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【明治神宮外苑の記】

外苑の4列の銀杏並木が青山通りに接するところ、明治神宮外苑青山口の隅にひっそり高さ4メートルの石碑が建っています。
大正15年(1925)10月、計画から14年(大正12年9月の関東大震災により一時中断)に及ぶ外苑の造営が完了しました。明治神宮奉賛会(正会員10万7千人・賛助員700万人)のもと、国内外からの献金、献木、全国の青年団による勤労奉仕による明治神宮外苑造営の大事業を記念する石碑です。外苑造営の由来と施設の大要が記されています。
「外苑ノ曠遠開豁ナルニハ優游ノ中穆然トシテ恩徳ノ深キヲ思フモノアラン」と記されている様な、外苑本来の役割を思い出す必要がないでしょうか。

【明治神宮外苑ノ記】現代語訳


 「明治神宮外苑ノ記」
明治四十五年七月明治天皇遽ニ不予ニマシマシ、尋デ大漸ニ渡ラセラルヽヤ、上下憂懼措ク所ヲ知ラズ、二重橋外日夜ヲ連ネ市民ノ沙上ニ拝跪シテ御平癒ヲ祈ル者万ヲ以テ数フ、其ノ三十日遂ニ崩御アラセラルヽニ及ビ、億兆悲慟天地為ニ黯澹タリ、
明治45年7月、明治天皇が急にご病気となられ、次いでご病状が次第に重くなられると、国中が大変に心配し恐れた。宮城二重橋の前には1万もの市民が日夜ひざまずいて拝み、ご平癒をお祈りした。7月30日、遂に崩御なさると万民が悲しみ泣き叫び、国中が打ち拉がれた。

八月ノ初メ東京市民ハ葵藿向日ノ至誠ヲ披瀝シ、山陵ノ地ヲ帝都ニ卜セラレンコトヲ内願ス、其ノ桃山ニ決定セラルヽニ及ビ、更ニ神宮ノ奉祀ヲ懇請シ、帝国議会モ亦其ノ議ヲ決セリ、是ニ於テ政府ハ神社奉祀調査会ヲ置キ、委員ヲ挙ゲテ審議セシメ、神宮鎮座ノ地ヲ郊外代々木ニ相セリ、
8月の初め、東京市民は先帝に対するこの上ない忠誠心を表し、陵墓の地を帝都・東京にしてもらうことを願っていたが、京都の桃山に決定されると、今度は神宮に明治天皇をお祀りすることを請願し、帝国議会もこれを決議し、政府は神社奉祀調査会を設置し、委員に審議させて神宮鎮座の地を東京郊外の代々木に決定した。

大正三年四月昭憲皇太后崩御アラセラルヽニ及ビ、合祀ノ事ヲ治定アラセラレ、明治神宮造営局ヲ置キ社殿ヲ営マセ給フ、然レドモ国民孺慕ノ心ハ之ヲ以テ足レリトセズ、明治神宮奉賛会ヲ興シ、神宮外苑ヲ設ケ、以テ記念ノ事業ヲ永遠ニ遺サントス、
大正3年4月、昭憲皇太后が崩御なさると、お二方の御神霊を合祀することが決定され、内務省に明治神宮造営局を設置し社殿を造営させた。しかし国民の先帝を慕う気持ちはこれで満足せず、明治神宮奉賛会を立ち上げ、明治神宮外苑を造営し、これにより明治天皇を記念する事業を永遠に遺すこととした。

事 天聴ニ達シ畏クモ御内帑金三十万円ヲ賜フ、天下翕然トシテ貲ヲ献ジ、遠ク海外ニ在ル者亦争ヒテ之ヲ賛ク、是ニ於テ衆議旧青山練兵場ヲ以テ外苑ノ地ニ擬定ス、蓋シ此ノ地ハ大帝屡観兵ノ式ヲ行ハセラレ、彼ノ憲法発布ノ慶典及ビ日露戦役ノ凱旋ニ当リテ其ノ儀特ニ厳粛ヲ極メサセラレタル遺躅ヲ留メ、且ツ大葬ニ際シテハ亦実ニ葬場殿ヲ置キ給ヒシ所ナルヲ以テナリ、
この事業をお知りになった大正天皇は、畏れ多くもお手元金から30万円をご下賜くださった。国中の国民はこぞって金銭を献じ、遠く海外に居住する者も競う様にこの事業に参加した。そこで協議の結果、旧青山練兵場を外苑の地とすることが決定された。この青山練兵場という地は、大帝がしばしば観兵式を行われ、憲法発布の祝典や日露戦役の凱旋の際に特別に厳粛な儀式が行われた地であり、更に大喪の儀に際してはまさに葬場殿が設けられた地であることから

