第4話 優雅な結婚拒否者

原題「なお風雅を残す優雅な姿――黒猫姨が歩んだ、結婚拒否の自由な人生」

●作者紹介 家新
高校で輔導教師(訳注:学校生活からライフコースまで、さまざまなことのガイダンスをする特別教員。スクールカウンセラーと訳されることが多いが、心理面に止まらない)の助けでホットラインを知り、大学では社会学でジェンダー論に接し、宜蘭で学生時代を送った関係なのか、台北については、ずっとそのころLGBTカルチャーがいろいろ多彩な場所だと思ってきた。そのままジェンダー論の大学院へ進み、ホットライン協会でボランティアとなり、やっとセクマイコミュニティのなかにも明らかに多くの偏見、誤解、そして無視があることを知り、それで焦りと不満を感じはじめた。そこでホットラインのエイズグループに参加し、LGBTの視点からエイズ・スティグマのテーマについて取り組み、2009年には高齢セクマイグループに参加し、漢士サウナの先輩たちと出会い、「主流のゲイ男性」が接することのできない世界で、彼らに特有の中高年ゲイの時間を過ごし、自分もホットラインのイベントでバカバカしい扮装をしたせいで、いつのまにか先輩たちとの距離を近くした。こうしたつきあいの過程はとても貴重だ。なぜなら、台湾LGBT史のジグソーパズルが、先輩たちの話のなかで、一片一片のピースが合わさってさらに完全になるのを見ることになるからだ。

 はじめて黒猫姨(ヘイマオイー。訳注:黒猫おばさん)を訪ねたのは、さわやかな4月の夜だった。7時すぎ、漢士阿嬤(訳註:ゲイサウナ漢士の支配人、阿嬤アマは通称。おっかさんの意味。第1話参照)は私を3階にある食堂へ連れて行くと、野菜と玄米ご飯を用意してペースト状にし、黒猫姨に食べさせる準備をした。その後、老眼鏡をかけた、痩せた背の高い黒猫姨が、ゆっくりと食堂に入ってきて、私はそこで黒猫姨と挨拶を交わした。ほどなく阿嬤が緑色の健康飲料を一杯持ってきて黒猫姨に与え、一同がテーブルに座り、黒猫姨がタバコに火をつけ、そこでわれわれは話を始めたのだった。

 ●16歳 郷里を遠く離れて台北へ行き性欲に目覚める

 タバコに火をつけた阿嬤はテーブルに並んで座り、おもむろに私に言った。「黒猫姨は若いときホントきれいだったんだから。そうじゃなきゃどうして黒猫姨なんて呼ばれるものか」。目の前のこの先輩は、そのころどこにあっても界隈では名声が鳴り響く人物だったんだよと、私に暗示するようだった。私もほんとにそうだと思ったのは、黒猫姨の一挙手一投足に優雅な気品があふれ、話ぶりには内に秘めた自信が発散し、ある種の親しみのある感じは、この人とちょっとおしゃべりしてみたいと思わせるものだった。
 台南に生まれた黒猫姨は、現在すでに71歳であるが、若い時、家庭の経済状況は黒猫姨に続けて進学することを許さず、中学を卒業すると、16歳の黒猫姨は故郷をあとにして台北へ働きに出た。「お金が稼げて、ついでに男がいないか探してみようと思ったのかもね。ハハハ。結局、男よ!」。阿嬤は笑いながら言った。そして当時、黒猫姨は最初の仕事として革靴店で見習い工をやり、2年後、サウナの仕事に入ったのだった。
 民国50年代のそのころ、いわゆるサウナとは上海浴(訳注:ソープランドのように、女性が接客してくれる性風俗施設)が主で、黒猫姨は西門町の上海浴で雑役やら見習いをしていたが、遊びに来る客の多くは外省人の男だった。しかし、まさにこのときから黒猫姨は、自分が男に「感覚」が生じ始めるのに気がついた。
 「そのころわかったのさ、自分があのかっこいい人を見てて、自分は中年が好きなんだなって。その中年が来るのを見たら、とても嬉しくて、いつもこっそりと浴室のあたりへ行って、人の「もの」を見に行ってたの」。黒猫姨はそう言ったが、阿嬤はハッキリ言った。「こっそりちんちんを見てたのよ!」。黒猫姨はこのような職場のなかで、男性の体に対する想像を芽生えさせていったが、まっ裸の男性の前では、慎重に自分の欲望を隠し、とくにお客の全身マッサージをするときはそうしなければならなかった。「マッサージをするとき! 絶対人のモノに触っちゃだめ、ただ心のなかでひそかに焦がれるだけ。焦がれているのはいいの、でもモノにさわっちゃダメ」。黒猫姨はそう言っていたが、ああいう男性ばかりの浴場のなかに身を置いたら、ある種の抑えがたい踰越と愉悦(訳注:同音。掛け言葉になっている)を感じるだろうと思った。

