2023/02/13 ただよう、という過ごし方

久しぶりの投稿となってしまいました。続けることは難しいですね。毎日とは言わずとも、週1くらいではふと思ったことを忘れる前に書き留めておきたいものです。

僕は昔から、自分がどのコミュニティでも、どっぷり浸かることができないことに悩みがありました。
例えば、中学生の時は、当時の流行りにどうしてもついていけず、友達を作ることは困難でした。孤独な中学生時代、というほど深刻ではないですが、あまり心地のいい時代ではなかったです。
高校に入り、好きな音楽の話ができる軽音部のメンバーと仲良くなりましたが、音楽の嗜好はやはりズレており、少し浮いた存在でした。もちろん大学でも。
大学院に進学し、好きなブリティッシュパブを見つけた時は、好きなだけ音楽の話ができました。それはとても心地よく、今も時々お世話になりますが、常連さんも含めたコミュニティにどっぷりとはなりませんでした。

家でもそうです。4人家族で、僕と僕以外はなんだか毛色が違います。好きなことも、考え方も家族と比べるとあさっての方向を向いており、浮いています。「我が家の異分子」。そう、自称しています。
たしかに、古い音楽が好きで、映画が好きで、そのスクリーンに映し出されるお洋服と建物が好きで、そこから遡ってナビ派の絵画に関心を持ち、一方で、靴磨きと花と、お茶を愛する人を僅か4人の中から探して、同調を、共感をあらゆるところで求めようとすることが無茶なのです。

そんな靴磨きの世界でなら、どっぷり浸かれるのかと思ったのですが、いざコミュニティ内に行くと何かが違うのです。ある程度のところで危険信号がなってしまう。行きすぎるな、と僕の内側の何かがいうのです。30年近くそんなことを行く先々で繰り返しています。

で、です。どこでも異邦人になった気に浸っている自分を諦観し、被害者面している自分によしよしと歪んだ自己愛を示しているのですが、今日、憑き物がとれたように楽になりました。朝、母に言われた「ただよう」という言葉で。

僕らって、無意識にどこかに所属していますよね。例えば、日本人とか、〇〇社の社員とか、〇〇校の生徒とか・・・どこかに属することを前提としている生き物だと思うのです。人間に限らず、他の動物も同様かと。蜂や蟻も組織的であると聞いたことがあります。
しかし、他の動物は知りませんが、人間は大抵の組織から離れることができます。極論、家族であることから離れることもできるでしょう。

ならば、無理に〇〇に所属している自分、と所属先で自分を定義しようとしなくてもいいのではないかと考えたわけです。いろんなところにフラッと顔を出して、気乗りしなければ、その時は立ち去る。そのような「ただよう」生き方しか僕はできないのだと割り切ってみようかと。自分であることをやめることはできませんからね。

ただ、これはその時いる組織や他人をぞんざいに扱うことではないと、ここで強く主張します。もちろん、目の前でよくしてくれる人にはまっすぐ接します。少し真面目過ぎるくらいで丁度いいと思います。品をもって、丁寧に。

自分が気楽でいられるようにするためのおまじないです。
「おちつけ」と同じくらい大事にしていこうと思います。

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