第3話 ハッテン映画館のワン館長

原題「軽快に飛び舞う君子は80歳――紅楼の映画館長 王公公のゲイ生涯」

 ●作者紹介 兆慶
 1977年、台北生まれ。年をとったなと思うことのいいところは、プライドをもってすてきなナツメロを歌い、自分より年若の彼氏に聞かせ、彼に「あの年代」がどんなに美しく、いまの音楽がどんなにクソかをわからせ、年寄り風を吹かせる楽しみをたっぷり享受できることだ。なんにでも興味があるということは、結局なにに対しても興味がないということだ。語られたものはやはり、しかと心に刻んで忘れない感情であり、それゆえ王公公が「無理に求めないように」と言ったときは、心のなかでよくわかった。無理に求めるということが、どんなことなのか。


 2007年の夏、王公公(ワンコンコン。訳注:公公は老人への敬称。王おじいさん)ははじめて同志ホットラインのチャリティーイベントに参加した。舞台の上に進み、千人を上回るその場にいた男女のセクマイの人たちに対し公開の場でカミングアウトした。この時、彼はすでに81歳だった。
 フロアの拍手は雷の如し、セクマイたちが驚くこと限りなし。多くの人はほとんど想像もできなかった、「同性愛者」がどうしてこんなに年をとるのか、と。われわれはさらに想像もできなかった、ゲイがもしデビューして40年たてば、たちまちのうちに、どんなに人生の滋味あふれる長大な物語になるかということを。

 ●42歳 映画館が欲望の生涯を開いてくれた

 インタビューのとき、王公公はとても長い白色の眉毛を垂らし、背が高くて痩せぎすな体躯に、ゆったりした白色のシャツとグレーのスラックスを身につけ、いささか世俗を超越した風貌をしていた。手にはタバコをくゆらし、私、喀飛、そして智偉(訳注:いずれもメンバーの人名)と向き合い、ゆったりおちついて、しゃべったり笑ったりした。王公公は42歳のときゲイとしてデビューしたが、そのとき駅前補習街(訳注:台北駅付近の通り。予備校や塾が多い)は新南陽映画館がかまえる地であり、彼はいつも仕事が終わると映画館へ映画を見に行った。
 ある晩の最後の上映回で、彼はおなじく40歳ぐらいの中年男性と出会い、彼がそばに立って「あれ」を王さんの手の上に置いた。
 王公公は大袈裟に、ふざけたように言った。「私はそのときなにか熱いなと思ったよ。ちょいと見て、そして目を丸くして彼を見たら、彼はなにくわぬ顔だ。彼はとても慣れていて、私は逆におバカさんさ。胸の内で思ったよ、もう来るな、来たらあんたは俺に抜かせるんだろ! そして結果、彼は本当に私の手のなかに置き、私は彼にやってやったよ」
 この意外な映画館での「出会い」は、彼の欲望生活の扉を開いた。当時の事情通の人に言わせると、台北駅前はまことに花盛りだったそうだ。猥雑な都市の中心になればなるほど、そこは欲望のアイデンティティを開発してくれる集散地だった。南陽映画館、中華商場のトイレ、鉄路局レストランの倉庫、漢中街のホテル、みんな王さんにつぎつぎ目を開かせてくれた新天地だった。
 現在のスタンダードから言えば、42歳でデビュー*するのはかなり遅いといえるし、とくに老人は嫌われがちだ。しかし、当時の王公公は老いをものともせず、ハッテンするとき年齢のせいで拒絶されることを恐れなかった。インタビュー時、王公公は若い頃の写真を出してくれたーーなんと、目鼻立ちはくっきり、英気が満ち満ちていた。彼も得意げに、自分が40歳のときは30歳に見え、60歳のときは40歳のようだった、と言った。
 人の行き交いは露のように短い。王公公にはいつしか自分で決めた原則があった。「そっち方面(訳注:セックスのこと)では、私の経験はけっこう多いさ。君も自分で研究しなさい、できるかぎり相手を気持ちよくしてあげることだ。相手が気持ちよくなりさえすれば、われわれも気持ちいい。つまりだ、人はそんなに利己的で、自分がよくなることだけ顧みちゃいけない。君に技量がなければ、人は君を喜んではくれない。ここはとても重要だ、だれかとだれかがやって、おもしろくないからすぐやめるではダメだ。セックスとは一種の精神的な満足なんだよ」。もし、ゲイ界隈を渡り歩くとき便りにするものはなんですかと聞いたら、王公公は言うだろう。お互いに心を開き、自分と他人との境界をちょうどよいところに引くことだよ、と。
 のちに南陽映画館が閉まり、残念に思ったゲイたちは紅楼映画館*へ戦線を移した。王公公が薄笑いを浮かべて言うには、当時、ほかの町のゲイたちがわざわざ紅楼映画館へ来て、「映画館長」の王さんを探して、やりたがったという。そのとき私は驚いて、「ホントですか?」と叫んだ。王公公は私に言った、「もちろん本当さ。そうじゃなきゃ人はわざわざ紅楼へ王公公を探しに来て、なにしに来ているの? 映画館のなかで私は前列のほうの人が言うのを聞いたことがあるよ。「後ろのあのおじさんな、館長だぜ。すごいぜ」ってね」。

