第7話 サウナと純愛とHIV

原題「振り向けばでこぼこ道、涙そうそう----黒美人の曲折人生」


 ●作者紹介 小杜
 まもなく30歳、而立の年になろうとするのに、あいかわらずあるときは積極的に、あるときはサボり気味に、人生の方向を探し求めたり、決まりきった日々とハッピーライフのなかで揺れ動いたり、現実と理想のなかで思索や懊悩を重ねている。老いることや死に対する強烈な感覚は、ここ数年のあいだの二つの老年女性(祖母とすでに世を去った愛犬)にまつわる体験から来ており、歳月のなかで人が実際に老いて行く姿、そして(老いるなかでの)老人や老犬の可愛さや悩ましさを感じてきた。高齢セクマイ研究班に参加したことで、あまり老いや喪失を恐れることはなくなったとはいわないが、いまあるものを大切にできるようになったし、年令にしたがって変化する人生をみずから体験しようという力が増してきた。


 かつて何人かの先輩がたのインタビューに参加したが、黒美人(人名。ヘイメイレン)さんをインタビューした経験はかならずや人に深い印象を残すだろう。外観から見るに、黒美人は一般の50何歳の中年男性ととくに異なるところはない。「黒美人」は以前、ゲイサウナで働いていたときについたあだ名で、彼の女装姿もとても有名だったそうだ。
 インタビューがなぜ印象深かったかというと、話のプロセスがまるでサウナに入っているようだからだ。黒美人は自分が小さかったときの物語を始めるや、興奮して涙を流し、途中、ピンチになったときの話をすれば何度か嗚咽やすすり泣きをし、かならず薬師仏経の経本を取り出して自分の心を落ち着かせ、でもだれかがゲイのジョークを言えば、彼のうちなるがむしゃらであまたの魅力にあふれた「黒美人」がまたもや現れ、もともとあまり滑らかではない国語(北京語)も立板に水、傍の人とピーチクパーチク「くち合戦」や、サウナで会得した「男あしらい」の技量が現れるのだった。
 わずか3時間のうちに、黒美人は私たちと彼の人生中の悲喜こもごもを共有したが、ストーリーはとても豊富で、ほとんどどの事件もみんな映画になりそうだった。

 ●家庭はまずしく、肉体労働で生活をする

 黒美人は1951年(民国40年)に中南部の田舎に生まれたが、家庭は農家だった。田舎の生活は苦しかったので、黒美人が小学校を終えたところで、一家をあげてその時期に台北へ引っ越し、二重埔(現 新北市三重区の地名)で小作人になった。台北へ来たばかりのときは、黒美人の一家は田んぼのなかの田寮(父親がかやを使って作った小屋)に住むのがやっとで、外で雨が降るたび、小屋のなかでも雨が降り、父親と母親は幼児を中にはさんで、蓑(みの)で一家の人を覆い、雨が小さな子どもにかからないようにした。小さなときの苦労の日々を思い出すと、黒美人は思わず啜り泣き始めるのだった。
 一家が物資にもことかく状況で、黒美人は小学校を出て「翻沙」(台湾語。鋳物屋)の見習いになったが、うまくできないと親方に血の出るまで殴られた。そのあと中興紡織(訳注:1949年創設の繊維企業)で倉庫の荷運びをやったが、みな肉体労働で、黒美人の腰と背中は過度の労働のために、いまでも後遺症があるという。「荷運びで、もう腰をすっかり痛めたし、骨棘(こつきょく)はあるは、背骨はすっかり歪むは、いまでもときどき寝てると足がつるけど、これもみなそんなことしてたせいだよ」

