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「最善」という言葉の重みを考える。



Twitterで、ジャーナリストの安田菜津紀さんが、次のようなツイートをしていました。

これに対しては
かなり共感するリプライも多いし
わたしのまわりでも
リツイートしている人や、しっくりきた!と話す人は多いです。
でも、わたしはこれを読んで
「うーん…」と思ってしまいました。

なぜ、そう思ったのか、ということを
少し書きたいと思います。

その前に、
「あなたのその時の行動は、全て最善のものだった」という言葉に救われた人はいるだろうし
今回安田さんのツイートを読んで救われた気持ちの人もいるだろうし
わたしはそういう人たちのことを否定したいわけではありません。
また、安田さんをはじめ、「あなたの行動は最善だった」と声をかけてきた人、かけたいと思っている人たちを批判したいわけでもありません。
そのことを踏まえた上で、
わたしの思いを、読んでいただけたら幸いです。

*・*・*

わたしは
「最善」という言葉をとても重い、と捉えています。

性暴力被害にあったことのある人が皆、その時のことを振り返ったとき、自分の行動は最善だったと思えるでしょうか。「最善だったよ」と言われて、すんなりその言葉を受け止められるでしょうか。
もっと良い選択があったのではないか、違う選択もできたのではないか、そう思う人も、いるのではないかと思います。

そして、
「あなたは悪くない」という言葉すらも
受け止めることが難しく、自分を責め続けてしまっているケースも、あるのではないでしょうか?
「悪くない」とすら思えないで苦しんでいる人に、「最善」は重すぎます。わたしは、そう思います。

そういう人たちが、この言葉を聞いた時どう思うのか…どう受け止めるのか、受け止められるのか…、
その部分が考えられていない、置き去りにされたまま、言葉だけが絶賛されている気がして、不安になります。
微妙な気持ち、受け入れがたい気持ち、苦しくなったり余計に辛くなったり…そういう思いをする人がいるかもしれないことも、どうか想像してほしいと思います。

それから
ひとつ危惧していることがあります。
それは、「最善」という言葉が
SNSなど様々なところで使われるようになることで、
“被害者に最善の選択を求める無言の圧力”にならないかということです。
そうなってほしくない、と思います。
頭では、最善の選択がどれか分かっていても、どうしてもそれが選べず、違う選択をしてしまうことも、
最善だと思って選んだ瞬間、それが違うと気づくことも
いろんなことがあります。
だけど、
「最善」じゃなくても、被害にあった人が何も悪くないということも、
加害者が絶対に悪いということも
何も変わりません。変わるはずがありません。

「最善」が殊更に強調されることによって、被害にあった人が責めなくていいことで自分を責めるようなことにはなってほしくないと、心から思います。

たしかに「あなたのその時の行動は、全て最善のものだった」という言葉は、
被害にあった人の尊厳を守れる側面もあると思います。
でも、
「あなたは悪くない」と「最善だった」の間にはとても大きな差があります。言葉の重さが、絶対的に違います。

だから、
わたしは、使わないでほしいと言いたいのではなくて
被害にあった人の心の声を、よく聴いてほしいと改めて強く思います。
何と声をかけるのが、その人の心にいちばん届くのか。その人を追いつめず、尊厳を守り、少しでも力になれるのか。

被害にあった人も、当然ひとりひとり全く別の人間で、
考えていることも、被害の受け止め方も
そして、聴きたい言葉も
みんな違うはずだから。


#MeToo


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