第8話 酒場人生からいま60歳の警備員へ

原題:酒の国の人生で、みんなを笑わせる----「案内人」の阿傑

●作者紹介 喚圏狼
この世に暮らしながらも自分が身を置く時代にまったく相入れないと感じている民国70年代(訳注:ほぼ1980年代)生まれ。大学時代に社会の現実に介入すると公言する文芸サークルを創設し、いくつか小説の賞を得たり、ルポルタージュを書いたりしたことがあり、書くことは、長くてかつ歩ききらなければならない道だと覚悟した。ヒューマニズムと愛情を信じ、この一生が最後には退屈にならないよう、バタバタと過ぎ去ることを希望している。2006年、抑うつ的で物悲しい顔を緩めるために、革命的ゲイから人を愛するゲイへと方向転換、クラスメートがくれた一枚の「周辺に置かれた性的マイノリティのオーラルヒストリー採集グループ」のチラシを受け取り、そこに答えがないかと探し求めて、受話器の向こう側の夜盲さん(人名)と話し、ホットラインへ行きグループミーティングに参加した。そこで意外にも、生き生きとしたゲイ空間の経験と友情を得て、いまもなおそれを非常に大切にしている。おしゃべりミーティングへのメールはこちら。×××@××××

 阿傑(アーチエ)さんを形容するのはとても難しいのだけど、もしハッキリ形容しようとするならば、彼は僕の大学時代に知っているある教師にとても似ている。教師はみな一種独特な声をあやつるもので、聞いたばかりのときは男が声を張り上げているようで、よく聞くと小さい時あった早送りはできるけど巻き戻しできないカセット録音機みたいで、聞きたい部分を行きすぎないようよく注意して、そこで早送りのボタンを緩めながら押すと、キリキリという澄んだ音がする。もしさらにこまかく聞き分ければ、高音だが最初の何文字かはあまりはっきりしない高音で、いつも心配な感じで、まだ言い尽くせない心情や気持ちがあって、かんたんな言葉では伝える術もなく、つぎの言葉が出るのを待つようだ。
 僕について言えば、ふたりの男性が頭のなかで思い浮かぶ。(その一人である)陽の光のなかで授業をする社会学出身の彼は、正義や道徳や社会批判についてとくとくと教えてくれた。野百合学生運動(訳注:三月学生運動とも。1990年3月に発生、全国の大学生約6,000名が台北の中正紀念堂広場に座り込みを行ない、李登輝総統〈当時〉は学生側の要求を受け入れ「国是会議」を開催。台湾民主化に大きな影響を与えた)のすさまじかったあの年、彼は某大学の対外代表を務め、正義感に燃えて演説をぶち、いつも教室では「いまの大学生は……」と顔中を真っ赤にし、流れつづける涙をぬぐうのだった。
 (もう一人である)夜の光のもと命を張って数十年を生きてきた阿傑は、明るく話すことが楽しくて、彼はまた別の種類の先生だなと思っているが、僕を大量のゲイの世界にかんする本を繙くことに「誘い込み」、人に忘れさられる記憶の地図のこまごまとしたものを集めようと誓いを立てさせた。ただ、煎じ詰めれば僕はやはりメモ魔だ。阿傑は腕に頼って生計をたててきたが、ゲイの話になれば、家宝を細かく数え上げるようにこまかく話してくれる。彼の体つきはなまめかしくオネエ的な人で、キャバクラの渉外係の仕事についていえば、ゲイがやれば受けがよく、悩みを解消し、夜の街が好きな人専門の案内人をやっているのだ。