 ●工場でレイプされ、他の人の好意を避けてしまう

 黒美人は小さいころから肉体労働に従事してきたが、彼のはじめての同性との性体験も工場のなかで起こった。ただ、このときの経験はゲイ小説のようなエロい筋立てではなく、反対に彼にぬぐいきれないレイプされるというトラウマをもたらした。その直前、彼は同性間での性欲については一切知らず、「男の人を見ると、やっぱりその人のちんちんを見るって、私はできなかったな。私らどうしてできるの……、あの時代はとても厳しかったんだよ」。1960年代末(民国50年代末)は、男女が手を握ることさえ村人から後ろ指さされるのに、まして男と男においてをや。黒美人はずっとそんなことは思ったこともなかった。
 紡織会社の倉庫で布を運ぶのにはものすごい力を必要とする。海外から来た布はものすごく重く、それで労働者たちは昼飯を食べると急いで場所取りをして昼寝をした。十何歳の黒美人もおなじくだ。ある日の昼、黒美人はすっかり眠っていた、「雷に打たれても、海へ落とされてもわからないぐらい眠っていたよ」。一人の30何歳の工員が黒美人のズボンを脱がせ、「そして直接私に入れてきたんだ……でもあれはセックスじゃない、押し込んだ、つまり入れたんだよ」黒美人はにわかに痛みで目覚めたが、「まるで家を建てるときの鉄筋が私に突きささってきたみたいだった。……とても痛くて、まるで包丁で割かれるみたいだった」。
 そのとき黒美人の後ろはすっかり血だらけになったが、相手は手で彼の口を塞ぎ、泣き声を上げさせなかった。その後、その工員は何事も知らん顔をし、(ときには)また黒美人を誘って、昼になぜ昼寝しないんだと聞いたが、そのときの経験におびえて、昼になってももう二度と寝ようとせず、「紡織を学びたい」という理由で主任に紡織部へ異動させてくれと頼みこんだ。
 このことを黒美人はだれにも言いはしなかったし、家族にも、(こんな)馬鹿にされたようなことは言えなかった。「あのころはとても保守的、ものすごく保守的、こんなぶざまで面目ないことは、そのころはぐっと声を飲み込んで我慢したよ」。黒美人がこの昔話をするときは恨みに満ちて、「あのころは、ほんとに……いまの自分からしたら情けない。彼のことがなければ、私は子どももできたし、正常に生活できた(訳注:ゲイにならなかった)。そうじゃなきゃ、こんなゲイの生活をしていて、見かけはかっこいいし、服もきれいだけど、実際のなかは見れたもんじゃないよ」。
 そのころ阿霞、阿秋、慧娟という三人の女性が黒美人を好きになり、彼を愛するためにおたがい喧嘩するほどだったが、レイプされた黒美人にすれば、心のトラウマのせいで彼女たちには申し訳ないし、女性と性的関係になろうとも思わなかった。
 のちに黒美人が兵役にゆき、新竹の埔頂で新兵訓練を受けたとき、またもや彼に好意を示す上官と出会った。この指導官(訳注:原語は輔導長。軍隊内でカウンセリングなど心理面のサポートを担当)はもうすぐ40歳になる山東人で、既婚で子どもがいた。彼はいつも黒美人が可愛くてハンサムで、男らしいとほめそやした。訓練や隊内活動(訳注:スポーツや演芸会など部隊総出の活動。みんなが出払っている)のときはわざわざ黒美人を寝室で待たせておいた。あるとき指導官はひそかに黒美人を寝室へ連れてゆき「お前はハンサムだよ、どこ大学卒業だ? それとも高卒かい?」と黒美人をほめそやし、彼は、おまえは気品があるとか、眉目秀麗とかなんとか言って、手でずっと彼の顔を撫でつづけて、さらに彼に「だれだってお前をみれば、やりたいと思うさ」とつぶやいた。
 しかし、黒美人からしてみれば、上官の好意は彼に以前の工場の工員からレイプされた経験を思い出させるばかりで、さらに固まってしまった。黒美人はやむをえず自分は癲癇の発作があると偽装して、階段から気絶して倒れ、隣の兵士が寝られないほど夜通し泣き叫んでみたり、夢遊病者のマネをして布団をかかえて寝室の外の池へ飛び込んでみたり、ほかにも警備総部にいる親戚に手伝ってもらったりして、入隊3か月で癲癇を理由にして除隊になった。
 いまから見れば、黒美人は若いころすでに彼に好意を示す同性と出会っており、多くのゲイからしてみれば、このことはゲイの目覚めの契機になるといえるかもしれないが、黒美人にとっては、このむりやりすぎた経験は逆に、性欲にまだ目覚めていない(同性に対してであれ異性に対してであれ)若い人にとって、いちじるしく(気持ちを)挫いたりおそれさせ、彼が自己の欲望を探求する可能性を押しつぶした。(その後)30何歳になろうとするとき彼を大切にしてくれる人と出会って、やっと黒美人はトラウマから抜け出ることができたのだった。