原注:
デビュー(原文:出道)
ゲイがコミュニティに足を踏み入れることを「デビュー」と呼んでいる。かつて、ゲイコミュニティは公園、映画館、バーをおもな交流圏とし、「デビュー」はほかのゲイと接触したり、友人となったり交流したり、セックスしたり、つきあったりすることを意味した。逆にいえば、まだ「デビュー」してないとは、ほかのゲイと知り合ってない、ゲイコミュニティのネットワークにつながったことがないことをあらわしている。1990年代中ごろにインターネットが登場し、コミュニティとつながったり人と付き合ったりすることは、もう公園、映画館、バーがメインではなくなり、ネットが多くの若いゲイたちがコミュニティに足を踏み入れる最初となった。「デビュー」という語も若い世代では、使われることは少ない。
紅楼映画館
1908年建築、もともとは日本占領時期の高級マーケットだった。1949年以後は上海からの商人が借り受け、京劇を上演する「滬園劇場」(訳注:滬とは上海のこと)に改装し、1956年には越劇の上演も加え、「紅楼劇場」と改名した。1963年台湾電影が創立、「紅楼戯院(映画館)」と改名。1970年代中期には、老朽化した設備は現代的な映画館に対しすっかり見劣りし、二番館となり、70年代後期にはポルノ映画館となって、ゲイたちが集まる場所となった。1997年に閉館、三級史跡に指定された。2000年、外壁が市場の大火で損傷し、台北市文化局の修復工事を経て、2002年には民間経営に委託された。あらためて「紅楼劇場」として使用開始した。
ただ改修後、商売はあまり振るわなかったが、2007年からゲイバーが大挙して(周辺の)南広場に進出すると、紅楼はふたたびゲイの集まる場所となった。

 ●21歳 60年思い続ける別れ

 しかし、どうして42歳ではじめてデビューを? ゲイはみんなもっと早くから「男好き」を始めているんじゃないですか? 王公公は逆に私に尋ねた。「飯を食うことさえ難しかった時期に、こっち方面のことなんか考えられるかい?」。
 1926年生まれの彼は、父母が亡くなったので、9歳で金持ちに買われて養子となり、廈門(アモイ)の鼓浪嶼(コロンス)に住んだ。鼓浪嶼はもともと西欧国家の租界だったが、太平洋戦争勃発により、1941年に日本が鼓浪嶼を占領した。15歳だった王少年は、中学も終えず中国へ逃避し、21歳でやっと廈門へ帰り、2年しないうちにまた国共内戦が勃発した。
 若い王さんは逃げ続け、親戚が国民党軍の連隊長をしていたため、金門に引越し、1949年の古寧頭戦役後、やっと台湾に戻ってきた。戦乱時代の亡命青年の「ゲイの欲望」を聞くのは少し申し訳ない気がするが、王公公はそれでも承知してくれた。
 十何歳のころには彼は自分が人とちょっと変わっていたとわかっていたという。中学のときある上級生のクラス長に王少年は引き付けられた。二人はほとんど話す機会はなかったが、王少年は彼と会うのが嬉しかった。クラス長の家では体を洗う場所は屋外で小屋掛けもなく、ちょうど王少年の教室の窓の向かいだった。
「彼は山のふもとに住んでいて、それでわれわれの学校は見下ろすにはちょうどよかった、彼の家が見えたんだ。それで毎日放課後になると彼がなにをしているかを見た。そりゃちょうどよかった、彼はまたあそこで体を洗ってる、って。いまでも覚えてるよ、あのとき一種の欲望が生じたんだろうね」。私は聞いた。「そのときどうやって自分が『そうだ』ってわかったんですか?」。王公公は笑いながら言った。「ああ、自然にわかったよ。じゃあ君はどうしてわかったのさ?」。
 21歳で廈門にいたとき、彼は同い年の男性に会った。当時、王さんは華僑銀行で守衛をしていて、入り口が面する通りの向かいはちょうど別の銀行の玄関だった。
「私はまだはっきりと覚えているよ。その男性は陳といって、だいたい私と年はかわらなかった。彼の人柄は孤独を好み人とあまり話をせず、朴訥で言葉少なだったが、われわれは通りをはさんで向きあい、そこで守衛をしているとお互い三時間あまり見合って、見れば見るほど興味がわいてきて、知り合いになったのさ」。
 二人の男性は年も近く、自然に友だちで遊び仲間になった。毎日仕事が終わると一緒に約束してコーヒールームへゆき、スターの歌を聞いた。二十歳を少し出たばかりの王さんと陳さんは、廈門で一年あまり「王昭君」(訳注:当時の流行曲)を聞いたのだ。これはべつのときだが、シニアゲイグループがインタビューをお願いしたことのあるおじさんが、いっしょに「月十二」バーへ行ってカラオケを歌い、王公公も、自分はもともと歌は歌わないんだが、ただこの一曲だけはメロディーを覚えていて歌えるといって、喜んで歌った。「王〜昭〜君〜、憂いにふけり鞍に乗り、陛下を思い、朝に晩に、晩に朝に、暗然として意気消沈」(歌詞)。これは王公公がその日、カラオケにいた三時間のあいだに唯一歌った曲だった。
 「しかし、私と陳さんとはなにもない、なにもなかったよ。毎晩いつも彼が誘いに来て喫茶店へゆき、そうでなければ私が誘った。あるときこっそり彼のあとをつけていったら、彼は壊れたお堂に住んでいた。そのお堂に、彼は小屋掛けをしているらしかった。約四、五坪の広さだったろう。こっそり見に行ってわかり、見たらいそいで走って帰ってきた。彼は私がつけていたとはわからなかっただろうね」
 そのころ戦乱のためさよならというのも間に合わずに別れ、もうまもなく60年になる。これは王公公が現在でもまだ思い出す人だ。相手は異性愛なのか同性愛なのか。当時はとくにこの問題を考えるのは難しかった。ただ王公公がよく知る「王昭君」のメロディーだけが、若かりし青春時のよき友への思い出へと繋がっている。
 「実際、かれとはただ友人になっただけで、それ以上はなかった。結局、相手にその気があれば動くこともできた。実際、彼とはなにもなかったから、懐かしいんだろうね。のちに民国75年(1986年)に廈門に行ったとき、いろいろうろうろしてみたけど、彼のことは探し当てられなかった。現在でもう50何年になるけど、私はまだ彼が恋しいよ。会えば彼だとわかると思うが、もう探し当てられないよ」