 ●初恋 戦地で勤務した歳月の幸福な記憶

 何年かの見習い生活を終えて、サウナのマッサージ師になったあと、21歳の黒猫姨は遠く東引(訳注:中国大陸に接する媽祖列島にあり台湾の最前線基地)で兵役についた。保守的で抑圧的な時代、見目麗しい黒猫姨は、厳格な軍隊で、人生のうちで甘美な初恋を開始した。黒猫姨は軍の慰安隊に入ったが、当時は黄梅調(訳注:中国の地方劇のひとつで、高い音域で歌われるのが特徴)が流行時期で、軍を慰労するために黒猫姨は「梁山泊と祝英台」(訳注:劇名、悲恋もの。題名は二人の男女の名)公演のオーディションに参加した。もともと黄梅調を歌うのが大好きな黒猫姨は、これまで研鑽してきた身ごなしとノドで、劇の主役としての出演機会を射止めたのだった。
 ここまで話すと、阿嬤は突然色めき立った。なんと、黒猫姨はそんなに早いころ化粧したことがあるのだ! 阿嬤は追っかけて聞いた。「そのとき祝英台は女装してやったの?」
 「女装よ」
 「そのころから女装したんだ! へ〜、ねえ、彼はほんとに進んでいるね、とても優美で賢いわ。じゃ、そのときあんたはどうやって化粧や衣装をしたの?」
 「京劇をやるときのおしろいや化粧をして、それから髪は京劇のカツラをつけ衣装を着て……」
 「そのころ女装したらキレイだったでしょうねえ」
 そして何度もうなづいた。黒猫姨のじつに美しい演技がとてもよかったので、ひとりの副隊長がそのために黒猫姨に心を寄せてきた。彼は40歳、江蘇省出身、まったくなんとも黒猫姨のタイプだった。
 「あなたのその女装だってすごかったし、歌仔戯(訳注:台湾で盛んな地方劇)も歌え、黄梅調も歌えたからでしょ!」。阿嬤は笑ってはうなづき、黒猫姨は満足そうに言った。「彼は本当にかっこよくて、モノだってほんとにきれいだった!」「そこ重要!」。黒猫姨は自分が「梁山泊と祝英台」に出たとき、副隊長はいつも舞台のそでで指導していたが、彼は黒猫姨に関心を寄せ、こっそりと黒猫姨の手に触れ、そこでスリスリすればするほど気持ちが伝わってきたのだった。
 副隊長との出会いを回想すると、黒猫姨の顔は満面の笑みになった。「彼はほんとにかっこよくて、彼に言ったものよ。ああ、なんてかっこいいの、って。彼も、そうかい? そして彼は私を抱いたの」。さながら映画『ヨッシ&ジャガー』(訳注:2002年イスラエル映画、漢名『我的軍中情人(わが軍隊中の恋人)』。日本では2004年、第13回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映)のようだが、黒猫姨と副隊長のあいだの恋愛はそうやって始まった。東引でのその2年、ずっとこの上官づきだった黒猫姨は、隊内の環境のためふだんほとんど連絡ができないので、週末になると二人は夕食を終えるやいなや、隊舎の外で会う約束をした。黒猫姨が親しさを感じていたのは、副隊長が黒猫姨が蟹を食べるのが好きなのを知って、いつも新鮮でよく肥えたのを買って黒猫姨に堪能させてくれたのだった。そして、戦区の廃棄されたトーチカが二人が密会する場所となった。そこでは、どんなことでも……全部起こった!
 「私たち二人は、そこでやったのよ!」「野砲を打ったの?!(訳注:アオカンしたの、の意)」。阿嬤と黒猫姨の対話はほんとに直裁で爽快で、私の脳裏にはゲイビデオの場面さえ浮かんだ。迷彩服を着た二人が汗を流しながらハンハン言っている……。
 若くて見目麗しい黒猫姨とかっこいい中年の副隊長は、戦地でたがいに寄り添いあい、黒猫姨の人生でもっとも深く刻み込まれる恋愛となった。でも結局はふたつの世界。当時の緊張した社会の雰囲気で、いつでも台湾に戻れるわけでもない副隊長とは、さまざまな原因でついに連絡をとることができなくなった。退役後も黒猫姨はずっとこの上官のことを心にかけていたが、彼は言った、「思っていてもしかたないよ! ときにはまだ恋しいけど、でも仕方がない。思い切って忘れることにしたわ」。

