第6話 用心棒稼業 許さんのセックス哲学


原題:恋する少年「おじさん」――花園で自在にチンポ触りする名人 許兄貴


●作者紹介 yoyo
大学時代にはまだ布団のなかでこっそりゲイラジオを聴き、唐山書店(訳注:著名な独立系書店。こちらも参照)で香港や大陸のゲイの本を買い、自分は孤立無援だと思っていたのに、結果、今は意外にもこの本に参加している。高校や大学の親友があとでおなじくゲイだということがわかり、いまは会社でもおたがいに知っているゲイの友人がいる。人生は本当にレディ・ガガのスタイル同様、予想がつかないものだ!

 はじめて許兄貴(原文:許大哥)という人を知ったのは、インタビュー記録の文字起こしと録音テープからで、彼はヤクザ映画のなかの人物のように、ストレートに人を不思議な気分にさせ、原稿に記録された対話には、いささかも遮ることなく十何回も「チンポ」が出てきて、インタビュー音声を聴きながら文字を打ち込んでいた女性をほんとに困らせたことだろう。
 許兄貴に実際に会ったのは、「月十二」(原注)というシニアのゲイバーだった。その日、シニアゲイ研究グループでは先輩たちを招いて一緒にカラオケ大会をやる日だった。
 許兄貴はガタイは少し太っているが、皮膚は黒ずんで、いまでも若い時は肉体労働に従事していたことがわかるし、足にはサンダルをつっかけただけで、ちょっと見たらふつうの農家のおじさんと異なるところがない。まるでまちですれ違ったり、あるいは列車の隣席にいる背景のような人物みたいで、まったくゲイバーに出入りするような人には見えない。

 原注 月十二
 台北市民生東路にあったゲイバー。カラオケや飲酒が中心の店。他のゲイバーとの最大の相違点は、営業時間が日中で、このような「日中娯楽」は完全に年齢が上のシニアゲイの生活時間に合わせたものだった。ホットライン協会のシニアゲイ研究グループではかつてこの店でシニアゲイの先輩たちとカラオケ大会を開催したことがある。客席には一人、シニアのタチ系のレズビアンも参加した。

 ●さぐりあてたゲイの道

 許兄貴は小学校を卒えると、他人の家で住み込み労働者になった。当時やっと14歳だった彼は、まだ十分発育しておらず、毛さえ生えそろわず、主人の子どもたちと一緒に寝床に寝ると、夜中に暗闇にまぎれて、わけもわからず好奇心にかられてみんなでさすりあいをし、それでこうして自分の後日のゲイの欲情に目覚めてしまった……。
 「さすったら、ますます触りたくなって……そのときの感じはとてもきもちいい。最初にどの年代のやつとやったかで、そのタイプが好きになるんじゃないかな。もし最初に年上のとやったら、あとはいつも年上が好きになるかもな。俺は若くて痩せてるのが好きで、イケメンでなくてもいいが、もちろんきれいなやつがいちばんいいけど、おねえじゃなきゃいいんだ。いちばん嫌なのは女の子みたいなやつで、どんなにイケメンであってもおれは好きじゃないな」
 「月十二」で、私はちょうど許兄貴のそばに座ると、彼は聞いてきた。「君たちはみんな『同僚』なの?」。私は心の中で思った。どうしてこんなにたくさんの同僚が同時にホットラインに就職できるもんですか。あとでやっと許兄貴が台湾華語で聞いたのは、「ゲイ(同志)」のことだとわかった。(訳注:同僚(同事トンシィ)とゲイ(同志トンチィ)の北京語の発音が悪くて聞き間違えた。)
 許兄貴はたぶん私たちは学術研究団体で、なかにはノンケの人も混じっているだろうと思っていたようで、それでまずわれわれの身分をちょっと確認したのだった。すでに60何歳の許兄貴が使う言葉はとても若々しくて、終始、台湾華語で「同志」の二字を使い、たまにおじさんの声で「LOVER」とか「快感(きもちいー)」「超帥(カッケー)」などの言葉を言われると、彼はずっと若い人を探すのが好きなので若い人の言葉をよく知る機会があるのかもしれない。
 漢士サウナの阿嬤(第1話参照)は、彼をからかって言った。「あんたは兵役前の男の子がすきなのよね」。許兄貴は少しも恥ずかしがることなく、すぐに返した。「兵役前の子は、触ってやるとクチュクチュ音がして、しごいてやるとすごく飛ぶんだぜ」。
 だいたい民国50年(1966年)に、許兄貴は台北へ来て、ずっと工場労働者をしていて、工場にいたその年代にはあいかわらず若い子とすっぽんぽんでいっしょにシャワーをあびたり、おたがい背中の流し合いができる機会があると、まわりの水しぶきや石鹸の泡のなかで、おたがいの疲れた肉体を慰めあった。許兄貴は若い子と一緒にいれば、たがいにしごき合い。これがかれがずっとやってきたことのようだ。
 「俺はいままでケツはやったことがない、しごきあいだ。コンドーム? 何の役に立つんだ。ゴムはいらない。この病気(エイズ)になったら面目ないから。俺は何年ホモやってきた? 50年になるな。それでどんな病気になった? なんにもさ! 人が俺にキスをせがんでも、俺はやらん!」
 はじめからそんな方法で快感を得てきたり、あるいは後年、エイズ(原注)が周囲の人に打撃を与えていく厳しさを見たり経験したりしたためなのか、そんなことがみんな彼の性愛スタイルに影響した。許兄貴のこういう選択は、結局、自発的なものなのか恐怖によるものなのか? 彼の心のうちでは、どんな背景や物語があるのだろうか。

