第1話 ゲイサウナのおっかさん「阿嬤(アマ)」

原題「歳月の尻尾をつかみ、勇敢に自分になろう――ますます人生をしっかりつかむ「阿嬤」」 (注:アマはばあちゃんの意味。朝鮮語オモニに由来とも)

 ●作者紹介 勇可
 勇可。民国50年代前半(1960年代前半)生まれ、一人っ子で、二度の自分を騙し人をも騙すような恋愛をしたあと(訳註:無理にした女性との恋愛を指すか)、30歳の誕生日、自分を生きていこうと決心した。ゲイのあいだであれこれ探し求める機会もないうちに、いまのパートナーとの17年にわたる親密な関係に入っていまに至っている。大学で教えており、高齢者福祉が専門、そのため高齢ゲイが台湾の高齢者福祉のイメージのなかに存在していないことを知っている。2005年、志をおなじくする友人たちと、高齢ゲイのオーラルヒストリー収集の計画をはじめ、もともとは半年で「研究」を完成させる予定だったが、書いてみたところ、止めるにやめられない「人生劇場」となってしまい、そのためゲイ運動に足を踏み入れることとなった。同じように社会にスティグマを負わせられたゲイは、相手の存在を知ることもなく、われわれの間には世代の差が横たわり、かくも容易に超えることができない。阿嬤はわれわれが今回、高齢ゲイへと敷居を超えるカギとなる橋がかりであり、彼の律儀で人情に熱い人柄のおかげで、レインボー家庭の三代が一堂に会すといった図がついに完成したのだ。

 ゲイサウナを経営する阿嬤は、いつも笑顔で人を迎える。歳は60歳に近いが、皮膚はとてもツヤツヤしてシワもない。客はみなこっそり「余夫人」(訳註:余裕のある奥様、といった意か)と呼んでいる。「阿嬤」と呼ばれるのは、若手映画監督の陳俊志(序章参照)がドキュメンタリーを撮ったとき最初にそう呼んだからで、それで若いゲイたちはみなそれにならって呼んでいる。阿嬤の呼称はじつに的確に、若いゲイたちが阿嬤の風貌から受ける草の根的なもの、さらには彼の人を助けたいという善良さ、ちょうど声を聞けばたちまちその苦を救う媽祖(訳注:道教の神、台湾で信仰される)の姿をも表している。
 彼が経営するサウナは、ゲイが消費をする場所にとどまらず、多くの中高年ゲイが一堂に集う「家」で、まさに陳俊志監督が名付けた「無偶の家」(訳註:配偶者のいない人たちの家)そのものだ。はじめて阿嬤を見たのは、誠品書店(訳註:台湾の大型書店チェーン。先進的な内装や品揃えで知られる。日本にも支店がある)での上映トークのときで、自分がしたことのすべてに対して、阿嬤は謙遜して、自分ができる範囲のことをやっただけだと言った。でも、もう一方では、彼は映画のなかに登場する人物に対して、家宝を数え上げるようによどみなく、一つひとつその人たちの物語を語って、阿嬤は本当にこれらのゲイたちを心のうちに置いているのだなということがハッキリわかった。そのとき私は、どのような人生がこういうひとかどの人物を作ったのだろうと興味をもった。

 ●以前得られなかったものは、いま倍になって手にできる

 何度か公開の場で阿嬤と会ったが、いつも阿嬤が派手なかっこうをしていることに不思議な気がしていた。レインボーバス旅行(序章参照)に行くときも、当日阿嬤は少しも気兼ねすることなく全身真っ赤な服を着て登場し、満身キラキラで周囲をギョッとさせた。控えめにして身を隠すのが習い性のゲイたちは、こんな大胆に自分を表現するように着飾るのは、たぶん受け入れられないだろう。『リアルのクイアたち(真情酷兒)』という番組(注)の取材を受けたときも、阿嬤は自分が高齢期に向き合う心境を語っているが、私はここでやっと彼がどうしてこんなにオープンにできるのかを知った。
 「いいかい、みんなこの年まで生きたら、最後の人生をつかむんだ。喜びのgayになるんだよ! あんたがまえは得られなかったことも、いまは倍になって手にできる。さあ、以前得られていなかったものを補うんだ」
 以前の閉ざされた社会のゲイの欲望に対する抑圧は人生の空白を生んだが、阿嬤はまだある人生を把握し倍にするように色彩を加える。満身のギョッとする真っ赤は、まさに阿嬤が高齢期に向き合う積極的な態度を表しているのだ。

 原注:ゲイ放送の番組。ビンセント氏がプロデューサー兼司会者を兼ねる。放送は10年を超えた。番組はハローネットラジオの成立によってネットで聞くことができ、リスナーは遠く中国大陸にも及んだ。ビンセント氏は毎年リスナーに呼びかけ、隊列を組んで台湾同志パレードに参加してきた。番組は2009年2月に終了した。

 ●すいません、火を貸してください。何時ですか?
 