 *黒猫姨が兵役についた時代は、いまから50年前の1960年。そのころ国民政府は台湾に移って10年であり、大陸との両岸はまさに軍事的に緊張した対峙状況にあり、台湾社会は戒厳の時期だった。その2年前(1958年)には有名な「金門823砲撃戦」が発生したばかりであり、同じく1960年には有名な政治事件「雷震事件」(はじめて国民党以外の政党が組織されたが、雷震らの自由主義者は逮捕された事件)が発生した。黒猫姨が兵役についた東引は、媽祖島よりもさらに大陸に近い孤島で、軍事的気分の濃厚な前線であった。

 ●結婚を迫られる 堅く結婚に抗って妥協せず

 退役後、台湾本島に戻った黒猫姨は、サウナでマッサージ師の仕事をつづけるほかに、適齢期の結婚圧力に直面しはじめ、家族が彼に早く結婚するように望んだ。このときの黒猫姨の決心は本当に敬服する。彼は言った。「女性に少しの興味もない。そのとき心のうちで思っているのは全部男の人よ!」。この一点のために、黒猫姨は堅く結婚を拒み、そして「お見合い」ということに対して彼なりの解決の道を探しはじめた。「お見合いに行っては相手に、あれが嫌、これが嫌、痩せてて嫌、太ってて嫌! こうやって相手を断り、ずっと断って断って、というわけ」。
 お見合いのたびに断れるときは断ったが、これは黒猫姨が使った策略で、家族にカムアウトするすべのない状況下では、黒猫姨はずっと結婚しないを押し通し、それでずっときたら、家族はもう結婚のことは言わなくなったのだった。家には兄がおり、子孫継承の圧力は黒猫姨がひとりで負わなくてもよかったからかもしれない。アマは言った。「これまことに孝順なるかな(伊真孝順耶)。私たちってこういう世代なのよ。父母に対しては本当親孝行よ」。黒猫姨はいつも台南に帰っては父母や親戚と団らんし、台湾の伝統的社会の圧力のもとにいても結婚せず、それでもできるかぎり家庭との良好な関係を維持してきたのだった。