奉賛会ハ先ツ政府ヨリ此ノ地ノ提供ヲ受ケ、進ミテ隣接ノ地ヲ購ヒ合セテ十五万五千坪ヲ得タリ、乃チ工事ヲ造営局ニ託シテ、地域ヲ修治シ、林泉ヲ布置シ、葬場殿ノ故址ハ樹ヲ植ヱテ之ヲ標ス、其ノ前方ニ聖徳記念絵画館ヲ建テ、大帝並ニ皇太后御一代ノ重要ナル御事蹟ニ関スル画幀八十ヲ館中ニ掲グ、多クハ御事蹟ニ縁故アル縉紳若クハ公私団体等ノ献納ニ係リ、当代名家ノ手ニ成レルモノナリ、苑ノ東辺ニ憲法記念館ヲ置ク、館ハ原ト赤坂仮皇居ニ在リ、大帝親臨シテ帝国憲法及ビ皇室典範制定ノ議ヲ重ネ給ヒシ所ニシテ、公爵伊藤博文ニ賜ヒシモノナリ、苑ノ西辺ニ競技場・野球場・相撲場等ヲ設ク、起工以来十閲年、其ノ間総裁伏見宮貞愛親王殿下薨去アラセラレ、閑院宮載仁親王殿下後ヲ承ケテ此ノ事業ヲ完クシ給ヘリ、而シテ国民上下洪恩ノ万一ニ報イ奉ラントシ、至情ノ溢ルヽ所或ハ労役ニ服シ、或ハ貲財ヲ献ジ、但後レンコトヲ是レ懼レ、人ヲシテ遠ク仁徳天皇ノ古ヲ想見セシムルモノアリ、嗚呼大帝ノ盛徳大業ハ誰カ仰ギ奉ラザラン、皇太后ノ淑範懿行ハ誰カ慕ヒ奉ラザラン、今此ノ苑ノ設ケ一ニ仰慕ノ微意ヲ寓セリ、
明治神宮奉賛会は、先ず政府よりこの青山の地の提供を受け、更に隣接する土地を購入し、合わせて15万5千坪を得た。そして造営工事を内務省明治神宮造営局に託して、土地を造成し、それに林泉を設置し、葬場殿の置かれた跡には楠の木を植えて目印とした。その前方に聖徳記念絵画館を建て、大帝と皇太后御一代の重要な御事績に関する絵画80作品を館中に掲示すこととした。その多くは御事績に縁故がある高位の者、もしくは公私団体等の献納によるもので、当代一流の画家が作成する。
外苑の東側には、憲政記念館を配置する。それは元は赤坂仮皇居内にあり、大帝が御臨席され帝国憲法及び皇室典範制定の協議を重ねた建物であったが、公爵伊藤博文に下賜されたのであった。外苑の西側には、競技場・野球場・相撲場などを配置する。起工以来10余年を数え、その間明治神宮奉賛会の総裁・伏見宮貞愛親王殿下が薨去され、閑院宮載仁親王殿下が後任となられこの造営事業を完遂なさった。そうして国民こぞって大帝から受けた大恩に万分の一でも報いようと、誠心誠意の心が溢れた結果、造営の勤労奉仕であったり、金銭を献じたり、ただ後れをとることを恐れたのであった。聖帝として名高い遠い古代の仁徳天皇の御代を思わせる。大帝の聖徳と大きな事績は、敬わないものなどいないだろう。皇太后の女性の鑑となる様な徳行はお慕いしないものなどいないだろう。今この外苑を新たに建設することでささやかながら大帝と皇太后を敬いお慕いする志の証としたい

若シ夫レ今後来リテ神宮ヲ拝スルモノ、内苑ノ崇高森厳ナルニハ俯仰ノ間粛然トシテ威霊ノ尊キヲ感ジ、外苑ノ曠遠開豁ナルニハ優游ノ中穆然トシテ恩徳ノ深キヲ思フモノアラン、内外両苑相須チテ神域ノ規模是レ備ハリ、神人相和シテ国運愈隆昌ナルヲ致スニ至ラン、玆ニ外苑工事全ク唆リ、之ヲ神宮ニ奉献スルニ当リ、事ノ顛末ヲ略叙シテ後人ニ告グト云爾
さてこれから先の将来、明治神宮に参詣に来る者は、内苑においては崇高森厳(すうこうしんげん・極めて偉大かつ厳粛な様子)であることに、つかの間心が引き締まり、尊き御威光を感じることだろう。外苑においては曠遠開豁(こうえんかいかつ・遥か遠くまで展望が広く開ている様子)であることに、心をゆったりさせのんびりと楽しむことで和らぎ親しみ、深い聖徳を感じることだろう。性格の異なる内苑と外苑の相乗効果で明治神宮は成り立っているのである。神も人も協力し我が国がより一層繁栄する様になることだろう。ここに外苑の造営工事が全て完了し、これを明治神宮に奉献するにあたって、造営事業の始まりから終わりまでの経緯を簡単にまとめ、後世の人々に伝えるものである。

  大正十五年十月
   明治神宮奉賛会会長正二位勲一等公爵 徳川家達撰
   



「明治神宮外苑之記」碑
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参考『澁澤栄一傳記資料』
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