 ●30年 三つの関係が消えていった

 台湾へ亡命してきた王さんは、高雄の親戚とは折り合いが悪かったので、基隆へ行って肉体労働者となった。王公公は、自分は運がよくなく南北を流浪する日々だが、幸いなことにいつも身分の高い人と出会うんだ、と言った。当時、基隆の肉体労働者をやれば一日で6元になった。だが、友人が彼に高雄の写真館での仕事を紹介してくれて、写真技師になったことで彼も安定して生活できるようになった。同時に、彼は友人が促すまま、ある女性と知り合った。
 王さんの当時の心中で「道徳的に間違っている」の思いは明白だったが、やはり友人たちの気持ちにしたがって結婚した。その年、彼は32歳だった。42歳になると台北へ引っ越し、本当にデビューし、王公公はやっとゲイの恋愛生活を開始した。王公公が言うには、3回つきあったことがあるという。3回のつきあいはそれぞれ、9年、7年、7年続いた。最後のパートナー関係が終わったとき、彼はすでに70歳に近かった。
 長い関係には、多くの深く心に刻むことがあったろうが、王公公は多くは語らなかった。彼はただあっさりと言った。時間が長くなれば、人はみな愛情をいだくものだし、人として良心をなくしてはいけないよ。そうやって、あっというまに30年が過ぎた。
 時間が、荒々しい部分を流し去って、王公公の暖かくて実直な一面だけが残ったのかもしれない。
 「このgay界隈のみなさんには、私はあまりこだわりすぎないことをお勧めする。間違いなく彼はあんたを愛している、だが、彼が心変わりをしたら、あんたは見抜くだろう。無理にことをあらだてれば、地位も名誉も失う。傷つくというのはいい関係だったからだ、傷つかないことを望んじゃダメだ。自分に対してであれ、相手に対してであれ、全力を尽くし、よく考えてこそ値打ちがある。どんなことでも「牛は鼻を引け、尾を引くな」(訳注:諺。急所を押さえて解決する)だよ。……あるときだれかが私のことを情がなくて冷たい人と罵ったことがあるが、なにが情で、なにが冷たいんだろうね? 私が情無しなら、あんたはほんとに情があるのかい? そうとはかぎらないだろ?」
 王公公の恋愛に対する率直さは、私のような若輩が聞くには理解が難しい人生の知恵だ。彼はいう、以前の人はいまの人より誠実だった。保守的ではあったが、口先だけの甘言は少なかった。だが、時代は変わった。恋愛関係は始まるのも早けりゃ終わるのももっと簡単。現在は真に恋愛至上主義だ。ゲイは異性愛の男女と同様に、恋愛を追いかけ、互いに占有しあい、恋愛のなかで全身傷だらけになることにだんだん慣れてしまったんだよーーみんなわかってるだろうけど。