 ●目覚めの第一課

 1950年、屏東(訳注:台湾本島最南端)に生まれた阿傑は、父親は軍人で軍曹、家中は兄弟姉妹あわせて7人、阿傑は上から4番目だった。さいわい軍人の子どもはかなり優遇や減免がされていて、一家は大人も子どもも、食住はあまり問題とはならなかった。彼の(性の)目覚めの経験を聞くと、阿傑はちょっと考えて、自分が高校生のときには男に意識が行っていて、彼らが球技をするとき、疾走する足がまばゆいのを見ると、一種興奮の感じがしたという。彼は自分が子どものころ同性愛に関することはほとんど耳にしなかったが、もしだれかがある種の「動作」をハッキリ示したら、みんなに反感を起こさせたことは覚えている。たとえばそのころ、どの家も毎晩決まって視た中央テレビ2チャンネルの連続ドラマ『旅情』だが、ドラマで「表哥」(訳注:年上のいとこ)を演じた俳優の鄧玨仁が女性っぽい演技をしたところ、社会の怒りを招き、みんなその「おかま」ぶりを非難し、最後に鄧がかならず画面に出て、言行ふるまいは役の演出のためです、と釈明しなければならなかった。
 高校卒業後に兵役に服したが、心に残る記憶がある。阿傑が言うには、当時、軍隊では彼の学歴はまだいいほうだったので、上官に抜擢されて参事(訳注:指揮官の秘書的な役職)になり、(軍の)行政部門(内務部門)の仕事を担当した。部隊の休暇のとき、阿傑の所属班は留守番をし、彼が安全士官(訳注:営舎内の見回り役か?)になり、もう一人の仲が良い親友は外へいって衛士に立った。そのころ彼らは一つの部屋に配置され、阿傑は彼が衛士を終わるのを待っては、暇ですることもないので、約束しては部屋で酒を飲み、幾分酔ったあとしごきあいをしてしまった。その後、この親友はずっと積極的に彼を誘い、ただ一言「外行かない?」と言うと、阿傑はにっこりしてわかったと言い、2名の軍服の肉体は場所を変え、旅館へ行き、セックス関係は1年続いた。
 「彼はゲイだったんですか?」と阿傑に聞くと、彼は心のなかではやはり疑いがあるようだった。
 「もう連絡がなくなったところをみると、違うかもしれないし、そうかもしれないし。ずっと長いあいだ彼とは会ったことがない」
 「でも彼がずっとあなたを誘ってたんじゃないですか?」
 「もしまたやってたら、捨てられてたよ。別れてよかったよ」。阿傑はうなづいては「あのときほんとに捨てられたんだよ」と言った。

 ●台北へ行く

 除隊後、阿傑はまだ弟や妹の年も小さく、家を助ける必要もあったので、彼は北上し、かつて旅行にきた記憶のある台北へやってきた。南京西路の新光百貨店の4階へゆくと、「銭福楼」というレストランでボーイになった。キャバクラから来るお客が、食事のあと興に乗って彼と雑談をして言うには、キャバクラの給料は高いぞ、三倍だ、おい、行かないか? 6か月後、阿傑は月給1600元のレストランを捨てて、東へ行き、南京東路の「愛の舞」というキャバクラで彼の「案内人人生」(訳注:案内人は、繁華街で客引きしたり、客の雑用全般を勤めたりする仕事)を始めた。ホステスがカウンターにいるこのキャバクラで、稼いだ金は実家の経済環境を改善するのにあて、彼は自分は薄い板で壁を仕切った学生用シェアハウスの一室をわざわざ借りて、多くの金を節約したのだった。
 ホステスたちは阿傑と相性はとてもよく、ふだん外へ食事に出るときはいつも彼に差し入れをしてくれたり、ホスト店(原注)へ揃って出かけるときも阿傑を連れていってくれた。あるホスト店のマネージャーは阿傑の「人脈」を見ると、彼に「鞍替え」を勧め、君がいればホステスさんたちがこぞってやってくるよ、と言った。阿傑がホスト店ですごく心に残ることは、あるホステスが男性客を連れてホスト店へ二次会に来たところ、その男性客が阿傑に好意を示してこっそり彼に触って、あとで一緒に出ようよ、と約束したことがある。