 ●たった一人の生涯の「夫」

 軍隊を除隊になってから、黒美人は台北へ戻り、ペンキ職人の見習いになり、のちにはペンキ屋の親方になった。この仕事に入ってまもなく20年になる。彼は台北の公館(地名)のペンキ屋で見習いをしていたとき、親方からも好意を示された。黒美人はここまで言うと、自分でも合点がいかないといった顔で、「私はどこへ行ってもだれか私のことを好きになるらしい、ほんとおかしいよ」。でも、彼はだれをも受け入れはしなかった。黒美人はそのとき自分が同性が好きだとはまったく思わなかった。女性に興味はあったけれど、なにかしようとはせず、「ま、心にトラウマがあって、そのあと、そう、なんか気が咎める感じ」。それでペンキ職人としてのキャリアが重なるにつれ、仕事も生活もだんだん安定してきたが、気持ちはあいかわらずずっとからっぽのままだった。
 黒美人が30何歳のとき(彼はさまざまなことに対して正確な時期がはっきりしない)、彼の母親がしばしば病気をしたので、彼はお寺へペンキ塗りの仕事で行ったとき、ついでに千手観音菩薩に母親の身体健康を祈り、毎週土曜には仕事のあと残って寺のお勤めに参加した。そしてこのお勤めをしているとき、かれは同様にお寺に来てお経をあげていた阿賢(あけん、アーシエン)と知り合ったのだ。
 阿賢は年は彼より12歳若く、そのころは華南銀行で支配人付きをしていた。私たちは黒美人に、どうして阿賢さんと知り合いたいと思ったんですかと聞いた。彼は、阿賢が彼に与える感覚は「とても実直で、いまの自分の周囲のあんな腹黒くって、ゼニを騙し取ったり、みだらなことをするやつとは違ってたの。彼はそんなことしない、ほんとしない人。それで私は彼に本当に気持ちが動いたんだよ」と言った。阿賢は黒美人にとてもやさしくて、性急に性的関係をもとうと迫ることもなく、君子の態度で黒美人とつきあい、なにごとも焦らなかった。それで、もとは過去の同性レイプのトラウマをひきずる黒美人も彼との交際を願ったのだった。
 二人は交際するや、それは十数年に及んだが、この交際は、我々がふつう長いパートナーシップとしてイメージするものとは異なっていた。黒美人は、ふたりはいつも会うわけじゃなかったと言った。阿賢は家族と同居していたため、ふたりは同居はしなかった。もし黒美人が阿賢の家に遊びに行っても、夜は黒美人が(彼の)部屋に寝かせてもらい阿賢はリビングで寝る。家族はふたりを一緒に信心する兄弟弟子だと思っていたのだ。
 ふたりの親密な時間はゲイサウナに行ってやっとできた。通常いつも阿賢が電話して約束をした。黒美人がはじめて行ったサウナは、阿賢が彼を連れていった西門町のロイヤル(皇宮)サウナだった。のちに二人がよく行ったのもロイヤルで、このときの恋愛のなかで、黒美人の人生はサウナにむすびつくこととなった。
 私は彼らの関係を聞いたとき、実際、こうした有るような無いようなパートナー関係はいささか理解しがたかった。でも、1980年代(民国70年代)の台湾社会にさかのぼって理解しなければならない。当時ゲイはあいかわらず社会のタブーであり、家族と同居するふたりについて言えば、家のなかは外のパブリック空間とおなじく同性間での恋愛感情が発生することは許されず、そのため外からはそれとわからないゲイサウナがふたりが唯一欲望と同性間の恋愛感情を開放できる場所だった。あるいはまさにこうした相手をしっかり縛り付けない関係だからこそ、おたがいが社会では「一般人」(異性愛者)の生活空間で過ごすことができ、そのうえでふたりがともに性格が素直なまじめな人だったので、ふたりの関係は十数年も持続することができたのだろう。
 黒美人と阿賢の関係はドラマティクに1990年代初め(民国80年代初め)に終了した。阿賢が銀行の仕事が忙し過ぎ、急性肝炎で亡くなったのだ。阿賢は入院したとき、直接、黒美人になにか言うということはなかったが、阿賢の父親が阿賢が眠っているときに言うのを聞いたのだった。「黒美人はなんで会いに来てくれないんだ。黒美人に電話して会いに来てほしいよ」と。黒美人はただ友人という立場でまもなく彼を見送るしかなかった。阿賢が世を去ったあと、黒美人も「ともに念仏した兄弟弟子」という立場で葬式に出席したが、周りの人は知らなかったが、彼が流したものは未亡人の涙だったのだ。

