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【人を裁かないものとなる】240218礼拝メッセージ

「人を裁かないものとなる」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 06章 37節
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。

今日のテーマは裁きです。
裁き。

人を裁く、というと裁判所のような厳粛な場をイメージし、少し怖いような感じがしますが、実は私たちは、日常的に人を裁くということをしています。
たとえば、政治家の不正金についてや、芸能人のスキャンダルなどのニュースが報道されますと、それに対して多くの裁きのメッセージが飛び交うようになります。炎上するのです。
なぜあなたはそんなひどいことをするのか、こんなことができるのか、まったくひどい人間だ、などと人を断罪していく。
現在誰でも気軽に自分のコメントが発信できる時代だからこそ、このようなことがしやすくなってしまいました。

ある脳科学者が書いたこんなタイトルの本があります。
「生贄探し」
人は放っておけばだれか生贄を探してしまう生き物であると。
誰かを吊し上げて、批判していく、火炙りにするのです。
一つの失敗を元に、断罪していく。
こういう時代を私たちは今生きているのです。

しかしキリストは聖書を通して私たちに今日も言います。
人を裁くな、と。

この断罪しやすい世の中でも、キリストは、裁いてはならないと私たちに語りかけられるのです。
本日は「裁かない人」をテーマに、3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1、
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1つ目のポイントは、裁かない人とは、他人を罪人と決めつけない人のことである、ということです。

聖書での裁き、というのは、基本的には神のみがするという理解が土台になっています。
神が人を裁く、、、特に終末の時に、神が私たちを罪人かそうでないかを判断されることです。
それによって死後の世界、その人が永遠に生きる行き先が決まるのです。
神の判決、裁きが決まると、それ以降その判決はひっくり返されることはありません。
なぜなら神の裁きは完全、完璧であるからです。
神の裁きとは一度なされたら動かすことはないのです。
この理解が聖書の裁きの土台となっています。

今回の箇所の「裁き」を聖書辞典で調べると次のように書いてありました。
「この裁きというのは、人を非難し決めつけることを意味する」と。
人の欠点やできないこと、不足を理由に、あの人はこういう人だ、と決めつけ他人を責め立てることです。

つまり、キリストが言われる「人を裁くな」というのは、私たちが日々の生活や社会における一切の判断をやめて思考停止することではなく、その人のできないところや、欠点、失敗などをみて、それだけでその人の人格全てを非難するような裁きをするのはやめなさい、ということなのです。

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2、
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2つ目のポイントは、人を裁かない人とは、自分が神に裁かれていないことを知っている人、ということです。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 06章 37節
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。
38:ルカによる福音書/ 06章 38節
与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。

この37、38節は、こちらが人を裁かないなら、向こうの人もこちらを裁かないというような、人間同士の事を言っているのではなく、神との関係に対して言っていることなのです。
「人を裁くな、そうすれば、あなたは神によって裁かれない。
人を罪に定めるな、それは、あなたは神によって罪に定められない。」と。

これは一見すると、私たちが人を裁かないようにするという、立派な人になったら、その功績に免じて神が私たちのことを赦してくれる、とも読めますがそうではありません。
そもそもキリストがこのことを語っている相手は、弟子達です。
すでにキリストを救い主として信じ、神の子となり、今や神に裁かれずに罪赦されている者たちに言われていることです。

だからキリストのこの37、38節の言葉は、言い換えると
「あなた達は、神の憐れみによって、今や罪赦され、神に裁かれない者達である。
だからあなた達は、神に裁かれず赦された者として、人に対して裁くことや他人の欠点をあげて、罪人として決めつけることはせずに生きよ」
このようにキリストは言われるのです。

もし私たちが、ある人を裁き、この人はもうどうしようもない奴だと決めつけて断罪してしまった時に、同じような基準で、神が私たちの行動や態度を見て裁いたならどうなっていたことでしょう。
神が悪い行動や悪い想いをご覧になって、その時点でこの長瀬雄大はもうどうしようもない奴だ、もうこいつは救いようの無い奴だと、判決されていたらどうなっていたかと思うのです。
おそらく私たちは誰一人救われなかったでしょう。

しかし神ご自身、私たちに判決をすぐに下さずに、決めつけずに、忍耐し、愛をもって私たちのことに関わり続けて下さった。
だからこそ、私たちはその中で、イエス・キリストと出会い、救い主として信じ、キリストの十字架と復活によって今や私たちは神に裁かれず、罪に定められずに、赦されて、キリストの命を与えられたのです。
慈しみ深い神が、私たちをこのように愛された。