 原注 Friday そのころの、男性が一緒に座ってお酒を出してくれる店。「金曜日レストラン」(星期五餐庁)とも言う。

 阿傑は1981年ごろ、「土狼宮(パレス・ハイエナ)」というホスト店へ移って働いたが、ここはとても特色のある店で、阿傑は独特の声を出した。「南京東路と中山北路の交差点で、天津街までは行かないの、光華ホテルの12階、ここは天井のルーフウィンドウがとてもきれいで、雰囲気があって、夜はウィンドウを全部開けて、星が見えるのよ----」。土狼宮での費用は、座ると1500元で、阿傑はそのうち900元をとる。ドアを入ると、イケメンのボーイがずらりと並んで「依拉夏依瑪斯(訳注:「いらっしゃいませ」の音写)」「歓迎光臨」と口々に叫ぶ。お客が席に座るとまずお茶が出て、ボーイがお酒は召し上がりますかと聞く。いらないと言えば、まず麻雀で遊ぶ。初めてではないお客は、おや今度は誰に会おうかな、今度はなにをもらおうかな、と言う。ほかの女性を一緒につれてきた人はもっと面白い。男性にはみな1、2、3、4、5と丸い紙の番号がついていて並んで立っているので、番号を覚えておけば、名前を覚える必要もなく間違いなく覚えておける。3分後にはその人が来て、お酒を飲んで遊び始めるのだ。

 ●梯子酒

 人のための案内人をしている阿傑だが、青春の困惑は彼の心のなかでゆっくりと大きくなり、だんだん自分の性的指向がハッキリしてきた。そのころあいかわらず警察が勝手に営業のいちばんピークの時間帯を選んで立ち入り検査をしたり、ドア口に立っていた時代だが、店のなかの客がこっそり彼に、南京東路に一軒の「星舫(訳注:星の舟。舫は二叟式の舟)」というゲイバーがあると教えてくれた。そこはものすごくおもしろい場所で、いつも男がキャーキャーさわいでおもしろかった。ドアをはいると、何人かのすごく腰をクネクネさせている男たちが、目を細め甘えた声で彼に向かい、ささめくように「あら、あんた来たのね〜」と言っていたことをはっきり覚えている。阿傑はものすごく楽しく、とてももの珍しく、それから、それから、記憶のなかの百楽池(ゲイサウナ)の、すてきな男たち……。
 1985年、もとの華泰サウナ付近のゲイバーが、営業して1年ぐらいあとで、家賃の更新が来て、民権東路と中山北路の交差点に引っ越した。このとき阿傑はいまでもゲイコミュニティでの伝説となるぐらい盛名を誇ったゲイバー「大班」に友人と共同出資することにし、同時にそこの渉外担当になった。
 そう、この、40歳目前の、ナンパ上手で、酒飲みで、Funkyや小熊村に行くようなゲイ(聞いてる、おまえに言ってるんだよ!)が、この時は少女のような憂鬱に沈んで、小鹿がドキドキするように、不安げに、はじめていまなお記憶に新しい新天地に足を踏み入れたのだ。
 みんながビクビクしながら過ごしていたあの時代、大班にはとても太い後ろ盾があった----江媽(チアンマー、江ママ)だ。役所の裏関係によく通じていて、彼は一人の法律顧問を招き、その弁護士の登録証をコピーしてカウンターに立てた。それでいろいろな条件がうまくゆき大班の商売はとても繁盛し、お客はチップをあげるということには慣れてなかったけど、阿傑の給料は月に2万8千元はあった。だが2年後、江媽が出資を引き上げ、大班も営業を終えたのだった。