 ●サウナへご出勤

 阿賢の死去は、黒美人の人生に重大な変化を生み出した。そのころ黒美人はだいたい40歳を出たところだった。もとは実直で、新公園(訳注:ハッテン場として名高い)さえ行かなかった黒美人だが、しっかり遊ぼうと決心した。「そのころ思ったのよ、阿賢が死んでから、はじめて人にレイプされたときのことや、いろんなことがそれからみんな……そう、頭がわかってきたのよ。なんでもOK、もってこい、って。……それでね、いい歳して頭が硬くなったら遊べる時間は何年もない、以前の夫も死んだしねえ」。態度を変えた黒美人はいつもサウナに行って遊び始め、のちにずっとロイヤルと漢士(訳注:ともにサウナの名前。漢士は1話参照)に行って働いた。黒美人のあだ名は、ロイヤルでつけられたもので、皮膚の色が黒いことに起因する。
 黒美人についていえば、漢士にいた6、7年は、彼のゲイライフでもっとも幸せな時期だった。彼とマスターの余夫人(みんなはこっそり阿嬤=おっかさんと呼んでいる)は親友でありよき姉妹であり、黒美人は阿嬤のことを「お義母さん」と呼び、ほかの従業員はそのころ従業員のなかでは年かさ(40何歳)だった黒美人を「お義姉さん」と呼んだ。まるで漢士へ嫁いだお嫁さんといった感じだった。黒美人はサウナでさまざまな人と出会ったが、ここで玉蘭仙子(第5話参照)、蒋姨(いずれも漢士のお客さんで阿嬤のよき姉妹。蒋姨は序章参照)などゲイコミュニティのよき姉妹と知り合った。
 そのころ漢士サウナの商売は繁盛していて、週末がくれば客足は途絶えることなく、それで従業員の給料や福利厚生はとてもよかった。彼はサウナで住み込みで働いていたが、誕生日には阿嬤や従業員たちが彼のために祝ってくれたし、プレゼントを贈ってくれる友人もいた。暇なときはみんなで約束して女装をし、蒋姨に手伝ってもらって化粧をし、そして一緒に近所のゲイバーに繰り出して歌った。
 一群の仙女たちが降臨し、西門町の街頭を闊歩すると、まことに絶景だった。黒美人も自分の扮装には考えがあった、「実際私の顔色や下半身(のスタイル)はまあまあよ。もし女装をして、おしりがプリケツじゃないと、旗袍(チーパオ。チャイナドレス)を着てもきれいじゃないのよ」。のちに阿嬤は黒美人が女装した写真をわれわれに見せてくれたが、写真のなかの黒美人はあわいピンクの仙女のかっこうで、頭には同系色の花飾りをして鬘をかぶり、赤い羽毛のマフラーをして、そして蒋姨が精魂こめた化粧をし、レンズのまえでまるで艶やかな姿のベテラン仙女であり、威厳と自信にあふれ、まわりの同様に女装した若いゲイたちと美しさを競いあっていた。