 原注:エイズ
 1985年、台湾ではじめてのHIV感染者が報告され、メディアで大々的に報道され、当時、治療法がないとみなされたこの病気は同性愛の「天罰」と言われた。その後の25年、台湾ゲイ男性のコミュニティは、未曾有のエイズの暴風に向き合ってきた。この時期は、許兄貴の35歳から60歳の時期に重なる。

 彼は心のうちのことをは語らないという寡黙であり、また多弁でもない。しかし、こういう選択をしてきたからなのか、彼は一種の心のバランスと安心を得ており、すべて自分で責任を負える範囲での快楽を前提としている。
 インタビューを始めたばかりのころ、なぜ彼はこんなに軽やかでいられるのか、話のなかで「情欲」のことばかり語ったが、同性愛であることへの葛藤や内心の曲折は聞かないのだろうか、と不思議に思った。しかし、自分を彼の年代に置き換え、それから彼はすでに結婚し、子どももいるという社会関係であることを思うと、そこで私ははたと気がついたのだ。彼は今の時代のわれわれ、3万人が街頭パレードで「私は同志(LGBT)だ」と声をあげるような社会にいるのではない。彼は、わずかに個人の力があるだけの、社会に対抗するには足りない存在であり、彼のゲイライフはただ「モノを握る」ことで情欲を実践することのみであり、それが彼が唯一自分になれる場面なのだ。

 ●月収十万元の「斉家」の道 (訳注:斉家は家庭を安定的に営むこと)

