしないからだ。休日も、彼氏とペアルックで一緒に映画に行ったり露店のフラワーマーケットをぶらぶらしたりして、おおいに自分とパートナーのあいだの愛情宣言を表現する。
 ゲイであることは、すなわち僕の生活なのだ。

 ●みんなあいつが悪いんだよ

 「あんたは自分がどうしてこっちの人なんだろうと考えたことはないの?」。話のなかで、阿昌伯はこの質問をしてきた。
 「小さいときから男の人が好きでしたよ。ごく自然ですよ」。この答えを、僕はホットラインの仕事の場面で何千何百回答えたかわからない。
 「あんたはわれわれこっちの人間はとても不正常だとは思わないの? 私はだれかに影響されたと思うんだ。そうじゃなきゃ双子の弟のほうはなんで正常で、私が不正常なんだい!」。彼はそう続けた。
 もともと阿昌伯は双子の兄のほうで、うりふたつの弟はとっくに結婚しもうお祖父さんだ。それで同性愛は先天的なものだという言い方は、阿昌伯にとってはあてはまらない。弟一家が子孫繁栄しているのを見ると、ひとりぼっちの彼は、いっそう自分はなんで男が好きなんだろうといぶかしいのだ。
 「私はきっとあの男に犯されて、それでこっちの人間になったんだよぉ」。阿昌伯は無表情に言った。
 阿昌伯は雲林のレストランでの仕事を辞めたあと、一人で北上し、台北でその日暮らしをしていた。まずある運送業者で配達員になり、毎日朝の8時からずっと午後6時まで働かねばならず、ときには深夜まで残業せざるをえなかった。彼のように痩せてちびの男にとっては、これはたしかに辛い仕事だったが、中卒の学歴しかなく勉強も好きではない彼について言えば、体力が生活の頼りとするべき唯一の道具である。この仕事はつまらなくはあったが、周囲の同僚たちはたくましい体をしていて、夏の暑いときはみな上半身裸で荷運びをし、阿昌伯はいつもチラ見した。が、かつてレストランで同僚に見つかった経験があるので、今度はあからさますぎないようにし、二度とこの仕事の機会を失わないようにした。
 しかし、あるときの昼寝中(訳註:中国社会ではシエスタの習慣がある)に、一人の男の同僚があたりに人がいないすきを利用して年若の阿昌伯をレイプした。これがはじめての性体験だったが、思い出すにたえない経験だった。
 「全部あいつのせいだよぉ」。阿昌伯はそう言ったが、この「レイプ」事件のずっとまえからこの同僚を好きだったのではないだろうか。
 のちにあるとき、僕はホットラインの若いボランティアたちともに、阿昌伯に外へ晩ご飯を食べにいこうともちかけた。われわれ一行6、7人の若者はレストランに入ったときからピーチクパーチク男の話をしていたが、阿昌伯はと見れば緊張して心配そうに口を閉ざし、テーブルのうえのいろいろな料理も楽しまなかった。
 「どうしたんですか? この料理、お嫌いですか?」。僕は聞いた。
 「あんたたち恥ずかしいと思わないの? ついたての向こうのテーブルの人があんたたちが男の話をしているのを聞いてるよ。ひとがもし聞いて気分を害してあんたたちを殴ったらどうするの?」。阿昌伯はまじめに声を潜めて答えた。
 阿昌伯が成長した当時は、ゲイ雑誌も、ネットの出会いも、ゲイグループもない年代であり、そのころはまだ「同性愛」とか「ゲイ」という言葉もなく、あるのは「おかま(人妖)」「変態」「脚仔仙(訳注:台湾語でホモのこと)」ぐらいで、行ける場所といえばただとなりの県や市の鉄道駅付近の公園だけで、そこでは警察に取り締まられたり交番に連れて行かれたりすることにも用心しなければならなかった。社会の差別は阿昌伯の人間関係と感情を遮断し、彼は恐怖や恐れのなかで成長して現在に至り、また80年代に台湾で始まった暴風のようなエイズに直面した。「あれは変態や同性愛だからなる病気!」。時まさに青年期の彼は、自分をさらにはじっこの隅に置くようになった。

 ●あんたのちんちんをさわってもいい?