だから神が私たちを憐れみ、すぐに裁かず忍耐を持って接して下さったように、私たちも他人に対して、ある悪い行動や欠点だけを見てこの人はダメな人、罪人だとは決めつけずに、神と同じ愛なる眼差しをもって、私たちも人に関わっていくのです。

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3、
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3つ目のポイントは、裁かない人は、キリストに訓練され続ける人である、ということです。

41:ルカによる福音書/ 06章 41節
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
42:ルカによる福音書/ 06章 42節
自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」

私たちはついつい人を裁き、罪人だと決めつけやすいものです。
それは他人の目の小さなおが屑、別訳ですとチリ、他人の目にある小さな小さなチリが気になって気になって気になって仕方ないから。
だからついつい指摘したくなってしまうものです。

しかしキリストから言わせれば、他人の小さなチリはよく見えるのに、実は自分の目には、そのチリの何万倍も大きい梁、、、梁というのは、家を支える大きな柱です、別訳では丸太とあります。自分の目に丸太が入っていると言うのです。
目に丸太が入っているというのは、その人の目は塞がれていて実は何も見えていないということです。
私たちは、他人の小さなチリ、おが屑がよく見えて、あなたはこれができていない、あれができていないと指導できると思っているけど、実はその人の目は丸太で塞がっていて何も見えていないというのです。

こういったことは私たちの日常でもあると思います。
重箱の隅をつつくように、部下のことをあれこれ批判している人、、、「プリントの位置が少し曲がっているね、やり直し」「あの書類の提出はまだ?」など何回も言ってくる上司が、実は肝心な書類をさらに上の上司に提出し忘れて、怒られている姿を見ると、ちょっとプププと思ってしまいますが、これは他人事ではありません、私たちの姿でもあるのです。

以前、子どもがテスト勉強をせず、ゲームをこっそりやっていて、コラーと厳しく叱っていたら、妻に、確かに勉強してほしいけど、あなたも学生の時、こっそりゲームとかしてたでしょ?と諭されました。
確かに自分も親の目を盗んでゲームばかりしていたな、と。
でもそんなことはすっかり忘れて、目の前の子どもの行動をつい指摘しまうのです。
そう、私たちは自分の丸太のことに気付かずに、他人のチリばかり目についてしまうのです。

このことをキリストは他にたとえて言われました。
ルカによる福音書/ 06章 39節
「盲人に盲人の手引きができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。

自分は相手のことがよく見えていて、目に入っているチリもきちんと見えているから指導してあげる、と思っていても、実はその人の目には大きな丸太が入っていて、本質が全然見えずにいる、、、それはまるで盲人が盲人を手引きしているような姿であるとキリストは私たちに伝えるのです。
「あなた達は、そんなに人のことがよく見えると思っているのかい?
相手の表面的な行動や言動だけで判断して、相手のチリが見えているつもりかい?」と。

神であるキリストから見たら、その人の悪い行動などが一体どのような経緯から出たのか、を全てご存知であるのです。
その人がどのような生い立ち、環境で育ち、過去にどんな心の傷を受け、そして今を必死で生きているか、それでもやらざるを得なかった行動がある。
このように、その人の過去から今までのことを全てご存知のキリストから見たら、表面的なところを見てすぐに決めつけ裁いてしまう私たちの姿というのは、全くその人のことを見えていない、盲人のように見えているのです。

だからキリストは言われます。
42節真ん中、 まず、自分の目から梁を取り除け、と。
まずチリの何万倍も大きい、あなたの目にあるハリ、丸太を取り除きなさいと言われるのです。

この梁、丸太は、相手のことがよく見えていると思い込んでいて、自分の判断が一番正しいと思っている罪のことです。
自分の善悪が一番正しいと思うことによって、簡単に相手を断罪すること、あの人はこういう人だと決めつけていく、、、これが私たちの罪です。
この私たちの罪が、丸太が、周りを見えなくさせる。

この丸太のような罪は、キリストによってしか取り除いてもらうことはできません。
神であるキリストと出会い、キリストの前に立つときに、今までは周り人を裁いて、自分はあの人たちと比べたらまだマシ、良く見えていると思っていたのが、聖い神の前に立つ時、自分こそが罪人であり、丸太があって全く周りが見えていなかった盲人であることを知るのです。