 ●30年 台北サウナの生き証人

 もし台北サウナの興亡史を語ろうとすれば、黒猫姨は絶対、全台湾で第一に選ばれるだろうし、もともとサウナのマッサージ師から身を起こした黒猫姨は、働いてきたサウナは挙げられないほどで、「白金漢宮」「温沙堡(公司会館の前身。訳注:公司会館は著名なゲイサウナ)」からゲイサウナの「儂倈(北欧館の前身)」まで、とくに彰化にあった「天琴」では1年余り働き、1970年代から90年代までに、黒猫姨は専業マッサージ師からサウナの支配人へとなっていた。
 この期間、黒猫姨のゲイライフはどうだったのだろうか。彼は90年代以前の台北について言った。「そのころはねえ、こんなゲイサウナはなくて、みんな新公園に行ったものよ」。当時の新公園の盛況以外では、そのころの台北にはすでにゲイバーがあった。「成都」は黒猫姨とゲイ界隈の友人がいつも行く場所だった。私は頭のなかで古き台北の光景を描き、当時のゲイがいかに生活していたかを想像した。もちろん、友人はとても重要なものだ。「彼はとてもジョークを言うし、それが多いのよ!」。阿嬤が言うには、黒猫姨は人柄がいいから、みんな彼と喜んで友だちになったし、恋愛問題でも生活問題でも、界隈の友だちはみんな黒猫姨に相談したし、黒猫姨も親切な性格だから、友人を助けていろんな問題を解決することが好きだった。「いつも界隈で動いていたから、みんな私のことを知ってくれてたよ」。そうしてだんだんと、当時の界隈のなかで、黒猫姨はどこに行っても知らない人はいないありさまとなった。
 しかしながら、男性に対して抑圧した欲望は、これまで黒猫姨が言ってきたように、やはり鮮明で強烈なものだ。「以前はねえ……ああ、ムラついたらさ、一日晩まで男の人を思うのさ。思って狂いそうになる! 一日、男のチンチン見なかったら、もうムズムズするよ」。黒猫姨と阿嬤は、中華商場の公衆トイレや紅楼映画館や(訳注:ともに過去の著名なハッテン場)、それから「暗闇」の新公園を思いだしていた。「大昔はね、あの木は、ほら以前はきれいに並んで植えてなくて、それがあそこで揺れてるのは、なかに人がいてヤっているのよ!」。阿嬤は当時の新公園の光景をかんたんに説明しはじめ、黒猫姨もかつての思い出にひたった。「以前は街灯もこんなに多くなくて、いまはどこもすごく明るいもんだわ」。
 現在のネット社会と対照的に、以前の人はセックスするのもほとんど公園でだったし、ことが終わったあとも連絡方法を残すことはホント少なく、これも先輩たちの眼から見ればすごく単純で、「多くの人はわりと恥ずかしがり屋で、それで自分を守ろうとする意識がとても高かったのよ」。同性愛がまだ「脚仔仙」(台湾語。かつてのゲイに対する差別的な呼称)と呼ばれていた時代には、みんなおっかなびっくりで、もし街で男性がふたりいっしょに歩いていたら、背後から冷やかしやあざけりの言葉が投げ掛けられ、ホテルへ行ってエッチをしようという場合なら、なおさら言うまでもない。
 黒猫姨も90年代以後は、しばらく休息して、台南へ帰って野菜や果物をつくったり、鶏やアヒルを飼ったりして、清らかなリタイア生活を送っていたが、そんな日々が過ぎて5年になるころ、世事に超然としているわけではないが、時間がずいぶんゆっくり過ぎるように思えた。彼は言った。「男の人のチンチンを見ることがないと、心のなかがムラムラしてたよ」。黒猫姨はやはり北部でのゲイコミュニティが懐かしくなり、友だちと麻雀をしたり、おしゃべりをしたりはもちろん、やっぱり男を探したりするのが、自分でもおなじみで自由でほっとできる環境だと思った。

 *この語の由来には、一説に、清代に人民を大陸から台湾へ入植させたが、未婚の男性に限ったため、それを「羅漢脚」と称した(訳者注:入植者は着のみ着のまま裸足姿で、五百羅漢の修行姿になぞらえたらしい)。妻などもいないため男性同士で行為し、そこから男性間で性行為する人を「脚仔仙」と称した。のちに台湾語中で「男性同性愛」を表す言葉となり、軽蔑や差別の感じを帯びるようになった。