 阿昌伯はいつも1、2ヶ月に一度ホットラインに来て、事務室の同僚が忙しいときは、ひとり静かにソファーエリアでテレビを見ていた。彼は一人でいることに慣れているようで、ある種、人の邪魔をしない点では僕と大いに似通っていた。彼とおしゃべりするといつも、どこか出会いの場所はない? と聞いてきた。でも、林森北路(訳註:飲み屋街としても有名)の老け専バーで飲むのは、彼には経済的には負担があった。サウナも彼は1、2ヶ月に一度行ったが、いつも彼をかまう人はおらず、何年か前はまだ人がいっぱいいた台北新公園も現在はすでに人の影もほとんどなく、大多数の若者はみなキラキラまばゆい紅楼広場に行ってしまった。
 彼は三重市(訳注:現在は新北市三重区)の百人以上がひしめきあう賃貸アパートに住んでいて、だいたい2坪(1台湾坪 = 3.3 ㎡)の空間にシングルベッドとテレビを入れ、過去の貯金と雲林の親族からの毎月いくらかの仕送りとに頼っている。阿昌伯はこんなふうにこの巨大な都市で生きているのだ。彼によりそうものはボロボロの赤い単車だけで、彼を載せてこの都市をめぐりめぐっている。
 ポツポツと語って、彼はしかたなく立ち上がった。立ち上がって帰ろうとしたので、僕は彼をドア口まで送ると、彼は歩みを止めた。
 「あんたのちんちんをちょっとさわっていい?」。彼はこずるそうに言った。
 「だめだよ。僕は彼氏がいるから……」。僕は焦ってそう言うと、思わず三歩あとずさりした。
 でも、阿昌伯の手はすでに僕の下半身に向かい、ちょっとさわった。僕はとっさにどう反応していいかわからず、「この色ボケめ」と心のなかでこの言葉が飛び出した。小さいころの新聞や雑誌のあの「へんなおじさん」、そのいやらしい姿態とまなざしが、またふたたび僕の脳裏に出現した。そのまま呆然としていると、彼は大急ぎで離れ、エレベータに乗って僕の前から消えた。
 この僕より30歳も年上の阿昌伯が立ち去ったあと、台湾社会のゲイの人権における変化や、この20年来のゲイムーブメントが「ゲイの消費空間」を切り開いたことを思うと、あとには老いて貧しくて見た目もよくない阿昌伯がとり残されていたのだ。われわれ現代のゲイは、戒厳令解除(1987年)を経てゲイの欲望空間もそれにつれ解放され、新公園からホームパーティーへ、Funkyから紅楼広場へ、漢士からAnikiへ、台同社から同志ホットラインへ、IRCからUTへ、現在のわれわれは本当に多くのさまざまな欲情空間を楽しんでいる。でも結局、そこへは行かなくなり、光通信上のエロいヌードの男性画像やダウンロードできるゲイビデオがあれば、寂しくて耐えられなかったり、あるいは性欲が高まる夜には、私たちは十分満足できる。

原注:
Funky:1990年開業の台北のゲイバー。若いゲイがよろこんでダンスや飲酒に集った夜の店。休日はとくに人波に溢れた。
紅楼:台北西門町の紅楼劇場付近。2007年ごろから多くのゲイ男性の夜の店が集まり、オープン形式のために、台北のとくに恵まれたゲイ空間となり、知名度はまたたくまに国内外に伝わった。
漢士、Aniki:ともに台北市のゲイサウナ。漢士は西門町にあり古い歴史を誇る。Anikiは林森北路一帯にあり、近年開業した新しいサウナ。
台湾同志社:1995年〜2001年ごろのゲイ団体。定期的に講座やイベントを開催した
IRC:1994年に立ち上げられた、BBS以前のネットのプラットフォーム。インターフェイスとBBS(電子掲示板)を使用し、webとはまったく異なる。初期のIRCはゲイがネット上でおしゃべりし、友人と知り合う重要な集合地点だった。
UT:だいたい2001年ごろ立ち上げられたネットのチャットルーム。ヘテロ、ゲイ、レズビアンに別れていた。多くのゲイが交流やヤリ目的に使った空間。この6、7年、警察がつねに児少法(児童と少年の福祉権利保障法)によってUT上で悪質なおとり捜査をしている。

