ねこをいだく

BFC4応募作品です。本選には進めませんでしたが楽しかったので残しておきます。


 ねこが打ち上げられていた。うつ伏せにぺったり、横向きにぺっとり。一匹、二匹、あっちにこっちに。白い波が寄せては引いて、しゅわしゅわ迫っても微動だにしない。
 リュックサックを背負い直したシュウは、海風にあおられた髪に思わず目を閉じた。かかるくせっ毛を手で押さえて、一歩、一歩と足を進める。靴の模様はついた先からかき消され、しゃがみ込んだ時にはねこたちと一緒に世界から取り残されていた。
 ここが砂漠だったら、あるいは雪原だったら迷子になるのだろうか。眼前には空を溶かした潮水、遠く後方には縦に長い直方体の群れ。残念ながら方向感覚を失う要素は見当たらなかった。
 ねこの背で風が走る。祖父からもらった写真の草原を見て、シュウは惹かれるように手を伸ばした。しゃがみ込んだ拍子にポケットの中身が腿に当たったが、それには全く気づかなかった。
(……ぬくい)
 膨れて、しぼんで。繰り返す柔らかな皮の下からじんわり命の音がする。すっかり乾いた毛並みから白い粒がぱらぱら落ちた。長いことこのままでいたのだろうか。けれどおかしい。シュウは押し当てていた手をそっと頭のほうへ滑らせた。
 間違い探しだったら三番目までには誰かが丸をつける。弘法も筆の誤り、猿も木から落ちる、ともいうから現実にあり得ないとは言えないが――
「……ない」
 ぽろりと零れた言葉を波がさらう。指で撫でた首筋には穴がなかった。
(まさか)
 シュウは信じられず、二度、三度と指を往復させた。けれど何度確かめても逆らった毛の隙間を除いてみても、そこにはなだらかな皮膚が続くだけで穴どころか切れ込み一つ見当たらなかった。
 鰓がない。
 シュウははたと立ち上がり、足早に他のねこの元へ行く。茶、白、三毛、黒。どのねこも一様に鰓はなかった。
(本当に)
 だから水辺で倒れていたのかという納得と同時に、その事実はシュウの背筋をなぞりあげ、肌を粟立たせた。
 ここにいるのは、昔のねこだ。
 シュウは辺りを見回した。誰もいない。まだ、誰にも見られていない。まず大きなねこを拾い上げて、どうしようか迷って腕にかける。この数を抱っこするのは到底できず、リュックは引越の荷物で一杯だ。一匹くらいなら上に重ねてもいいだろうか。四匹目を拾ったところでシュウは考える。
(昆布みたい)
 だれんと伸びたお腹と後ろ足が、子どもの頃に手伝った海藻集めを思い起こさせた。パーカーの帽子に一匹、トンネルのように両サイドが空いたお腹のポケットに一匹。一体どういう仕組みなのか、器に合わせてねこは形を変えている。結局左腕にもう二匹乗せたところでシュウが立ち上がると、砂浜は元の静けさを取り戻していた。ビル群から見えない場所を探して、シュウはぽてぽて歩き出す。
 水に浸かる大陸が増えて人々が生き物を諦めなければならなくなった頃、ねこは泳げるように進化していた。それまで注いでいた愛情を思えば驚くべきことに――余裕の消失を鑑みれば当然とも言えたが――最初のねこが海に潜って魚を取ってくるまで、人間は誰一人としてそれに気がつかなかった。一年ほどもすれば全てのねこが水中と陸上での生活を両立させていた。肺を残したまま、ちゃんと鰓を備えていた。 
 人々は諸手をあげて喜んだ。再びネコに餌を与え、時には魚を貰った。ネコは荒んだ人々の心を埋めた。けれどネコはもう、鳴かなかった。
「穴が空いたらば、しょうがねえなあ」
 祖父はそう言ってよくネコの首を撫でていた。子どもの頃にはまだわずかにいたのだそうだ。外では決して口にしなかったが、祖父は大層ねこの鳴き声を惜しんでいたようだった。祖母と初めて言葉を交わしたきっかけだったらしい。
(どんな声なんだろう)
 シュウはぷかぷかする穴を指でつつきながらいつもそう思っていた。
 このねこたちを見つけたら、人々はきっと手にかけるだろう。ねこが生きる場所は陸上にしかない。寝るにしても餌を取るにしても全て人間と同じ。そしてねこは、すぐに増える。それはシュウも知っている。
(――行こうか)
 どこか、誰にも見つからない場所に。身体のあちこちがほかほかする。ネコはこんなに温かかっただろうか。思い出そうとしたが、シュウの頭にはひとかけらの温度も浮かんでこなかった。昨日から全部空っぽになってしまった。
 シュウはそっと息を吐く。帰りを待つ人がいなくなり、役所に連絡したら瞬く間に手続きが終わった。居住スペースは二人用から一人用に振り替わり、気づいたらシュウは、随分小さくなった祖父をポケットにぽつねんと立っていた。
(ねこよりも軽かったんだな)
 人の命は重いと習ったはずなのに、今シュウの足は何の枷も受けていない。少しだるくなってきた腕からはふんわり磯の香りがする。あと少し時間か、あるいは場所が異なれば。そう考えるのは無意味だと分かっていた。もらった骨はどの部分だったろう。声くらいなら届くだろうか。そんなことも、ないか。
 シュウはねこを抱え直して足に力を入れた。吹きつける風が汗ばんだ肌に心地良い。砂浜はすぐに均されていく。

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