 ●50年 風雨の結婚、残してくれた言葉に感謝

 一度、私は王公公に「老いる」ことに対する受け止めを聞いてみた。王公公はなにか考える様子で、実際急に老いたなと感じたのはこの数年のことだね、と言った。何年かまえに、50年連れ添った奥さんが亡くなった。いつも彼はこの異性婚の関係については疎遠にしてきたと言っていた

が、不思議なことに、このときは王公公から奥さんが亡くなる前の様子を話し出し、感謝の思いが自然に沸き起こってきた。
「家では口喧嘩やときには手もあげたが、2年前、かみさんが死ぬ前に言ったよ。王さんや、あんたって人はいい人だよ、って。実際このひとことで十分だと思っているよ」
 多くのゲイは、異性との結婚に踏み入ることは自分に背くことであり、一人の女性の不幸をつくることだと信じている。だが、王公公が奥さんが残した言葉について語る表情は、達観したかのようで、この出会いと別れのなかにどれほど哀切な物語があるかはわからない。あるいは性欲生活を送った一代の「映画館長」について言えば、迫られて入った異性婚であれ、自分で選んだゲイ関係であれ、パートナーシップの意義とは、おたがい完全にピッタリするかどうかにあるのではなく、共同生活中でのちょっとしたことにあるのだーー「一定の時間をいっしょに過ごせば、だれだって愛情がわくものさ」。
 はじめて王公公を訪問したのは2006年の秋だった。2007年の夏、同志ホットラインのファンドレイジングイベントが終わったあと、王公公はそのときの写真を見ながら、自分はなんて痩せて、老いたことか、と率直に言った。
 彼に、いまゲイの友人と一緒に生活して、おたがいに面倒をみたりしたいと思いますか、と聞いてみた。彼は、思わんね、と答えた。なぜなら、ゲイはゴシップ好きで、話をでっちあげることがとても多いから、と。せいぜい毎日午後、漢士サウナに行って、タバコを吸い、お茶を飲み、ちょっと居眠りして、4時が来たら目が覚めて、ひと風呂浴びて、5時には家へ帰る、それで十分だ、と彼は思っている。のちに紅楼広場の小熊村(訳注:ゲイ経営のオープンカフェが多い一帯)でお茶を飲んだとき、私は勇気を出して、王公公は老いてから生活はどうですか、死ぬのを恐れたりするんですか、と聞いた。彼はタバコの煙を吐き出して、いま自分の生活は規則正しく、自分を好きになる人もいなければ、自分もかならずしも恋人がほしいわけでもない、とても気楽で愉快だよ、と言った。
 「もし一日そんなふうなら、私は思い出も多いから、それらを思い出すのも楽しいものだよ。そうだろ? 時が来れば時が責任をもつ、コメがないなら芋粥を炊けばいい(台湾語の俗語。案ずるより産むが易し)さ。君らそんなにたくさん思案してどうするんだい。コメがないなら芋粥でいい。あいかわらずおなじように生きていくのさ。だれだって心配事はある。楽観できるかどうかは自分次第だよ」
 2008年の秋、私たちは漢士アマから、王公公が不注意から転んでけがをして、調子が急に悪くなったと聞いた。娘さんは彼と一緒に住みたがらず、王公公は一人暮らしなのだ。幸いその何か月後かに王公公の息子の奥さんが彼を自分の家の隣に入れた。アマは、王公公はたまには漢士へ来てるけど、回数はものすごく減ったね、と言った。
 夜興業の映画館でのゲイの欲情、これは紅楼の老「館長」のもう一つの顔だ。紅楼ビジネス地区はすでに過去とは変わった。ただわれわれは、かつてそこに君子が求めても得られない崇高な人生があったことを記憶するのみである。

 ●インタビューを終えてーー老いへのイメージをひっくり返す
 王公公は私の「老ゲイ」に対するイメージをひっくり返した。若い時には、若い人が帯びざるをえない老いを恐れる眼差しで高齢者の生活を推測し、老いることは醜くなることであり、だれも求めてくれず、恋愛市場で売れ残り、性欲もなくなってしまうものだと思っていた。でも王公公の人柄や話は、一方ではそんなに悲観しなくてもいいんだと思わせてくれ(中高年でもセックスライフで活発な人は多い)、また一方ではなにかもっと重要で、生まれながらにして老成したような態度を見た気がした。一種の冷静さのなかの熱情、平然とした身の処し方だ。願わくば、両方のビンがまだらになり(あるいは頭がはげ上がり)したあとも、われわれも平然と生きてゆけることを。


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