 許兄貴はさまざまな仕事をした。営業、配達、タクシー、石炭掘りなどなんでもやったが、実際彼に比較的多くの収入をもたらしたのは、ギャンブル場の用心棒であり(訳注:非合法の賭博場が多数あり、トランプや麻雀などさまざまな賭け事が行われている)、そのころは一晩手伝えば2万元の収入があり、ときには老板(ラオパン。店長)に客がいなければ友達に頼んで賭けにきてもらい、まるで共同経営者のようで、晩から朝まで一夜で20何万元稼ぐことができた。当時、毎月数十万元稼いでいたが、かならず10万元は実家へ送っていた。許兄貴が言うには、自分が住んでいる村はとても貧しくて、若ければ社会へ出て金を稼いで帰って、村人に軽蔑されないようにしようと決意するのだという。
 「俺たち若いものは長上に対してかならず敬意を払い、孝行を尽くさないといけない。下の世代の人間は礼儀正しくものごとをわきまえる、これは人の原則だ。おふくろが亡くなったとき、俺はちょうど金があり、うちの葬式のあれこれはみな俺が主となってやった。(葬式の様子は)議員が死んだときだって、うちのおふくろが死んだときの賑やかさほどじゃなかったろうよ」
 あるいはおなじような原理で、男系子孫を残すというのも後続世代の責任であり、許兄貴も30何歳のときに結婚した。彼が言うには、自分が若いときはまあイケメンのほうで、女性も追っかけてきたという。でも、彼が言うには、自分が奥さんとセックスするときはやはり男の子とやっているところを思い浮かべたという。結婚後、つぎつぎと三人の子どもが生まれ、いまもずっと結婚を維持している。
 「以前子どもが小学校のとき、女房がこのことを知ったんだ……。俺がある友だちのところで、一人の学生と冬にふとんをかぶって、二人とも真っ裸で一緒に抱き合っていたら、彼女に見つかったんだ。彼女の顔中の色が変わったが、そのあとそれを持ち出すことはなかった……。彼女が見たとき内心とても怒ったと思うが、俺が帰ったとき、彼女がこのことを言わなかったのは、彼女は理性的な女性で、どんなことでもみんな我慢して飲み込んだんだ。
 彼女は俺を愛したし、俺が彼女を愛するよりもずっとな。俺たちがセックスするとき、100回のうち99回は彼女がリードした。俺のような肉体労働する人間は、性機能はわりと強い。逆に彼女はまず俺のズボンを脱がせれば、俺はどうするべきかわかってる。だから夫婦ふたりこんなふうにセックスの相性がとてもよければ、彼女は君とだってやれるよ。さっき言ったように、ほかのことは重要じゃない、セックスがいちばん重要なんだ。一晩で二、三度やったときもあるよ」
 許兄貴の奥さんは、のちになってもこれらのことを問うことはなかった。漢士サウナのアマによると、許兄貴の子どもが彼のことをへんだと訝しく思ったとき、彼の奥さんはさえぎって、子どもに言ったものだ。「お父さんのことは、あなたがまだ口を挟むことじゃないわよ」。彼は自他ともに家庭をとても大事にしていたし、他の人に彼の(男とベッドインするという)「趣味」を問わせたことはない、許兄貴のすべては、聞けばまことに理の当然だった。
 現在、三人の子どもはみな大学を卒業して社会に出た。彼は自分と奥さんとは、子どもが社会に出たら外で放浪する、と約束しているという。彼がいう放浪は、本当に家に帰らないのではなく、おそらく誰はばかることなく公園やサウナに出没するということだろう。
 「君はかっこいいな。ガールフレンドはいないの?」。バー「月十二」での歌声のなかで、許兄貴は私にそう聞いた。私はいませんよと答えた。許兄貴は私に結婚するべきだと説教した。彼は結婚は人生でかならずするべき「義務」と思っていた。
 年上から結婚を勧められることは、私にとってはじめてではなかった。年上からかっこいいと言われることも、初めてではなかったが、多くはお世辞だ。でも、彼が私のことをかっこいいと言ったときは、かえって少し困惑を覚えてしまった。はじめて自分が、一人のおじさんの目のなかで(性的)吸引力をもった子になったことを感じたのだ。
