言葉の暴力で、人は簡単に死んでしまう。
昔、死のうと思ったことがある。
出口が見えなくて
もう、以前と同じ生活は二度と送れないのだと
すべてに絶望していた。
そう思った原因は
いろんなところに流されたデマと、エアリプで繰り返される誹謗中傷だった。
エアリプでの誹謗中傷やデマは
自分から訂正も反論もできない。
ただひたすら
広まっていく、事実と違う言葉たちを
見ていることしかできなかった。
誹謗中傷やデマの流布で
人は簡単に死ぬんだよ
簡単に、殺すことができるんだよ。
気にしなければいいとか
見なければいいとか言う人たちがいる。
でも、
あの時の、「病気だ」とか「嘘つき」というレッテルを
気にせずにいられるほど、わたしは強くなかったし
そんな強さは本来要らないはずだ。
いま、SNSで
嫌いだったり許せない著名人に対して
平気で酷い言葉を投げつけるひとたちがいる。
だけど
相手が誰であっても、言ってはいけないことはあるはずで、
匿名かどうかや、相手がどんなことをしている人かは、関係ないはずだ。
SNSでのエアリプも
リプライやコメントで直接投げつけられる言葉も
全部その瞬間は笑って傷ついていないフリをしたとしても…できたとしても
本当はすごく傷ついていて
それが積もり積もって
心が限界になってしまう。
見なければいいのに
何を言われているか気になって
わざわざ相手のアカウントを検索して
見に行ってしまうこともあった。
それで余計に傷ついていた。
わたしには、幸い
まわりに「死にたい」を「もう少しだけ生きてみようかな」に変えてくれるような人たちが居て
いま、生きている。
でも、あの頃のわたしは
「大丈夫」になる未来は思い描けなかったし
いまだって、もう大丈夫、とは言い切れない。
フラッシュバックも
また何か言われたらどうしようという不安も
5年以上たっても、頻度は減ったけれど、ある。
あの日々は、
忘れたくても、簡単には忘れられなくて
思い出すたびに気持ちがマイナスに引きずられそうになる。
わたしがあの時死なずに、いまを生きているのは
わたしが強かったわけでもないし
あの日々を乗り越えられたからでもない。
本当に死を選んでしまう人と
何とか踏みとどまっていまを生きている人とは
「紙一重」だと思う。
言葉には、それだけのチカラがある。
どん底にいる人間を救うこともできるし
一歩踏み出す勇気をくれることもある。
でも
誰かを殺すことだってできる。
そのくらい言葉には重みがあって
相手の心にいつまでも残るのだ、ということを
わたしは忘れずにいたいし
ひとを傷つけて笑うような人間にはなりたくない、と改めて思う。
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