 ●赤と黒
 
 このとき阿傑は荷物を片付けて、ネオンの中へと踏み出した。天祥路の、きれいな螺旋階段のある「ロミオ」にしけこんで4か月をぼーっと過ごし、つづいてまた別のホスト店----「夜猫族」へと移って幹部になった。この店で彼は3年つとめ、1989年株価が1万1千元に達し、大天井、まさに台湾経済の高度成長期であった。「夜猫」も当然その余波で、「大社長さん、いいお酒をご注文〜〜」と、聞き飽きないマイクの声がつづき、阿傑の口ぶりはじつに楽しそうだった。1千元入れば彼は600元をとり、1か月の最高記録は彼への個人チップを除いても25万元が入ってきた。阿傑はそのあとすごく近い道でさえタクシーに乗るようになった。
 40歳のころ、阿傑はそんな日々にくたびれ果てて、ちょっと落ち着こうと思った。彼はゲイバーで彼より十何歳若い男の子と知り合い、二人はだんだん深い仲になった。男の子は引っ越してきて阿傑と同居もした。「このとき私は大暴風にぶつかったんだよね」。阿傑はとくに強調した。
 「たった3年で数百万元稼いだよ。そして男と知り合った。まあ友人が紹介してくれて知りあった、ってところ。私は、探してた人とやっと知り合ったと思ったよ。うちらのような商売をやれば、稼ぎは比較的多くて、そのころ私は金をベッドマットとベッド板とのあいだに隠してたんだけど、彼は見つけちゃったんだよ! 私はそのころ彼と一緒にいるようになってずいぶんたったし、ゲイバーにいるときの感じも悪くなかったから、そのころ私はまた(ゲイバーで)仕事するようになって、暇なときは二人でゴロゴロしてたの」
 もともとその人はセールスをして昼間働いていた。夜は阿傑がいなくてものすごく退屈なので、あっちこっちひっくり返して、阿傑がベッドマットのしたに隠していた通帳やハンコを見つけ出し、そうして阿傑は600万元貯金したのに、彼に400万元を盗まれ、良心があったというべきか200万元は残し、そいつは逃げてしまった。阿傑が発見したとき、もう少しで卒倒しそうだった。あちこち彼を探し、ポケベルで彼を呼んでも、返事はなし。阿傑の心には見当がついていた、あいつはこの世から蒸発したんだ、と。
 「400万元ですよね、しかも十数年前の400万。きっと長いこと泣いたでしょ」
 「まあいいさ、そりゃ心のなかはクソッタレだけど、彼が200万残してくれただけでもよかったよ」
 「彼はあなたの年収2年分を持っていったんですよね」
 「2年分のカネを持っていったね。長いあいだの成果を失くしたよ」
 「あとで彼とまた会いましたか?」
 「いいや。彼は彼なりの報いを受けたと思うよ。私が言えるのはそれだけ」
 「この事件は、あなたになにか影響を与えましたか?」
 「たぶんね。私にその後も影響あったね。人を好きにならなくなったよ」
 それからの日々、長年、酒を飲み夜動いてきた阿傑は実家に帰って2年間休養することに決め、また夜猫に戻ってきたときは、すでにかつての好景気はなく、収入もほとんど以前の半分になった。1年3か月働いて、阿傑は民生北路の角の「カモン」という店に投資したが、のちにほかの出資者と意見があわず、それぞれ別れることにした。「芸術貴族」(店名)二代目店主の林老人が阿傑を働かせたが、それも長くは続かなかった。阿傑の友人は彼に年なんだからもう酒を飲むなと注意し、健康食品の直販の仕事へ転職することを勧めた。直販は利益は多いが、使う精力は想像以上で、4、5か月後、阿傑はまた「芸術」へもどり、その後もさまざまな仕事を転々とした。露天商、料理店、バー……このとき阿傑は50歳になっていた。