これは、社会的に悪いことをしている人がいても裁かずに見過ごすことを意味するのではありません。
社会的制裁はきちんと執行する。
しかしその裁きは私たちではなく、第三機関がやること。
社会的な制裁は第三機関に任せ、私たちは、例え法律上、有罪だと判決を受けた人であっても、神が罪人である私たちを見捨てずに関わり続けて下さったように、私たちも、慈しみをもってその人たちと関わり続けていくのです。

そしてキリストは言います。
40:ルカによる福音書/ 06章 40節
弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる。

ここでの師とはキリストのこと、そして弟子というのは私たちキリスト者の事です。
私たちは、師であるキリストを超える者ではありません。
私たちにとってキリスト以上の師匠はいないからです。
このイエス・キリストという師匠に私たちはついていけばいい。

そして、私たちはこの師であるキリストから訓練を受けるのです。
この訓練という言葉は、実は医学用語で、整骨するという意味があります。
骨を整える。
背骨など曲がった骨をきちんとまっすぐに整えるように、私たちは生涯かけてキリストによって訓練され、整えられていくのです。
曲がった見方をしているところを整えられていくのです。
その結果、私たちは憐れみ深いキリストの似姿に変えられていく。
時間をかけて私たちは、師であるキリストの姿になっていくのです。

・証
私は、発達障害の子を持っています。
このような気質の子を持つことによって、私は今まで見てきた世界が大きく変わりました。
若い頃の私は、その時の職場が非常に結果主義であり、数字が全ての世界だったので、その影響か、他人の日常の行動も結果で判断されるべきという考えが強くありました。
どんなに一生懸命頑張ろうと、思いがあろうと、結果がダメなら評価されない、と。
そのような世界に生きていた若い独身時代の私は、多動症の落ち着きの無い子どもを電車などの公共施設で見た時、単にだらしのない子、親の躾がなっていない、とどこか冷ややかな目で見ていました。

しかしいざ自分が発達障害の子を持って深く関わることによって、そのような考え方が変わっていきました。
このような子達は、一見騒がしくして輪を乱しているように見えても、それは彼らなりのやり方でその場に馴染もうとしている、精一杯頑張って必死で生きようとしている、そのような事を私は段々と知っていきました。
発達に凸凹があることで、言葉の意味がすぐには理解できなかったり、ものすごい苦手だったりと、実は私たちの見えないところで非常に困難を抱えながらも精一杯生きていている。
そんな中たまたま一息つき、羽目を外しているところを見てしまって、その瞬間だけをみて、この子は悪意があって輪を乱しているに違いないと裁き、決めつけていた過去の自分の姿を知るのです。
相手のことがよく見えているつもりが、相手の目にあるチリが良く見えていたつもりが、実は全く見えていないかった。
自分の裁きがいかに、表面的であり、相手の背景、事情、心の動きが見えていなかったか段々と気付かされていく。

みなさんも似たような経験があると思うのです。
昔、どこかで冷ややかな目で見ていた人たちに対して、年を重ね、経験を積み、様々な人と関わることによってその人達の見方が変わり、接し方が変わっていくことがあると思うのです。
このように私たちは、キリストによって訓練され、整えられていく。

そしてこのキリストによる訓練の中で私たちは、他人の目にある小さな小さなちりを見て単に指摘するだけの人を裁く人になるのではなく、目にチリ入って痛がり苦しんでいる人の元に行き、チリを取り除いて助け、一緒に寄り添いながら歩んでいく者となっていく、、、これがキリスト者の姿なのです。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 06章 37節
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。

今日は裁かない人をテーマに見てきました。
1、裁かない人とは、他人を罪人と決めつけない人である
2、裁かない人とは、自分が神に裁かれていないことを信じる人のこと
3、裁かない人とは、キリストに訓練され続ける人である、ということです。

キリストは言われます。
「私の十字架と復活によって今や裁かれずに赦されているものよ。
私が憐れみの眼差しをもってあなた達と関わってきたように、あなた達も他人のチリを見て裁くのではなく、むしろ痛がり苦しんでいる人の元に行き、チリを取り除いていきなさい」と。

だから私たち教会は、キリストによって今や裁かれず罪赦された者として、人を裁かず愛をもって関わり続けていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちの視野の狭さをお赦しください。
相手の目にあるチリがよく見えている、相手の欠点を良く知っている、と思い込んでいる私たちが一番見えていない者です。

しかしこんな私たちをあなたは裁かずに赦して下さいました。
どうか私たちが、ただ相手を断罪するだけの者になるのではなく、憐れみの眼差しを持って関わり続ける者とならせて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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