 ●手放す 中年後のある恋

 中年以後にも黒猫姨は、一度恋愛をしたことがある。一度、黒猫姨がむかしの台中の「金府」ゲイサウナで遊んだとき、ある40歳の男性と知り合った。二人は1年ほど付き合い、そこにはもちろん甘い思い出もあるけれど、このときの黒猫姨は逆に、相手はすでに40歳だし、自分は人のお荷物になるべきじゃない、このままでは相手を傷つけていると思った。「私たちは人の前途を邪魔しちゃダメ、そうじゃない?」。黒猫姨は幾度かその男の人に、早く結婚しなよと勧めた。でも相手はがんとして結婚しようとせず、黒猫姨と一緒にいたがり、家族からの結婚圧力にさらされ、黒猫姨は何度も彼のお見合いについてゆくことさえして、とうとうその人は女性と結婚したのだった。
 黒猫姨は言った。「最後には彼は私にこう言ったよ、あんたが俺に結婚を迫るのは、俺と別れたいんだろ、それで俺に結婚を迫るんだろ、って。私は言った、そんなことじゃない、あんたのタメなんだよ! 家の人があんたに結婚を求めるんなら結婚するべきなんだよ!」。これはなんと重たい圧力だろう、二人の相愛の人が一緒にいられないなんて。中年になって、むりやりしたくもない結婚をしなければならないだなんて。家族と自分たちのあいだの感情が引き裂かれ、人の子として伝統社会のもと尽くすべき責任がいく世代にもよこたわり、あいかわらずゲイたちのつまづきの石となっている。私は若い頃の黒猫姨が家族から結婚を迫られて、自分はかたく結婚へは入って行かないようもちこたえた勇気を思い出したが、彼がもう一面では同様の問題のために、相手の葛藤を受け止め、社会の巨大な圧力のもと毅然として愛情を放棄し、相手を結婚させてむしろ自分は一人身になることを選択したことに、心が痛んだ。「人を傷つけちゃいけない」という言葉は、聞いて本当に憤りを感じたし、悲しみがこみあげるものだった。

 ●発病 空前の恐怖経験

 数年前、黒猫姨は自分の体力が突然以前のようではなくなり、からだがだんだん痩せて、水を飲んでも飲んでものどが乾くのに気がついた。黒猫姨はこれまで平穏無事に過ごしてきたが、今度自分がだんだん弱ってくるのを見て、手の施しようもなく、自分はエイズに感染したんだと思い、そこであわてて西門町の性病予防所へ検査に出かけた。しかし、検査の結果が出ると、黒猫姨はエイズには感染していなかった。だが問題(不調)はまだ解決せず、また何軒かクリニックへ行き、医師は黒猫姨にブドウ糖の点滴をしたところ、この注射で黒猫姨の体の状況はさらに悪くなってしまった。
 そしてある日、黒猫姨は全身めまいがして、歩くことさえままならなくなり、まったく苦しくなったが、そのときまわりに世話をしてくれる人がいなかったので、彼は急いでタクシーを呼び、ひとりで国泰病院へ行って診てもらい、そこでやっと糖尿病だったということがわかった。台北にいる姪一家がすぐに同意書に署名して黒猫姨を入院させ治療に専念させたが、この間、その一家の若い人たちが黒猫姨を誠意をもって面倒みてくれ、一ヶ月ばたばたして、黒猫姨はやっと退院してきた。
 「自分は以前ちょっと貯金したが、そのあと思ったよ、今後の後半生では、あまり他人には頼れないんだろうな、とね。現在はこうやってゆっくりゆっくり暮らして、そんな感じだよ」。高齢期の生活に対する計画は、黒猫姨も早いうちに考えていたが、実際には思いもよらなかったのは、老後に身体状況が病苦のために急にこんなにも虚弱になることだった。まだよかったのは病状がだんだん安定したことで、退院後の黒猫姨は姪たちと同居することにした。実の父母ではないのに姪たちは彼を十分に尊重し、週末や休日には一家をあげて出かけたり外食したりした。黒猫姨の後半生には安定した居住環境があり、少なくとももはや孤独な人ではなかった。

