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75回目の終戦の日に思うこと


今日は75回目の終戦の日。


わたしは
今日のことを“記念日”と言わずにきた。
2年前にブログを書いたとき
そこに理由を詳しく書いたので
引用したい。

わたしはずっと
終戦「記念日」と言うことにとても違和感があって、そうは言わずにきました。
あの戦争を振り返るとき
どうしても
戦争が終わった日=記念日
とは思えなくて。
ただ生きているということ、それすらも喜んではいけない
生き残ったことを申し訳ないと思う
それがあの戦争でした。
(note「73回目の終戦の日に思うこと」より)

この言葉が出てきた背景には
2014年に東京新聞さんと一緒に
千鳥ヶ淵や戦災資料センターなどに行ったことがある。

あの日、
戦災資料センターで話を聞いた赤沢寿美子さんは
「うちは一家全員が助かったけれど、周りは空襲で家族の誰かが亡くなっていたから、申し訳なくて」
と口にしていた。
その言葉を聞いて心が痛かった。

その一方で靖国神社では
あの戦争は負けたところもあるが、勝ったところもある、と言う人。
当時の軍服を着て誇らしげに歩く人たち。
旭日旗を子どもに持たせる母親。
そのあまりのギャップに
くらくらしたのを覚えている。


でも、誰がなんと言おうと
わたしたちは再び同じ道に足を踏み出すことは、あってはならないと思うのだ。
誰がどれだけ美化しようとしても、
戦争は殺す側と殺される側が絶対にうまれる。
それを、わたしは絶対に“仕方ないこと”にも、過去の戦争を“仕方なかったこと”にもできない。

あの戦争で亡くなった命の重みを忘れたくない。
残された人たちの苦しみを考え続けたい。
生き残ったことすらも喜ぶことができず「申し訳ない」と口にした赤沢さんの苦しみに向き合い続けたい。


当時は
思ったことが自由に言えなかった。
この戦争は負けるのではないかと思っても
そうは言えなかったし
疑問を持ってそれを言葉にすることもできなかった。

でもいまわたしはそうではない。
「戦争はいやだ」と言葉にすることができる。
あの頃の人たちが言えなかったことを
いまわたしは言うことができる。

その自由と権利を
わたしは手放したくない。
だから
ちゃんと言葉にしていたい。

もし誰かがこの口を塞ごうとするのなら
それに全力で抗いたい。
だって
嫌なことを嫌と言えることは
簡単に手放せるものではないから。


終戦の日には、
いつも必ず赤沢さんのことを思い出す。
あのとき、赤沢さんはどんな思いで
その心の内を話してくれたんだろうと。
言葉にすることは、わたしには想像できないような苦しみがあったのではないか、と。
だから
あの日の赤沢さんとの出会いは
この先もずっと忘れずにいたい。絶対に忘れたくない。

忘れずにいること
そして、時々こうして書いて
その言葉を伝えていくことが
あの日、赤沢さんの言葉を聞いたわたしに、できることだし
きっと、
それが“戦争をしない明日”をこの先もつくっていくことに繋がると信じている。



写真は2014年の終戦の日に撮ったもの。
無断転載はご遠慮ください。



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