オフェリアの花のなかなる死顔をひと目みにゆく沈まぬうちに 杉﨑恒夫
【杉﨑恒夫 歌集未収録作品を読もう・その1】
オフェリアの花のなかなる死顔をひと目みにゆく沈まぬうちに (上野にてエヴァレット・ミレーを観る)杉﨑恒夫「かばん」1998年4月号
ぼくも何年か前に観に行きました。エヴァレット・ミレー『オフィーリア』。
『崖の上のポニョ』と夏目漱石の文脈で興味をもって、これはひと目観ておきたいと思って駆け付けたのでした。場所は渋谷のbunkamura。
『オフィーリア』は1998年にも東京で展示されていたらしいので、杉﨑さんはそのときに観たんでしょうね。
さてこの歌、最初に気になるのは〈沈まぬうちに〉です。
絵を観る機会を逃すことをオフィーリアが川に沈んで見えなくなってしまうことに喩えているんですよね。
絵の中にというか『ハムレット』の作品世界の中に入り込んだような視点でありながら、現実の出来事(絵を観に行く私)として詠まれています。
〈沈まぬうちに〉にはもうひとつ「自分が死ぬ前に」という意味が込められています。なぜなら〈ひと目みにゆく〉だからです。
〈ひと目〉という言葉が使われるのは「ひと目会いたい」のような、「一度でいいから」という気持ちが高まったときです。二回目以降がない(なさそうな)ときなのです。
よく有名な絵画が日本にもやってきますが、次に来るとしたら何年後になるかわからないし、もしかしたら二度と来ないということもありえます。
生きている間に『オフィーリア』の日本での展示がもうないとするなら、これが最後の機会となります(海外に行く予定がある人は別かもしれないですが)。そう考えると〈沈まぬうちに〉を「死ぬ前に」と解釈できます。
沈む(死ぬ)のは未来の自分なのです。
最後に〈花のなかなる死顔〉について。
『オフィーリア』を観ればわかりますが、あの絵のなかではオフィーリアさん、ギリギリ生きています。たぶん。でもどうしてこの歌では〈死顔〉なんでしょう。
これも作品世界の中に入り込んでいる、ということで説明はいちおうできるんですが、類化性能をもうすこし伸ばすと、イメージされるのは棺桶です。
〈花のなかなる死顔〉ですから、そんなに無理はない類推です。仰向けで花に囲まれている状況があるとしたら棺桶のなかです。
つまり『オフィーリア』という作品に棺桶で眠る死者を重ねているのです。だから〈死顔〉なのだと考えます。で、くりかえしますがその死者は未来の自分でもあります。
歌の意味内容をきわめて凡庸に言い換えるなら、
死ぬ前に一度でいいからミレーの『オフィーリア』を観にいきたい!観に行く!
……みたいな感じでしょうか。
「このチャンスを逃したら~」的な意味が含まれていることを考えるとこの歌はちゃんと展覧会詠なんだなって気がしてきました。
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