 ●現在 ゲイであることは一種の「幸福」
 
 黒猫姨が言うには、いまの社会は以前にくらべればものすごく開放的になったし、みんな自分がゲイだということについてももはや抑圧もしなければ、かならずしも自分を隠す必要もない。「現在はとても開放的だよ。なんでもOKだし気軽だし、私たちが以前したようなじっとがまんするようなこともない。私たち、以前はものすごくがまんしてたし、息もできなかった」。阿嬤も言った。「あのころの感じを言えば、『こっちの人間になったら、情けなくて死にそう!』よ」。
 社会が与える圧力を感じていたせいかもしれないが、阿嬤の漢士サウナはこれらの先輩たちが「自分になる」場となった。黒猫姨が言うには、「ここでは、彼らとおしゃべりするの。笑話をしたり、三々五々、ジョークを言ったりして、心の中の悩み事を発散させ、空っぽにするのよ」。
 しかし、黒猫姨はこうも言った、ゲイの欲望は絶対、主流の若い世代に止まるものではなく、自分が2008年のホットラインのイベントで呼び掛けたように、つまり現在の社会は若い人が幸福を享受するばかりでなく、高齢者も自己の人生を享受し、自己の欲望の窓口を探し求める権利があるということだ。「中年が好きな人は中年を探し、若い子が好きな人は若い子を探すのよ」と黒猫姨は言った。それぞれにそれぞれの市場があり、みんな自分が生きたい生活を送ればいいのだ。
 阿嬤は言った、「いまゲイであることはまさにすごいことよ!」。黒猫姨は私を見ながら、笑いながらうなづいて言った、「これはひとつの幸福なんだよ」。
 黒猫姨と話終えて、私は下へ降り、漢士サウナを出た。いくらも行かないうちに多くの人でにぎわう紅楼広場へ来た。私はまた電子音や流行のファッション、男性の香水の香りであふれた主流の若者ゲイの世界へと戻ってきたのだ。たしかにある種の時空を通り抜けた奇妙で幻想的な感覚があり、私はしばらく足を止め、眼前のこの紅楼を思って、多くのゲイの記憶を受け止め、一代また一代と時代を超えていった。
 われわれはいつも自分の時代に生きているが、そのことを思うことは少ない。同様に紅楼は、何年もまえにはどんな光景だったのか。そして紅楼を何歩か出た外には、まさに一群の高齢ゲイたちがいて、ずっと紅楼の賑わいや人波を見ている。しかし、まさに黒猫姨のように自分の老ゲイ生活を送りつつ、現代のゲイたちがプライドをもって自分らしくあることを肯定するとともに、わが目前に迫る高齢生活に対しても淡々と自由でいる。それは長年の経験があってはじめて達成できる資質だ。結局、黒猫姨の優雅さ、それから阿嬤との二人での口げんかめいた笑い声から、私はこれぞ台湾のシニアゲイならではの誇りある姿だと確信した。このふたつの異なる世界(訳注:若者とシニアゲイの世界)が、もしおたがいにあい見ることができたら、どんなにすばらしいだろうか!

 ●インタビューを終えて 永遠の黒猫姨
 黒猫姨はかつて言った。もし皇帝を演じるのに適する人がいなけりゃやらないけど、もしそうでなかったら、ホットライン協会の募金イベントで「戯鳳」(訳注:京劇の演目。おしのびで出かけた青年皇帝と美しい宿屋の娘 鳳姐との軽いラブコメディ。遊龍戯鳳)をみんなに演じて見せたいとほんとに考えていたよ、と。しかし、今年の11月の第5回レインボー熟年バスの日、私は黒猫姨が世を去った知らせを聞いた。阿嬤は言った。黒猫姨は重態のあいだも、にぎやかなのが好きな彼はあいかわらず店に来てみんなと麻雀したりおしゃべりしたが、だいたい1時間もしないうちに、体も耐えきれなくなり……その後はもう来店せず、電話してもだれも出なかった。幸い面倒を見る若い人がいて、亡くなったあとのことは心配なかった。黒猫姨は逝き、われわれももう彼が黄梅調を歌うのを聞くこともできないが、彼のユーモラスで優雅な風貌は、すでに永遠にみんなの心のなかにある。


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