 ●病気をしてもまだお金のために働く

 サウナでの仕事は、黒美人のゲイライフにさまざまな変化をもたらしたが、このかん現実生活では多くのできごとが起こって黒美人を打ちのめした。父親が交通事故にあい、母親が病気をし、弟が六合彩(訳注:一種の賭博)で多くの金を失い、いつも黒美人のところへ来ては金を借り、ついにはこっそり父母が黒美人が住めるよう残してくれた家を抵当に入れ、裁判所で競売され、本当ならまずまずの生活ができる彼は、暮らしのためにサウナで働き続けなければならなかった。しかし、もっとも大きなできごとは、2000年(民国89年)ごろ黒美人がエイズウイルスに感染したことだった。
 黒美人が回想するには、コミュニティに出入りしいつもサウナへ出かけるようになったころ(民国80年代初め=1990年代初頭)、なにがコンドームかも知らず、セックスするときはコンドームを使うべきということも知らなかった。感染後も、自分をいかに正しくケアするかも知らず、ただ自分の人生はまったく希望がないと思い、さらには自殺を思うこともあった。なぜならエイズに感染するとかならず死ぬと思っていたからだ。
 サウナで働く従業員は毎年健康診断を受けたが、黒美人は健診のとき陽性がわかったのだった。そのとき彼はだれにも言わなかったが、あとで阿嬤が、黒美人の体の悪化、たとえばいつも風邪を引いていたり肝臓がよくないことに気づいていた。そこへ衛生局から、黒美人に再検査に来るよう漢士へ電話をしてきたので、黒美人を問い詰めてはじめて彼が感染していることを知ったのだった。
 阿嬤は黒美人の状況があまりよくないと思い、仁愛病院から退院したあと、彼が湯さん(人名)の生命社服協会*に入れるようにしてやり、規則正しい服薬と適切な療養を受けることで、黒美人はまた比較的健康になった。しかし、のちに協会が資金不足で移転せざるをえなくなり、黒美人もそのため協会を出て台北のもう一つのバビロンサウナで働いた。つづいてそのサウナもまもなく廃業したため、台北ではもう仕事が見つからず、中南部へ仕事探しにいったのだった。