 三人兄弟の末っ子である阿嬤は、純朴だが保守的な台南の田舎に生まれた。台湾経済が発展した70年代、阿嬤は中学を卒業したあと友人の紹介で、田舎を離れ台南と高雄にゆき、当時新興産業だったメガネ屋になった。阿嬤の言うことによれば、「メガネ屋」は利益がいいだけでなく、社会的地位を象徴する職業だった。「そのころメガネ屋の仕事は、とても高尚な仕事だったのよ」。でも、田舎から都会空間へ移動したものの、まだずっと抑圧されていたゲイの欲情を開花させることなく、阿嬤はあいかわらず田舎の保守的な伝統的考えを帯びて生活し、現在のオープンさや活動的な姿と対照的だった。阿嬤は言った、「田舎にいたら保守的になるものさ、田舎でこんなに騒げる? たぶん他の人に笑い倒されるわよ!」。
 田舎では、人間関係が緊密で、隣近所の噂話はそこで生活する人に対して絶大な教訓性をもつ。阿嬤はこうも言った。「もし他の人が、かれらの子どもが同性愛だと知ったら、世間の圧力は絶大で、ひどいことを言われるわよ! そのころの考えときたら、悪事をすることを願ってもむしろホモになることは願わない、といったもの。子どもがぐれたらまあいいこととはいえないけど、もしゲイになったら、それこそ最悪だったよ!」。そのため、阿嬤は小さいときから同性愛の傾向があって、男子トイレでこっそり他の人を盗み見たり、高雄に行ったあとは店番をしながら、かっこいい、白い制服を着た海軍さんが通り過ぎるのを見たら、自分がすごく男に感じていることはよくあったけど、ゲイの欲情追求をいろいろな行動へ結びつけることはなかったのだ。
 本当に同性への欲望を経験したのは、兵役後にやって来た台北でのことで、長らく噂に聞いていた新公園(注)へ来ると、もともとは何日か遊ぶだけのつもりだったのが、結果として阿嬤を開眼させ、ゲイライフの楽しみについて見聞を広め、このときから台北に留まって今に至ること30何年だ。阿嬤は言う、「そのころの二二八公園(訳注:新公園の現名)はホントおもしろかったんだから。そのころの新公園はとても暗くてさ、木もとても多くてさ、いつも夜行けば、木の下ではどこも人がいてヤってるのよ。雨の日さえ傘さしてそこでやるの! そのころ公園のトイレは不潔でとても汚くて、そして多くは水も出ないの。(じゃ、トイレへ入ってなにするんですか?) 入ってセックスするのよ! わたしたちのころはみんなそんなもの。公衆トイレを使えるのがせいぜいで、こういう環境もしかたない。いまのサウナみたいな、こんなによくって、こんなに便利で、すぐ洗いにいける場所はないの。だから、そのころ(公園へ)行く時はチリ紙を持っていかなくちゃいけないの」。

 現注 新公園:台湾ゲイ公園文化の代表的な地点。ネットでの出会いが興隆する以前はずっと、台湾北部のゲイにとっての重要な出会いの空間だった。1908年開園、「新公園」の名称は90年近く使われ、1996年に当時の台湾市長陳水扁が公園内に二二八記念碑を建てて「二二八記念公園」と改名した。
 新公園とゲイの情欲の歴史に関しては、晶晶書庫の店長 頼正哲が34名の友人(ゲイ)をインタビューして書いた『会社へご出勤――新公園ゲイの欲情空間』(2005年、女書文化出版)が代表的著作である。白先勇が50〜60年代の台北のゲイを描いた長編小説『孽子』(1983年初版、遠景出版)は、完全に新公園を背景としている。
 新公園は総統府に近いため、全台湾で唯一夜中は閉門される公園だった。近年、新交通システム・捷運の台湾大学病院駅が新公園のそばにでき、やっと全日開放となった。以前は夜中の閉門時間を過ぎると、新公園のゲイたちは台湾大学病院旧館前の常徳街に移動してたむろした。1997年7月30日、人権侵害事件である「常徳街事件」が起こり、15名の実弾武装警官が常徳街に大規模な取り締まりを行ない、40〜50名の路上の人びとを警察へ連行し写真撮影し、「だれも来なくなるまで取り締まりを続ける」と脅した。のちに「同志公民行動陣線」(人権団体)が緊急署名行動を起こし、連行された人をインタビューし、座談会や抗議を行なった。
 訳註台北市観光局のサイトにも参考記事がある。政府部局がこうした情報を発信することはすばらしい。