 比べてみると、阿昌伯の世代のゲイはこんなものを持ったこともなく、彼らが成長した保守的な時代には、絶えずゲイを魔物化する差別的な言説や、あちこちで人をびくびくさせる意地悪な警察の捜査、それから迷惑行為取締り条例でゲイを逮捕するといった悪法があり、阿昌伯の性欲の出口と彭湃たる生命力は情け容赦もなく断ち切られ、それで彼はひとりっきり孤独にこのホモフォビックな台湾社会で苦労して歩んできたのだった。ずっと彼はただ目を細めて人を見るだけだった。なぜならその視線で多くの欲望がばれるのを恐れてきたからだ。ただ暗いサウナで相互にヌキ合いする機会を借りて、お互いの疲れた魂をなんとか慰撫し、あるいは公衆トイレのすみに立ってうすら笑いして、だれかが暗黙の約束をしていたかのように反応してくれることを期待してきたのだ。
 阿昌伯はのちにこの都市を離れ、雲林の実家へ帰った。というのも彼は長年蓄えた貯金を銀行員のうまい話に乗せられて連動債ファンドを買って元本も失い、ひとりぼっちの彼はさらには今度の地球規模のリーマンショックにぶつかり、彼がずっとどう向き合ったらいいかわからなかった実家に帰るしかなくなったのだ。台北を離れるまえ、阿昌伯はホットラインの事務所に僕を訪ねてきておしゃべりした。彼の顔にはいつものあの目を細めた笑顔はなく、ほとんど心配と困りきった様子だった。僕は彼にひまなときまた台北に来て話しましょう、機会があったら会いましょう、と言った。
 事務所を去るまえ、僕はまた立ち上がって彼をドア口まで送ると、彼は振り向いて僕に言った。「これからは一人ぼっちだよ、友だちができるような場所もないよ」。僕は一瞬言葉が出なくなり、どう脳味噌を絞っても阿昌伯に希望を持たせられるような言葉を捻り出すことができないように思えた。
 「さようなら」。阿昌伯が最後の言葉を言うのを見ていると、まるで(ゲイだと気付いた)7歳ではやくも年寄りじみて孤独な僕がエレベーターに消えてゆくのを見ているようだった。

 ●インタビューを終えてーー遠方からの祝福
 2年前、阿昌伯が自分から私に2度、電話をしてきた。電話の向こうの彼はせっかちに、どう? 最近うまくいってる、と聞いてきた。ついでに私のパートナーは台湾に戻って仕事しているか気にかけてくれた。でも、私が彼にどうですかと聞くと、彼はずっと黙ってしまった。私も自分から彼に電話をかけていたが、彼はいつも出ないので、身体の具合が悪い彼がどうしているのだろうと、少し心配していた。雲林ではゲイフレンドリーな医療が受けられるのだろうか。あるいは若い人たちは彼のことをよく面倒みてくれているのだろうか。
 この原稿を出すまえに、もう一度、阿昌伯の携帯電話に、今度の「レインボー熟年バス」に参加するかどうか聞こうと電話をかけたら、思いがけず電話が通じた。喜んで、彼に本がまもなく出版されるから送りますと言った。
 「ダメだよ。うちの人が見ちゃうよ。そうだ。機会があるとき雲林に来て見せてくれたらいいよ」。阿昌伯はそう言った。私は、阿昌伯は実家に帰ったのだ、あの自分を失った家に帰ったのだ、ということを忘れていた。
 「阿昌伯、私は来週雲林へ講演に行くから、ついでにそっちへ行ってもいいですか」。私はそう言った。電話の向こうで阿昌伯が朗らかに笑う声が伝わってきた。

 (毎週土曜日更新)

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