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時代

『ママいまどこですか?』
『ヤマさんは?』
『店の前です  臨時休業って貼ってあります』

突き当たりは、八幡さんの東門。
土塀越しの鬱蒼とした木々が、周囲の高層ビルの明かりを隠している。
そのせいかこの辺りだけ、特に夜が深いみたいで、頭上にはクッキリと月が輝いていて、よく見れば星も見える。
まるで月夜の天幕を張ったような小径。

そこにひっそりと佇むママのお店は、コンクリートの壁で、高い所に小窓がひとつあるだけの土蔵のような建物。
灰色の素っ気ないその外観に反して、歴史のたっぷり詰まった古材で出来ている玄関のドア。
軒先に、ぼんやりした灯りが点っているだけなので、良く見ないと分からないけど、庇を支えるには頑丈過ぎる柱に、『yubi』と小さくこの店の名前が彫り込まれている。

「いいわよ、何も出来ないけど。」

ポツンとロックグラスが置かれているカウンターの、その足元にギター。

「歌ってたんですか?、聞きたいなあ。」

「高いわよ。」

「指切りを聞かせて頂けるなら、1万円だします!。すみません!安かった。」

「ばかね。」

「時々一人でカラオケ行って歌うんですよ、ゆびきり。下手くそだけど、へへ。」

「ありがと。」

よくあるスナックバーの内装の位置関係を、逆転させたような店内。
細長い客席の、突き当たりにトイレ。
その横の、ドアを開けて入る厨房はゆったひと広い。
黒光りする一枚木のカウンターのスツールは10脚だけ。
そこに腰を掛けると目の前は、まるで古風な洋館の書斎。
彫刻格子の洋酒棚の上下にはレコードがびっしりと並んでいて、その中央には大きなレコードプレイヤーとアンプ。
左右には、昔々の小学校の視聴覚室にあったようなスピーカー。
レコードは古いジャズがほとんどだけど、懐かしい歌謡曲なんかも有る。
カラオケの無い、ここは特別な店。

「雨、降ってる?」

「いや、もう止んで月が出てます。
ママ、たこ焼きでも食べます?買って来ましょうか?」

「ううん、いい。」

「じゃ、ちょっとだけ一緒にビール飲みせんか?」

「そうね。」

髪を下ろしているママを、初めて見た。
ママがいつも、どんな髪型をしていたのかを覚えていない自分にあきれる。

「ギター弾かないんですか?。」

「…  何か、かける?」

「うん。じゃあ、中島みゆき!。無いですよね~。」

ある、と少し微笑んだママが、レコードに針を落としている。
長い髪をのせた背中って、それだけで哀しいのかもしれない。


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