 ●恐怖のなかで出口を探したゲイの欲望 

 同性愛がなお社会的タブーだった時代、ゲイがオープンに付き合える空間は、社会の同性愛に対する恐怖感によって抑圧されていた。新公園のようなゲイの場所であっても、人と人との関係の仕方は、社会の同性愛に対する嫌悪や恐怖によって阻害されていた。そのころ、ゲイはおたがいが知り合おうとすれば、いろいろ自分を守る策略を巡らさなければならなかった。
 阿嬤は言った。「あたしたち、最初相手に言うの、『すいません、火借りていいですか、いま何時ですか」(訳注:ハッテン場などで声をかけるときの決まり文句)って。自分の本当の名前を言おうともしなかったし、実際怖かったの」。彼はしょっちゅうため息をついた。「以前の人と人との信頼感はホント弱くて、自分を守るばかり。それで私たちの時代には、活動の場所や機会はとても少なくて、新公園だけよ。新公園ってとても複雑な場所で、そこへ行くにはいつも仮名を使って、とても若作りして行ったのよ。あるいは注意しなくちゃいけなかった。なぜって、そのころあそこではいろんなことが起こったの。恐喝されて、みんな心では怖がってた。みんな恋愛のことは、わりと軽く考えていた。ちょっと遊べればそれでよかったのよ」
 そのころのゲイはみな、相手が自分のことをゲイだということで脅迫したり、仕事の場へ行って面倒を引き起こしたり、自分の家族に密告したり、学校の教師に暴露したりすることを深く恐れていた。メガネ店で働いていた阿嬤は仕事に影響が出るのを恐れ、そのため人と付き合おうとしなかった。だから阿嬤は自分の状況がひどく悪いと思っていた。「私のそのころの状況はほんと悪かった。自分はここで商売をしてるからね。新公園でなにか話したりでもした人がこのへんに住んでたりでもしたら、そりゃ怖いわよ」。
 おまけに当時、ゲイの多くは家庭を持っており、いっそう自分がゲイであることがバレるのを恐れた。
「家庭のことを考え、社会が自分をどう見るかを考えなくちゃいけないから、恋愛に対しては、あまり重きをおかないようにしてた。みんな新公園での恋愛はニセモノだと思ってた」。もしおたがい目が会えば、彼について行ってセックスし、終われば知らないふりをした。それでそのころゲイのあいだでは「一杯の水」という言葉で、ゲイのあいだの性的交流を形容するのが流行った。相手を一杯の水にたとえて、飲み終えたら、何事もなかったふり。こういう点から見たら、ずっと長い間、多くの人が「ゲイの間に愛情はない」という印象を抱いてきたが、けっしてそれはゲイの本質ではなくて、社会の同性愛差別のためにゲイが恋愛を自由にオープンに発展させることができなかった結果なのだ。
 こうした人間関係への恐怖のせいで、ゲイコミュニティはおたがいの情報をシェアするプラットフォームとなることができなかった。阿嬤は台北へ来てからずいぶんあとまで、ずっとゲイバーがあることを知らなかった。阿嬤は言った。
「そのころ情報はとても少なかったし、私たちもほかの人といろいろ話そうともしなかった。そこ(新公園)でいろいろ話してたら、新しい情報を得ていたかもしれないけど、私たちみたいにあえて話そうとはしなかったのよ」。

 ●仮面をかぶった結婚は、本当に辛かった!