 バー「月十二」の店のなかでは、たくさんのシニアたちがつぎつぎとステージにあがり歌った。許兄貴は一本また一本とタバコを吸いつづけ、水のように酒を呑んでいた。私はグラスを挙げ、彼に敬意を表した。彼はグラスを一気に飲み、酒量は驚嘆するほどであることが見てとれた。許兄貴はその後の仕事はだいたいギャンブル場が主で、聞けばいまもたまに手伝っているということだった。
 許兄貴によれば、自分がギャンブル場にいたその何年かは、いつも地下の酒場で暇つぶししていたという。彼が言うには、そこに若いイケメンのボーイがいれば決まってヤッたという。気に入ったボーイと会えば、さっそく五百元、千元といったチップをやって、そしてポケベルの番号を聞いた。さしで会う約束ができると(訳注:売春の約束が調ったわけである)、彼らになんで体を売る気になったんだ、なにに困っているんだ、と聞いた。
 「オートバイがないというなら買ってやる。おまえはかっこいい、気に入った。俺はゲイだ、さわりあってオナニーをしてくれたらそれでいい。OKなら、おまえが困っていることを俺が助けてやろうじゃないか」
 あとになって一群のボーイのあいだで噂になった。「もしカネがないなら、許さんとこ行って一発やってくれば、千元くれるぜ」。ちょっと想像しがたいが、そのころの年代は、ゲイであることがどうやって闇社会やギャンブル場と共存していたんだろう。
 許兄貴は他人の目などおかまいなしで、毎度(ホットライン協会の)集会に来てもほかのシニアたちと話すことは少なく、まわりには連れてきた若い子か、そうでなければ彼が「いい」と思ったボランティアと話すだけで、それ以外の時間はずっと一人で黙っていた。
 漢士サウナの阿嬤は冗談で彼を「ゲイ博士」と呼んでいた。何十年ともなると、その経歴の多さは人を驚かすもので、彼が思い出すのは、初めてタイへ行ったときだ。逗留すること一か月。そのころ600元が1千バーツだった。彼は一気に十何万元も持ってゆき、一晩でバーのボーイ全部を触りまくって、一回触るごとに百バーツやったので、百人以上のボーイが並んで待っていた。
 タイの村でも、村民が自分の息子を連れてきて、息子に一緒に寝るように言った。ある父親などは恨みがましく、「うちの息子はブサイクで、あなたはいらないでしょうな!」と言った。
 インタビュー後、長いあいだ、私は、なぜいまのゲイの中心的な存在でもない、年かさの先輩が、こんなに受けがいいのだろうかと考えていた。これは絶対、金があることだけで説明できることではないし、あるいは許兄貴は全然ゲイっぽくない風貌だからかもしれない。これらの子たちについていえば、心の堤防がなくなるのだ。かんたんに褒めてもらえ、財力でも助けられ、やりとりのなかで気にはかけあうが、双方の関係は、あるいはもともと長続きするものとは思われず、それほど負担も道徳的な縛りもなかった。ちょうど兵隊に行ったとき、ノリにまかせて同衾したものと相互オナニーするようなものだ。なぜなら、許兄貴は言わなかったか、ちょっと遊んで、抜き合いすりゃいいんだ、って。
 インタビューの内容や、何度かのやりとりから、私が見てとったのは、許兄貴について言えば、「同性愛」はなにかそこまで重要ではないようで、彼がもっとも必要とし、またもっとも気にかけたのは、欲望の実践だった。好きな男に相思相愛でベッドインさせるということは、彼がもっとも「得意」とすることだと言える。「行ったり来たりする男の子と彼がパートナー関係にあるかどうか」とか、「社会が彼をどう見るか」などに関しては、彼がすらすら応答するなかでついぞ聞くことはなかった。彼が言わない、思わないこと、つまりは「気にかけない」あるいは「気にかけようもない」ことは、みな重要ではないようだ。