 生命社服協会:1989年、湯富國が創立。エイズ患者と家族を支援し、入院の手配や病状の調査、福祉相談などの業務を行なった。


 このときの遠出は彼の体に大きな変化を起こした。もともとよく知っていた台北を離れ、黒美人は南部の病院がどこにあるかも知らず、半年も医者にかからず、薬も飲まなかった。こうした治療中断で、もともと健康を保っていた体もまた悪化し、のちにまた病院へゆき薬を手にしたのにもかかわらず、健康はすでにますます悪くなっていった。
 病気になったあと、黒美人はすでに長兄や兄嫁、次兄の嫁や姪たちには自分がゲイだということはカミングアウトしていたが、みんなはそれほど意外とも思わず、姪っ子たちも黒美人がかれらのことをずっと可愛がってきたので、お正月には黒美人に三万元のお年玉をあげて、こう言うのだった。「おじさんは私の長上だし、そう、おじさんは奥さんもいない、おばあちゃんもいない、だからこれからは私たちを頼りにしてね。いるものがあったら私に言ってね」。自分は一人だと思い、他人に頼るのを嫌った黒美人は、心を動かされたけれど、やはり一人で生活することを希望し、それであちこちをふらふらし、身体が長時間のサウナでの仕事に耐えられなくなってやっと台北へもどり、親戚が彼のために五股(地名。新北市五股区)に借りた部屋に住んだ。
 エイズが肝臓の不調に関連があると誤解したせいなのか、あるいは天命を悟ったのか、黒美人は晩年はHIVの服薬治療を放棄し、ハーブを買ってきては飲み、家族には自分は肝臓病なんだとのみ言った。彼の身体は時間とともに悪くなった。ハーブは彼の体のウイルスを消しはしない、逆にウイルスは身体の活動に影響しはじめ、歩くことにさえかなり苦労をするようになってしまった。
 漢士阿嬤はずっと気にかけ、また口を酸っぱくして病院へ行って治療を受けるように勧めたが、黒美人の心では人生でのかくも多き困難はすでに彼の受け止めきれるところではなかったのだろう、生死もまたすべて天の意思に任せたほうがいい、となった。気が抜けたようになった彼は、希望をただ宗教に託するばかりで、どんなお経でも唱えることができた黒美人は、不断の読経をつうじて福を積み、業障を払い、宗教は彼の精神的な支柱となった。善良で馬鹿正直なのに人生に弄ばれた黒美人は、いつも来世はよい人間に生まれ変われることを願い、いまのように運命に弄ばれることは望まなかった。
 インタビュー後、われわれはもう黒美人の消息を耳にしなかった。つぎに聞いたときにはすでに漢士の阿嬤はわれわれに、黒美人が世を去ったという知らせを伝えてくれた。
 漢士の阿嬤は言った、黒美人の死は一種の成仏だね、お金がなければ病気になる資格もないのよ!
 黒美人はかつて言った。彼はあの時代、同性愛やエイズがわかるはずがなかった、彼は同性愛は中国大陸から伝わってきた性癖で、エイズはだれも決して口に出せない秘密だった。そして彼一人でセーファーセックスがなにかなんてわかろうはずがない。黒美人の死はおぼろげに彼というあの世代のゲイの姿を浮かび上がらせ、エイズと同性愛の二重のスティグマが個人の上にのしかかり、人がどうやっても身から払い落とすことができない。われわれ若い世代は比較的多くの知識やコミュニティリソースをもってエイズに向き合ってはいるけれど、しかしエイズに対する恐怖は、いまでもかすかにわれわれの心のかたすみに存在している。
 ゲイ男性がエイズに対してなお多くの誤解をもっているとき、あるいはゲイたちが自分たちゲイの半分が感染者であることを憂慮するとき、多くのネット民が他人と性愛関係をもつ感染者のゲイを攻撃するとき、そしてゲイ男性のなかには政府機関がまったくプライバシー無視のエイズ検査を提供することを支持する人がいるときに(訳注:ゲイコミュニティの立場からは、台湾レッドリボンなどのプライバシー無視の検査方法への批判がされている。一方で、そんな検査でもあったほうがいいと支持するゲイもいる)、私はこんな思いを禁じ得ない。台湾にまだどれだけ黒美人のようなゲイがいて、自分が力無く向き合う人生を終わらせようと自暴自棄になることを選んでいることか。


 ●インタビューを終えて----ドラマよりも悲惨な人生
 黒美人へのインタビューは、彼がすでに中南部へ働きに行っていて、たまたま阿嬤に会いにきたついでに行なわれた。阿嬤はインタビューまえに私たちに言った、これはある悲しい定めの女の物語なのよ、と。実際インタビュー時、私もテレビドラマよりもさらに悲しいストーリーに驚いた。ゲイの情欲はいかに抑圧され、暴力的なかたちで現れるのか、そしてエイズのスティグマの圧力がいかにゲイにしかたなく押し付けられているのか。
 黒美人の人生ストーリーはじつに複雑で興味深く、こまかい部分ではまだまだ聞きたいところが多く、インタビューを通じて彼にその圧力についても語って欲しかったが、のちにさまざまな理由から、インタビューの約束ができなかった。ただ、たまたま彼と会ったという阿嬤の口から彼の近況を知ることができるのみで、この章の後半も、阿嬤の口から知ったことによる。彼のストーリーに向き合うと、いつも自分が彼のためになにもできなかったことに残念で辛くなる。ただこの文章が、さらに多くの人に彼のことを記憶させ、黒美人がつぎはさらに幸福な人生を送れるよう祈りたい。

 (翻訳協力:クッキー)


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