 結婚圧力のもと、阿嬤は30歳で結婚し、この結婚は十年の長きにわたって続いた。結婚に踏み切る多くのゲイと同様、阿嬤は家庭での責任とゲイの情欲との葛藤に陥った。「実際、結婚していたそのあいだ、自分は出かけたら(原注:ゲイのエロ活動をしにいくこと)、帰る道みち罪悪感を覚えたものさ」。結婚生活は絶えず偽装を求めたが、というのも「こんなことバレるわけにはいかないじゃない! バレたらえらいことさ!」。しかもこういう偽装は全面的なもので、生活のすみずみまでを含む。「実際、正常な生活をしないといけないのさ。一日、夜まで飲んでちゃいけない。時間が遅くなると、妻は疑うかもしれない。外へ用事に行っても、多くて1時間、2時間さ。もし午後いっぱいあるいは夜中までいないものなら、疑がわれる」。結婚中は阿嬤にとってとても苦痛で、阿嬤は結婚についての総括として、「仮面をつけて生活するのは、本当に辛かった」。結婚の終了は、阿嬤の妻が離れていったからで、こうした結末について阿嬤は逆にスッキリしていた。何年かのち、彼は落ち着いて言った。「私はよかったと思うよ!」。子どもは母親になついていると思ったので、監護権(親権)は妻に渡された。妻との離別について阿嬤は寛大にも、自分には恨みを抱く資格はないと思っている。なぜなら「私たちは人様に申し訳がたたない身だからさ!」。

 ●遊べて、稼げる仕事

 離婚は、阿嬤の人生の転換点となった。十年にわたる痛苦な結婚を経て、阿嬤は自分の人生を生きようと決心した。「これこそが私たち自身が生きたいという日々なのよ。つまり本質を現れさせてやるの! そうじゃなきゃ自分は毎日いまでも恐れたり心配したりさ」。
 そのときちょうど阿嬤の同級生がサウナの経営権を譲りたいと言ってきた。阿嬤は思った。「サウナへくりゃ、毎日たくさんの人に会える。まえはみんなお金を稼ぐためだった。いまこれは面白い。遊べて、お金が稼げて、こりゃいいよ」。自分の生計とゲイライフを考えるなかで、阿嬤はゲイサウナの経営者という立場で正式に自分のゲイライフの到来を迎えたのだ。
 ゲイサウナを経営するうえで最大の難関は、警察の立ち入り検査だ。阿嬤は長年の実践経験のなかで国家の法律を逆手にとってゲイへの弾圧に対抗する能力を身につけた。阿嬤はあるときのサウナの立ち入り検査を例にあげた。一人の客が脅かされ、事情聴取のさいに自分が暗がり部屋で男性客と性的関係を行なったことを認めたため、検察に「公然猥褻罪」で訴追されたのだ。阿嬤はずっとつきそって出廷していたが、彼は予審判事(法官)の尋問を傍聴するなかで、「ドアを明けておく」ことが「公然」を構成する要件であることを学習し、それ以来、阿嬤は警察の立ち入りの時にはもう恐れなくなった。
 「その法官は調書の内容を見ながら聞くのよ。『では、あなたがたは部屋でドアを閉めましたか?』って。私たちは言ったわよ。『ドアを閉めていて、警察がノックをしたので私たちドアを開けたんです』。法官はそこで私たちを起訴猶予の決定にした。理由は、法官は私たちがドアを閉めた状態で一連の行為をし、それは公開ではないと認めたから。それで私たちは無罪だったのよ」
 阿嬤が経営するサウナはいつも客足が途絶えない、それは彼の経営全体によるものであるが、その鍵は彼がどのお客さんとも知り合いだということにある。「どのお客さんも私はみんなわかるよ。どのお客さんも入ってきたとき、どんな状況かわかるし、私は仏頂面でお客さんを迎えることができないんだよ」。取材のとき、チョコ兄貴(ニックネーム、第6話に登場)がその場にいたが、チョコ兄貴もすぐさま続けて言った。「彼はどのお客も入ってきたあと、ほんとくつろがせてくれるよね。たとえば俺も、そんな感じがする。そのあと、彼はどの人にも気を配って、どの人にも挨拶するんだ。ほら、彼がカウンターにいれば、どの客も入ってくるなり彼の愛と心配りを感じるよ」。