 ●はるかなる青春の道 

 阿傑は現在、警備員の仕事をしている。おもにもう酒を飲みたいとは思わないからだ。あいかわらず夜の光になじんでいるので、夜7時から朝の7時までの夜勤に入るのがちょうどよい。60歳に近い彼は自分の暮らしをマネジメントすることや寂しいときをやりすごすことを身につけた。阿傑がいうには、ゲイは年を取ったら哀れなものだ、自信をなくして、(ゲイシーンに)すっかり出てこなくなる。たとえ条件はよかったほうだと自分でも認める阿傑でも、サウナでは、自分に対する需要は「縮小」する。つまり「相手の好みを見極めなきゃだめだよ。サウナのスタッフに先に聞いてみるの。彼らは(客のことを)よく知っているから」(訳注:サウナの店員は常連客の好みをわきまえているものらしい。目をつけた相手が年上好きかなど、脈がありそうかどうかスタッフに聞いてみるのだ)。阿傑は笑った。彼は20歳代が好きなのだ。
 2007年5月、高齢セクマイグループは世代合同食事会をしたが、グループメンバーははじめて阿傑に会ってみなすごく驚いた。率直に言って阿傑は本当に若く、言うほどの年には見えなかった。阿傑は、自分のとっておきのお手入れ術は青春の身体から取った「ザーメンパック」よ、それでいまのお肌ができたの、と大喜びでみんなに教えてくれた。みんなは彼にからかわれてすごく楽しそうだった。食事をするあいだ、僕は阿傑のそばに座ったら、彼はなんどか僕に耳打ちした。「このおじさんたちと話すのは面白いわ、しゃべってる言葉がすごく笑える」。彼はその日すごくノっているようで、ずっと僕たちに料理を注文しては食べるよう言い、「あなたたちが注文しないと、アマ(第1話参照)はお金がこんなに多くて、彼はお金に押しつぶされて苦しいんだから、みんなも助けてあげて」と言った。では今度は彼が音頭を取って、ハイアットで食べましょう。
 阿傑を見ながら、彼をインタビューしたとき、彼がはじめてゲイバーへ行き、そのあと似たような仕事を選び、楽しく、解放された気持ちになったと言ったことを思い出した。思えば、僕もすごくぼんやりした人間で、われわれのような者の一生は、廃墟や霧のなかでなにかを探し求めているようで、僕はなんだか阿傑がすごく軽々と人の間を行き交い、あちこち抜けては「ここよ!」と言ったかと思うと、「そこにも!」と言い、そして誘うような視線を生まれたばかりの僕のような若造へ投げかけ、やってきてはとてもやさしく言うのだ。「早くあそこへお行き。坊や、早く〜」。僕を見て、彼は慈しむように笑い、あるいは口元をほころばせてなにか思ったように、そして見つめてたしかめるように言うのだった、「ほら、おもしろいって言ったでしょ」と。
 食事会のその日、阿傑は興奮してドキドキしながら、自分の一生は毎晩月光のなかを歩んできたんだと回想し、お酒が胃に納まったあとのトロンとした様子だった。そんな様子だと人に(ゲイだって)疑われなかったですか? 「時には同僚が疑ってたけど、私はもちろん言えなかった。生きるためには言えなかった」。でも、「まさに私はこんな様子をしたから、みんなにウケたり、お客は私のことはすごくかわいらしいと思って、私も三枚目になってジョークを言うの。相手が喜んでくれるから、おもしろかったわ」。それはまるで彼が20何歳のときの青春時代のようだったが、いろんな男たちとの出会いも、彼の苦渋の人生にカーニバルのような光を添えていることだろう。
 案内人・阿傑の人生は、なんともかろやかで、まるで飛んでいるようだ。


 ●インタビューを終えて----切実な歴史の印影
 インタビューが終わって紅楼を離れると、僕の頭の中に突然イメージが浮かんだ。もしそれを言うなら、ひどく泣いて、道で迷子になっている男の子だ。阿傑は男の子に手ほどきをし、歴史のなかで少しずつその人にいろいろなものを加え、それから男の子はこの青春地図を持って、ゲイの歴史をちょっとずつイメージしてゆくのだ。僕は心から希望する----われわれがこうした人間界の事象にまじめに向き合い、ちょっとうっかりしているとすぐメインストリームの語りに押し流される足跡(それはどんな屈辱あるいは栄光だろう?)を、ハッキリと人々の心のうちに刻みこむことを。

翻訳協力:pablo、クッキー
 

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