 ●8年の関係 「おまえなしではいられない」

 だれかがゲイアイデンティティについて問うたびに、許兄貴がきまってみずから持ち出したのは、40何歳のころ発生し、8年にわたった関係だ。これはたぶん彼の数多い豊富な情欲史のなかで唯一、「関係」と称しうる話だ。相手は17歳でエロ理髪店(訳注:理髪店やエステサロンが性風俗店をかねていることがある)の客引きで、はじめ彼のところに客引きに来たら、思いもかけず許兄貴から直接こう言われたのだ。「俺は女は好きじゃない、お前がいい」。
 許兄貴は細かくはそのあとどうやって彼の心の堤防を降ろさせたのか説明してくれなかったが、ただ、彼がとてもかっこよくて品があったと強調した。彼にはガールフレンドがいたが、許兄貴のことを「おやじ」と慕い、一緒にシャワーを浴び、背中を流し、夜を過ごした。
 「彼の兄がいつも彼のところに来てたから、あんたともヤリたいって言ってやったんだ。(でも)彼は、自分は女が好きだと言う。俺は言った、あんたの好きにしろ、あんたが女が好きで、(でも)俺にやらせてくれるならあんたに五千元やる、やらせてくれないならカネはなしだ。自分の好きにするもしないも、無理強いはしない(訳注:それで兄のほうとも触り合いをするようになった)。あとで彼の兄貴が意外にも嫉妬して言ったよ。俺はブサイクで、弟はイケメンだ。いつもあいつは先にあなたとヤルんですね、と」
 一度、許兄貴が重病になり点滴をしたら、この息子みたいな恋人がわざわざ見舞いにきた、そこへ彼のガールフレンドが押しかけてきて、一言言った。「あなたはこのおやじさんが大事なの、私が大事なの?」。息子の返事がさらに奮っていた。「おいよく聞けよ、俺はお前がいなくてもやれるけど、おやじがいないとダメなんだ、だからもう別れてくれていいんだぞ!」。少年客引きがそのとき言ったことは、今もずっと彼の心に刻まれている。私たちがはじめて会ってまだまもないころ、彼はそのことを話してくれたのだ。許兄貴は続けて言った。「女が去るとき、あいつは彼女を一眼見ることさえしなかったよ……」。
 その息子が兵役に行ったときもメンドウで、しばしば兵舎を抜け出した。家族はみんな知っているから許兄貴のところへ探しにきた。いつも会うたびに許兄貴は彼に1万元を握らせた。あとで部隊長さえも家に探しに来たので、彼は部隊長の好みにあわせて、彼にバーやエステサロンから二人ホステスを呼んでもてなし、それ以来イザコザもなく、ただ彼を部隊に帰らせさえすればそれで済んだ。
 では、その後なぜ別れたのか?
 彼は兵役が終わったあと、薬物に染まったのだ。許兄貴は「おまえ、ヤクやってるのか?」と聞いた。彼は「おやじ! 俺はあんたを騙すことはできない。やってる」と答えた。許兄貴は言った、「やってるなら、じゃ俺たちは切れよう。以後出会っておまえが俺を見て、挨拶するもよし、知らないふりをするもよしだ」。
許兄貴はその後、人と長い関係を維持したことはない。
 あるとき、若い人とMDMAドラッグのホームパーティを開いたが、大騒ぎになって警察に通報され、一同みんな警察へ引っ張っていかれたことがあり、彼はそのなかでもっとも年上だった。警察は写真を撮ろうとしたので、彼は言った、「台湾にはもう戒厳令はない、移動も自由だし、俺は薬にも中毒してない、法も犯してない。どうしてダメなんだ。俺は尿検査にも協力するぞ」。
 「ヤクは、以前はやっていた。アンフェタミンを試したことがあるが、中毒にはなりたくなかった。男だって、入れ上げることはしたくない。すごくかっこいいやつは、俺もいいなと思うが、夢中にはなりたくない、こんなふうに過ごすぐらいがちょうどいい。夢中になりゃ苦しい、俺はぶさいくなのを探してるのがいいのさ。君に夢中になるのは、まあ正気だとは思うが」
 許兄貴があっさり話す言葉に、彼の恋愛観と人生哲学は言い尽くされており、じつに彼が話すことの多くが私たちの目を見はらせ舌を巻かせる愛欲ストーリーだった。
 あるいはこういうロジックなのかもしれない。許兄貴が過去のいろいろを語ると、多くは自信ある口ぶりで、私たちが想像するあの(戒厳令)時代の抑圧といったものはまったくないし、多くの思い出や捨てがたいものはなく、あるものはただ出来事と人物、そして一回また一回と起こる性の実践の快感だけだ。
 彼はほとんど自分の心境や気持ちを表さないのは、まさに伝統的台湾社会の男のようだ。違うのは、ただ彼が興味を感じる男の子に向き合うときだけいきいきとし、おしゃべりに変わることだ。
 われわれがはじめてインタビューに行ったとき、彼はたびたび一行のなかの一人のボランティアがすごくかっこいいと称賛し、冗談で彼とトイレに行って、モノの大小を比べようやと誘った。話がオナニーのことに及べば、半分冗談で彼を誘うようなことをいった。「おまえがやりたいなら、そんな無駄に自分でやらなくていいんだぞ。……もし恥ずかしいと思うなら、寝ていりゃいい。でなけりゃ、顔はタオルで覆ってやる、どんなふうにやりたい、そのとおりやってやるよ。でも終わったら、四川料理か海鮮料理に連れて行ってやる。おごってやる。そうでなきゃ惜しいよ、人にやらせないで自分でやるなんて、もったいないじゃないか……」
 「月十二」バーの地下室から出るときは、まだ太陽が輝く午後で、ふつうのゲイバーのように店から出てくると急に賑わいのなかから漆黒の静けさに入る感じではなかった。このとき、私の頭のなかには突然ひとつの画面が現れた----海の波が巻き起こり、岩を打ち砕いて打ちつける前の時代の人びとのあとに、波の泡がうかびあがり、また新時代の少年が成長し、身を伸ばしてこの好奇心にあふれる世界に飛び込もうとしている。しかし許兄貴はやはり50年前のあの夜の刺激的で、ういういしい恋の模索の滋味(訳注:小学校卒業後の14歳時に、最初の住み込み先で目覚めた相互オナニーのこと)につながっていて、あいかわらず彼の「恋する少年」のゲイの道を歩みつづけている。

 ●インタビューを終えて 衝撃のある交流
 許兄貴のストーリーを書くことは、私にとって小さくない衝撃だった。衝撃の一つ目。自分と許兄貴とがちょっと似ている点は、私はいつも自分より年下の人が好きなこと。第二の衝撃は、情欲ということがこんなに自由に、自分でも年長者と呼ぶべき人の身の上に展開していることはほとんどなかったこと。第三の衝撃は、許兄貴の生育歴と価値観は、私ととても異なっていること。しかし、何度か許兄貴と交流してくると、許兄貴はなんだか少し変化してきたようだ。心境と個性の変化なのかはわからないが、やはり過去にははっきりと許兄貴という人を理解できていなかったからだろう。あるいはこんなにも独特なライフストーリーをもってきた許兄貴は、もともと容易に理解なんかできないのかもしれない。

  (翻訳協力:パブロ)

 

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