 ●本当に自分に向き合うから、本当に軽やかになれる
 
 お客に対して気遣うことは、ツールとして商売づくの必要から出るものではなく、自己の内心から発するゲイへのいつくしみなのだ。サウナを通して、阿嬤はゲイたちがアドバイスを求める先となり、とくに恋愛問題は阿嬤がつねに解決する難題だ。ゲイの恋愛問題について、阿嬤には彼なりの一家言がある。「別れるのはまあいいの。でも、相手を傷つけちゃダメ! だから言ったでしょ、もし恋愛をうまく処理できないなら、恋愛はしちゃダメ。きょう他の人に心変わりしてほしくないなら、まず自分をいろいろ点検しなさい。恋愛以外では、お金のことがあるわ。言ったでしょ、恋愛は恋愛、お金のやりとりをしちゃダメ。恋愛さえうまく処理できないのに、お金の処理までするなんて。ほんと面倒ね」。
 こういう口ぶりには、阿嬤がまるでお客みんなの兄貴分といった感じが十分現れていて、一方では傷ついてきた後輩を慰め、もう一方では後輩自身の足らない点と改めるべきところを指導しているのだ。
 阿嬤は人と言い争うということがないので、それでいろいろな人と縁を結ぶことができた。また、阿嬤は言ったことは必ず守り、それでゲイたちの深い信頼を得ている。客とのあいだでも深い友情を発展させ、客はむしろ家族のようだ。「ここへ来たら、みんなよく知っているし、とても親しく、それでみんななかよく打ち解けるの!」。生活のなかではなお仮面をつけて生活せざるをえない多くの中高年ゲイたちは、ここ(サウナ)を生活中唯一の「本当に自分になれる」場所と思っている。こういう身内のような人が一緒にいることですごく自由な感じがするのも、じつに彼らのあいだの喜怒哀楽の反映だろうし、このサウナの心温まる風景ともなっている。チョコレート兄貴については、彼が人生の最低の時期を過ごしたとき(訳注:違うインタビューで彼がウツに悩んだことが語られている)阿嬤が寄り添ってくれ、彼を自殺の淵から救ってくれたあとも、阿嬤は冗談めかして言うのだった。「あなたにずっと生きてもらって、私があとで老いたらあなたに面倒みてもらうの。そうでなきゃ、そのときオムツを替えてもらうのに誰に頼めばいいのよ」。言い終わるや、また一同大爆笑だった。
 人生の大半が過ぎ、波乱万丈を見てきた阿嬤は、かろやかに人生のあれこれを笑いとともに語り、終始笑顔を浮かべ、締めくくるように言った。「本当に自分に向き合いなさい。そうすれば真に軽やかになれるから」。赤や緑を着飾った阿嬤が、笑い騒ぎながら客であることとよき姉妹であることのあいだを行き来している。私が見た阿嬤は真に軽やかであるが、ただこの「軽やかさ」はまた多くの葛藤と勇気を経たこととの引き換えではなかろうか。私は逆に阿嬤の自由さがうらやましくなり、頭(こうべ)を下げて自問せざるを得なかった、「自分は阿嬤のように本当に自己と向き合っているだろうか」と。頭をあげ、阿嬤が全身真っ赤な服を着飾っていたのを初めて見たときのことを思い出すと、あの赤はもはや目を刺すこともなく、逆に暖かい気持ちがしてくるのだった。


 ●インタビューを終えてーーみんなを救おうと志を立てた阿嬤
 初稿をもって、戦々恐々として阿嬤に見せにいった。1週間後、約束通りサウナに行った。阿嬤は顔をあげるや私に言った。隣の部屋では女の子が中央テレビでやっている「無偶の家」を見ていた。走ってきて、阿嬤に聞いた「あれは阿嬤なの?」。言葉のはしばしに、阿嬤が出版ということについて少し心配していることが感じ取れた。ただ、阿嬤はやはりきっぱりと言った。みんなに高齢ゲイの話を見て、理解してもらえるようになることは、とても意義のあることね、と。私は、安定的に日々を過ごしたいビジネスマンとゲイコミュニティのために活動する運動者とが交錯する矛盾の影を見てとり、こうした矛盾のなかで、阿嬤はずっとゲイコミュニティのために活動しつづけてきたのであり、こうした継続によって、阿嬤はすでにインタビューを受ける受け身の人からゲイ運動の現場でよく見られる「参画者」へと変わっていったのだ。中高年の人はいつも自分の考えに固執し、もう成長する余地がないなどとだれが言うだろうか。阿嬤はそのもっともよい反証だ。




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